第210話 魔神の軍勢③ 裏切り者たち

〈アナトとヤバル、ティムガの草原にてアドラムを迎え撃つ〉


「ヤバルよ、なぜ、お前がここにいる」

「当然だ。ハドルメの失態はハドルメで挽回する」

「ほう、殊勝なことだ。しかしてっきりバルアダンの方についていったのかと思ったぞ」


 アナトは挑発するような視線と口調をヤバルに向けた。ヤバルは怒りを込めた目で、だが静かにアナトを睨み返す。


「……ここが一番危ないからな」

「違いない」


 アナトは苦笑して迫りくる魔人と魔獣にその視線を移した。ヤバルはどこかでバルアダンに叛旗を翻すに違いない。しかしこの男は正面から挑みかかってくるだろう。不器用な男だ、アナトは自分の事を棚に上げて目の前の男をそう評価した。


 大型の魔獣に座したアドラムが獣のような雄叫びをあげて二人に肉薄する。アドラムは魔獣の上から巨大な戦斧を振りかざした。あの小うるさいアスタルトの大神官め、その叩き潰した頭蓋を持ってバルアダンの眼前に放り投げてくれよう、そうアドラムは舌なめずりをし、自分の勝利を確信して戦斧を振り下ろした。


「俺の斧を受け止めただと!」


 アドラムの狼狽の声が辺りに響く。アナトの権能杖がアドラムの戦斧を受け止めているのだ。そして小煩げに杖を払ってアドラム自身を後退させる。力を必要以上に込めて更に数合撃ち合うが、アナトの甲冑にさえその斧は届かないのである。

 アナトは長身ではあるが巨躯ではない。それが魔人であるアドラムと互角に打ち合っているのだ。後列の歩兵からの歓声は次第に大きくなり、それに反するようにアドラムの戦意はしぼんでいく。タダイにそそのかされ、命の危険を冒して神の力を得たというのに目の前の男にさえ届かないではないか。


「アドラムよ、所詮はお主は貴族のおぼっちゃんだ。ほれ、自らの騎獣が血を流して呻いていることに気づかないのか」


 ヤバルの言葉に慌てて魔獣を見やると、そこには腹部に大きな穴をあけ、恨めし気に主人を睨みつける獣の目を牙があった。


「力あっても技量と経験がそれに伴わないか」


 アナトは月の祝福で大地に無数の土槍を出現させていた。大地から突き出された槍は魔獣とアドラムの戦斧の勢いを減じさせていたのである。そしてアドラムの魔獣だけでなく、彼に続く騎兵と魔獣を傷つけ、足止めに成功していたのだ。

 血を流した魔獣は始めは怒りの声をあげるのだが、続いて背後から迫るバルアダンとその騎竜であるタニンを見て悲鳴へと変わっていく。


「騎士団よ、私に続け!」


 バルアダンの声に騎士団が喊声をあげ突進していく。およそ百騎で数倍の魔獣に挑む彼らを見て、クルケアンやハドルメの要人たちは頭を抱えて座り込んだ。獅子よりも大きく、また獰猛である魔獣に、どうして彼らはあのように無謀な突撃ができるのだろう……。アスタルトの歩兵と騎兵団は知っていた。しかし要人たちは知らなかったのだ。かつて数万の魔獣の軍勢に突撃し、勝機を実力でもぎ取った男達がいることを。


「歩兵第一陣、密集形態で前進せよ。最初の一撃を与えた後は散兵となり、小隊毎に王が追い込んだ魔獣をしとめよ。第二陣は続いて前進、密集形態を維持し、第一陣を抜けてくる魔獣にあたれ。第三陣はそのまま待機、高台の土城にいるクルケアン、ハドルメの要人を守るのだ!」


 サリーヌが上空から歩兵に次々と指示をしていく。彼女の声に従って歩兵の第一陣、約五百が前進を始めた。魔獣は後方から迫るバルアダンと騎兵に追い詰められ、今度は前方に現れた歩兵が繰り出す槍で失血していくのだ。それを突破しても目の前に現れたのは無傷の第二陣であった。


「何故、魔獣相手に怖れを抱かぬ。何故、その魔爪におびえを抱かぬのだ!」

「アドラムよ、経験は大事だということさ。アスタルトの軍は魔獣と魔人を殺すのだ。貴族というだけで前線に出たことのない貴族には分かるまい」

「……我が騎士よ、魔獣を率いてギルアドの城へその進路を取れ!かの城に立て籠もり、増援を待つのだ!アナトよ、いずれその首、俺がもらい受ける。それまで短い余生を楽しむがよい」


 幸か不幸かアドラムは将として最低限の才覚は持っていた。ヤバルと数合を撃ち合い、彼の身が引いたと同時に、西へ向かって部下と魔獣を疾駆させたのである。勇猛で知られたヤバルらしからぬ消極的な斬り合いに、三人の人物が疑惑を抱いた。一人はアナト、一人はサリーヌ、そして最後の一人は妻であるイスカであった。そしてイスカはある考えに捉われ、震える手を押さえつけるようにエリシェの手を握った。


「イスカ、安心してください。ヤバル殿は無事ですよ」

「あぁ、ヤバル、あなたは、あなたは……」


 エリシェたちの眼下を魔人と魔獣が横切っていく。アドラムは正面にティムガの川岸が見え、対岸のギルアドの城の姿を認めた時、まだ勝機が自分にあることを知った。魔獣はともかく麾下の騎兵はまだ失っていない。あの城さえ占拠してしまえれば勝機はあるのだ。


「タダイの奴、何をしているのだ。早くバルアダンの後背を襲うなり、こちらと合流するなり……」


 アドラムが遂にティムガの河畔に到達した時、彼は求めるべきものを目の前に見た。タダイがバルアダンの本軍から離脱し、神官兵を率いてアドラムの軍の頭を押さえたのだ。兵たちには戦術的な包囲に見えただろう。実際、やや高台に位置するエリシェたちからは歓声が上がっていた。北からバルアダン、東はアナトとヤバル、南はエリシェ、そして西からはタダイがアドラムを取り囲んでいるのだ。


「タダイ、やっと来たか、さぁ、ギルアドの城に拠ってあのお方の軍を待とうではないか」

「……もう少しバルアダンの軍を掻きまわすと思っていました」

「こちらも予想外だ。アスタルトの兵らはおかしい。まるで魔獣の軍勢と戦った経験があるかのように応戦しおる」

「成程、迷い人であればそれもあり得るか。アスタルトめ、想像以上に厄介な存在だ」


 タダイは馬上から長剣を抜き、アドラムにその切っ先を向けた。その顔には弱きものを労わるかのように優しい笑顔が張り付いていた。


「タダイ、どうしたのというのだ。……そうか、まだバルアダンの味方を演じ続けているのだな。ならば私に負けたふりをしてギルアドの城に逃げ込むのだ。やつらとて同盟者を救わんと門を開けるであろうよ」


 そして私の軍も城に突入をしよう、そう言葉を結ぼうとした時、アドラムは頸部に熱を感じた。


「は?」


 心臓の鼓動に合わせて鮮血がアドラムの首から吹きこぼれる。アドラムが知覚できているのは只二つ、目の前の笑顔の男と、彼が持つ血塗られた剣であった。


「ご安心を、アドラム殿。神々から与えられた貴族本来の役目を果たしてもらうだけです。御身は始まりの八家、神々が復活の時のために用意された器であられるのだから」

「な、何だと……」

「苦しくないでしょう? そろそろ奥の院で貴方に注いだ神の魂が全身にいきわたっているはずです。邪魔な貴方の魂を血と共に流してしまいましょう。貴方の体と精神は残るのですから安心しなさい」


 アドラムが言葉を理解するのにしばらくの時間がかかった。やがて自分が利用されていたことに気づき、怒りで肩が震えだす。


「貴族は、貴族はそれだけのために存在していたとほざくか! それも英雄の子孫ではなく、ただの神の器として利用されるためだけに」


 魔人は怒りの咆哮とともに戦斧をタダイに叩きつけた。受けとめられず、片脚をついたタダイに止めを刺そうとした時、追いついたヤバルが剣で背中を貫いた。


「ヤバル、薄汚いハドルメの民め、バルアダンの背を狙うのではなかったのか」

「あぁ、そのつもりだ。だが奴にはまだ数歩及ばぬ。だからこそ神の力を見せてみよ。その力を我が物にして、約定通りバルアダンを葬ってやろう」


 タダイは苦笑する。何とヒトは強欲なのか。これでは広寒宮の支配を欲する神と変わらない。畢竟、その思考において神とヒトに違いなどないのだ。あるとすれば不死の神と、子に託さざるを得ないヒトの命の短さであり、それは蟻と鷹の視点の程の違いがあるのだ。


「アドラム、お主の子供は生かしておいてやる。今後もクルケアンに供物を捧げ、完全なるイルモート神の復活のためにな」

「おのれ、我がカフ家までも利用するのか!」


 アドラムは首と胸から血を吹き出しながら、タダイとヤバル、そして神々を呪詛するが、やがてその言葉は聞き取れなくなるほど弱くなり、やがて、どう、と音を立てて地に伏した。


「タダイ様とヤバル将軍が魔人を倒したぞ!」


 アサグは高台の土城において兵らの歓呼の声を、何となく落ち着かない様子で聞いていた。アスタルト軍の強さは予想以上だが、如何に魔獣とはいえ敵の数が少なすぎるのだ。タダイがアドラムの死を確認するようにその胸に手を置いたとき、淡い光が発し、死んだはずの男が立ち上がったのだ。


「魔獣どもよ、我が血肉となれ」


 虚ろな目をしたアドラムが静かに魔獣に命じた。魔獣たちがその身を差し出すかのように男の剣に突き立てられ、血しぶきを浴びては魔人は恍惚の笑みを浮かべている。おぞましいその光景に衆人が目を逸らし、再び視線を戻した時、其処に立っているのは一アスク(約七・二メートル)もあろうかという巨人の姿だった。


「……ダゴン神」


 エリシェが驚いたように呟き、トゥグラトは彼女の言葉を聞き逃さなかった。

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