第209話 魔神の軍勢② 嘘
〈エリシェ、魔獣の軍勢を目の当たりにしながら〉
「イスカ様、いいえ、イスカ! 私達は早く避難しましょう。ニーナ様がギルアドの城に向かわれるとのこと。さぁ、同行を!」
「いいえ、エリシェ、私は去りません。私とてハドルメの将軍の妻。戦地において足手まといになることはありません。それより貴女の方こそ早く避難をしなさい」
「そんな、わたしだけが逃げるなどと!」
「責任の問題です。ハドルメから襲撃者を出したのは事実。なればこそ私は此処に残るのです」
「では、目の前の敵将はクルケアンの貴族です。わたしもここに残りましょう。イスカ、貴女とお腹の子を守るためにも」
「……ありがとう、エリシェ」
わたしはアサグに目配せをし、そしてトゥグラトに声を掛ける。
「トゥグラト、わたしと共に両国の要人の護りをお願い。何か、何か嫌な予感がするの。襲撃者といい、魔獣の軍勢といい、まだ何かが起きるような気がする」
「わかった、あの魔獣に回り込まれたら厄介だ。兄さん、神官兵を軍の最後衛に配置します。兵への下知は兄さんで――」
トゥグラトの言葉が詰まった。どうしたの、という声を飲み込んで彼と同じ方向を見やると、そこには怯える神官兵たちがいたのだ。無理もない、兵の内、精鋭はタダイが率いて迎撃に向かっていて、ここにいるのは見習いの子供たちと急遽呼び出された予備役の高齢の者たちだ。アサグとトゥグラトが神の祝福を説いて懸命に叱咤しているが、神の愛に目を向けるより、よりいずれ迫るであろう魔獣の牙に彼らは目を背けているのだ。
「クルケアンの神官兵たちよ!」
気づけばわたしは叫んでいた。怯える人、助けを求める人を見るとどうしても放っておけないのだ。要するに魔獣より強い印象を与えればいいのだ。神としての権能を使いティムガの河の水を氾濫させ、大地を抉り、瞬時にして堀を作る。
「見よ、わたしの祝福を! 魔獣を恐れることはない。ここを城として王の軍勢が勝利するまで持ちこたえるのだ!」
「これほどまでの祝福をお持ちなさるとは……。おい、みんな、エリシェ様はただの悪戯娘ではないぞ!」
「え?」
「あぁ、あのクルケアンの悪童が、今では神様に見えるわい」
「エリシェ姉ちゃん、もしかして浮遊床で滑って遊んでいたのもこの祝福なの?」
「そういえば、神殿が何回か謎の水浸しの被害を受けていたな」
「さ、さぁ、ここがわたし達の神殿よ! 皆がいつも過ごしている場所だと思ってね。見習いの神官は弓矢の運搬や城壁の弱いところを補修して。お爺ちゃんたちは土壁の防御にあたって。いい、みんな、守り抜くわよ!」
歓声がわたしとトゥグラト、アサグに向けられた。……多分、言葉はともかく心情としてはわたしを讃えてくれているはずだ。うん、そう思いたい。大声を出してへたり込んだわたしにトゥグラトが笑って手を差し伸べる。
「やっぱりエリシェはすごいな。どんな時でも皆を味方にする。これは神殿長の座を譲らないといけないかな」
「いえいえ、エリシェには将軍の地位がふさわしいのではなくて?」
「イスカ、わたしは淑女なのですよ!」
「はは、淑女のエリシェなんて想像できないや」
「なんですって!」
トゥグラトの頬を思いっきりつねると、それを見た兵たちが笑いながら手を叩く。
「さぁ、将軍に逆らう愚者はあのようになる、神官兵よ、覚悟はいいな!」
アサグの言葉に全員が手を挙げて応え、駆け足で持ち場に向かっていった。何となく釈然としないものの、結果的に良かったのだと思うことにする。トゥグラトをつねったままであることを思い出し、慌てて彼を開放する。そう、淑女はいつまでも過去にこだわらないのだ。まぁ、せめて彼の言い訳を聞こうとしたとき、様子がおかしいことに気づいた。トゥグラトがわたしを見つめている、しかし遠い何処かを向いているようなのだ。
「トゥグラト?どうしたの」
「いや、まるでエリシェが女神様みたいだな、と思ってね」
「淑女から女神様? そ、そんなんじゃ私の機嫌は取れないわよ」
「いや、例えではなく、何か昔、そんなことがあったような。……そう、広い宮殿だ。王? いや違う、あれは誰だ……」
「トゥグラト!」
わたしはトゥグラトを抱きしめた。昔の記憶なんていらないのだ。イルモートとしての辛い記憶なんかいらない、思い出させたりなんかしない。そのかわり、何度生まれ変わったとしてもわたしは必ずあなたを見つけて、その側にいるから。だからそれ以上は思い出さないで……。彼の頬を手で包んで、安心させるように私は作り笑いを浮かべた。
「戦いの前で混乱しているのよ。でも私が女神様という表現は受け入れてあげる。だって、この戦いの勝利の女神はわたしなのだからね。……いい、トゥグラト、まずは目の前に集中しよう。思いつめるなんてらしくないよ」
「そう、そうだね。君の言うとおりだ」
トゥグラトはわたしの手を取り、そして指をわたしの唇に当てながらすこし悲しそうに笑った。
「よし、まずは僕の祝福で土壁を固めてくるよ。火と修復が僕の力だからね!」
「そうね、ではトゥグラト将軍、アサグ将軍と共に城の護りを固めよ」
「承知仕った、大将軍」
あぁ、トゥグラト、イルモートの力は火と修復ではないの、遠ざかる彼の背中に向けてわたしは心中で呟いた。イルモートの火の力は世界を、神を滅ぼす力、そして修復する力は世界を作り替える力だ。彼の本当の肉体が封じられているため本来の力は出せないとはいえ、わたしは彼にその力を使って欲しくはなかった。彼を見つめるわたしの視線に気づいたのか、イスカが心配げに肩を寄せる。
「エリシェ、彼に嘘をいっていない?」
「イスカ、トゥグラトに嘘をいう必要はないわ」
「嘘をいうとき少し口をすぼめる癖があるわよ。気を付けた方がいいわね」
「そ、そう? でもトゥグラトは鈍いから大丈夫よ!」
危ない、危ない。嘘をつく時の表情の練習をしなくては、と顔を叩いていると、イスカが呆れたように、そもそも嘘をつかなければいいじゃない、といった後、白い歯を見せて笑った。わたしが反論しようとした時、物見の兵が大声で戦況を報じた。
「魔獣と王の軍勢がぶつかる……!」
兵がざわつき始め、正面の戦局を固唾を飲んで見守っている。
「見ろ、バルアダン王が魔獣の軍勢の中央を突破していくぞ」
「いや、おかしい。カフ家のアドラムがいない、奴は先頭でこちらに来ていたはずだ」
見ると魔獣の軍勢は移動をしながらこちらの左翼に向けて陣営を厚くしている。左翼を突破し、川と反対側の移動がしやすい場所から背後を取るつもりなのだ。対するバルアダン王も、ハミルカルに騎乗しているサリーヌと共に戦況を掴み、右翼から回り込んでその背後を取ろうとしている。そして後列の歩兵が盾となってアドラム正面に立ちはだかっていた。ここで時間を稼げば王が反転して挟撃ができる。高台から見下ろしていたわたし達は安堵と興奮のあまり、剣や杖を銅鑼替わりに打ち鳴らした。
「兄さん、左翼から回り込んでくるのがあのアドラムでしょうか」
「そうだ。どうやら魔人となっているようだ。封印したはずの奥の院に、やはりまだ誰かが関係しているらしい。しかも私が戦った前任の神殿長よりも禍々しい。これは歩兵が突破され回り込まれるのはこちらではないのか、いや、最悪の場合は魔人がこちらになだれ込んでくるやも知れん」
「トゥグラト、アサグ、アドラムの正面を見て! 歩兵の前列に二人、進み出たわ」
わたしは目を凝らしてその二人の人物を確かめる。その二人は黒い波のような魔獣の大群を前にして恐れている様子が微塵も感じられない。一人は黒い甲冑を着込んだアナト様だ。神獣に乗り、権能杖を槍にして泰然と構えている。バルアダン王と互角ともいわれている彼のことだ。きっと王と打ち合わせ済みでこの場所にいたのだろう。そしてもう一人、アナト様の隣で部下を従えて立っている男は……。
「ヤバル!」
わたしの耳元でイスカの叫び声が上がった。
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