第205話 子に託すもの① 新しい家族の君に

〈ヤバルとイスカ、ギルアドの城にて〉


「ヤバル、あなた体調が悪いのではなくて?」

「イスカにはそう見えるのか、私は気分がとてもいいのだがな」

「……目が少し充血しているようです。それに苛立っているように感じます。先も訓練場で兵を必要以上に打ちのめしておられました」

「ふん、ハドルメは兵を土台にできた国よ。弱兵では意味を成さぬからな」

「バルアダン王のおかげで戦争は遠ざかりました。もう平穏な時を過ごしてもいいのでは? この子には平和な世界に生きて欲しいのです」


 イスカは胎内の子を慈しむかのように自分の腹部を撫でた後、背を屈めて苦しそうに咳き込んだ。ヤバルの目から充血が消え、夫の顔に戻って想い人の背を優しく擦る。


「イスカよ、安心しておくれ。もうすぐ薬が手に入りそうなのだ。きっとお前も子供も助かる」

「魂を侵食する魔障の症状を治す薬なぞありましょうや。せめて私の体が動くうちにやや子を産みとうございます」

「その薬が手に入るのだ。西方諸都市からの神薬が今少しで届く。これは気休めではないぞ。‥‥安心して私たちの子の名前を考えておいてくれ」

「ふふっ、嬉しゅうございます。実はもう名前は考えているのです」


 気の早い事だ、とヤバルは目を細めて笑った。まだ男児か女児か分からぬというのに妻はもう名前を決めているという。


「こんなに元気にお腹の中で動いているもの、元気な男の子に決まっています。貴方に似て逞しく育ってくれるでしょう」

「そうであれば共に馬でティムガの草原を駆けることができるな。しかし女の子の可能性もあるぞ? イスカよ、お前のお転婆ぶりは周知のことだからな」

「いやなヤバルったら」


 ギルアド城の客人であるエリシェは若い夫婦の笑い声をその扉の前で聞いていた。邪魔をしてはならないと、そっと部屋から遠ざかる。


「やはり人は素敵ね、兄さんにそっくりなバルアダン王の婚姻の儀も素敵だったし。そうは思わない、アッタル?」


 エリシェがそう呟くと壁の松明の影から長身の男が現れた。それはクルケアンの大司祭であるアサグの姿であった。


「エルシード様、その名を口に出されますな。今の私はアサグであります」


 精神を広寒宮の外宮に置き、魂と肉体のみ地上へ降ろした彼らは、この時代にあってエリシェ、アサグと名乗っていた。ガドたちと共に時を越えようとしたのだが、彼らは外宮の精神に引っ張られ、仲間と離れ離れとなってこの時代に降り立ったのである。


「アッタル、ガドたちは無事に戻れたのかしら」

「エルシード様、時と空間が不安定な天と地の狭間では、縁が強い世界に引っ張られまする。恐らく大丈夫かと」

「この時代は、あれから数十年は経っているのね。魔人との戦いが終わり人が増え、町が発展しているわ。イルモートは何処にいるのかしら」

「……我らと違い肉体を持たぬイルモート様は、人の子にその御霊を宿すでしょう。そして赤子であれば魂と精神により、新しい肉体もイルモート様の容貌に近づいていくはず。エルシード様はしばらくお眠りになってお待ちください。人が入れぬ海底の神殿なら安心です」

「貴方はどうするの、アッタル」

「私はこの世にとどまり、生まれたイルモート様を探します。そしてエルシード様とお引き合わせいたしましょう」


 こうしてエルシードは転生したイルモートと再び家族になるために海底の神殿で眠りについたのである。アッタルはアサグとして名を変え、クルケアンの神殿の小僧として働き始める。ヒトを見下していた彼ではあるが、ガドたちとの交流でその気持ちは氷解し、受け入れられるほどに余裕ができていたのだ。

 やがてアサグはその勤勉ぶりに目を付けた有力者に引き取られた。一年が過ぎた時、アサグはその家の主人に呼ばれ私室に招き入れらた。そこには主人夫婦と元気な鳴き声を上げる赤子がいたのだ。


「アサグ、我が家に家族が増えた。兄としてこの子を見守っていて欲しい」

「旦那様おめでとうございます。しかし兄とは恐れ多い」

「何を他人行儀なことを。君には神官としての力が十分にあるし、また小さな子への面倒見もいい。君がこの家の家族であることに私は嬉しく思っているのだよ」


 ただし、横柄な役人に正面から喧嘩を吹っ掛けるのは、神官としてもう少し偉くなってからだよ、と主人はやさしく笑って肩に手を置いた。赤面するアサグに母替わりの女性は赤子を差し出した。


「ほら、アサグ。手を出してあなたの弟を抱いてあげて」


 恐る恐る受け取ったアサグは、赤子を必死にあやしはじめる。なんという弱い生き物だろう、なぜ言葉をかけ、目を見てあげないと泣き叫ぶのだろう。


「ほら、アサグお兄ちゃんと目が合った。良かったわね、トゥグラト」


 赤子はアサグと目を合わせた後に泣き声を笑い声に変えたのだ。魂に電撃が走ったかのようにアサグは呆然とする。初めて会った知らぬ男の作り笑いに、赤子は全幅の信頼を寄せて笑顔で返してくれくれたのだ。何という無邪気な、そして愛らしい笑顔だろう。ヒトとはかように美しいものなのか。気付けばアサグは涙を流していた。


「あらあら、今度はお兄ちゃんが泣いているじゃない」

「アサグ、トゥグラトを頼むぞ。いや違うな、一緒にこの子を見守っていこうな」

「はい、父さん、母さん」

「あなた、アサグが私たちのことを父さん、母さんって!」

「今日はお祝いだな。私たちに可愛い二人の子供ができたのだから」


 主人夫婦に抱きかかえられながら、アサグは涙を流し続けていた。


 エルシード様、私も人になりとうございます。いや人になったのだと思います。早く、早くこの喜びを伝えたい‥‥。


 数年が過ぎ、アサグは神官見習いとして頭角を現し始めていた。家族や神殿の期待を受けてやがて彼は正式に神官となる道を選んだ時、兄の後ろをついてくるトゥグラトに、アサグはイルモートの面影を見出したのである。運命を司る神の加護か皮肉か、以前の主人の一人が弟であることに困惑しつつも、彼は弟として時に厳しく、時に甘くトゥグラトに接していく。それは自分が家族の在り方として望んだことでもあり、かつてイルモートが願っていた人としての望みでもあったからだ。


 アサグは仕える主人たちの歳の頃が同じになるように見計らって、海底神殿でエルシードを目覚めさせた。彼女もイルモートの魂の波動を感じていたのか覚醒の儀式は問題なく成功した。


「驚いた! アッタル、あなたがイルモートの兄なのね」

「はい。そして申し訳ありません、エルシード様。私は兄としてとても幸せなのです。かつての主人への非礼、お許しください」

「何をいっているのよ、アッタル、いえ、アサグね。私も嬉しいわ。これから家族としてみんなで暮らせるのだから!」


 エルシードは火災で家と家族を失ったエリシェと名乗り、アサグの家の後見の下に神殿内で暮らすこととなった。エリシェはそこで膨大な水の魔力を操り、人を癒し作物を実らせる。本人は力を加減していたつもりだが、周りは神童よ、神の現身よと騒ぎ立てる。慌てたアサグがエリシェに注意をし、力を抑えたことにより、天才から秀才へとその評価は変わっていった。そして悪戯好きな子供としてトゥグラト共にクルケアンにその名を知らしめることになる。

 やがてアサグは司祭となり、成長したトゥグラトは薬師の神官として出世をしていく。トゥグラトが薬師を目指したのは、先の魔人大戦の契機を作ったという悔悟が、転生した今でもその魂に刻まれているのかとアサグは痛ましく思う。それでも彼は弟の選択を祝福し、その背を押して激励した。そしてエリシェとの仲をからかって弟を赤面させては楽しむのだった。


 アッタルにとってもエルシードにとってもそれは人として過ごした幸せな時間でもあった。しかしそれが一夜にして崩れたのだ。


「兄さん、父さんと母さんが姿を消した!」


 魔獣討伐を命じられ西方諸都市に赴いていたアサグは、久々に戻った実家の玄関で立ちつくした。弟は幽霊のようにふらつく兄の頬を叩き、その胸に倒れこんで涙目で訴える。


「タダイという神官兵に神殿長からの召喚を告げられて奥の院へ向かったのです。もう三日間も連絡はありません。神殿は帰宅したはずだとの一点張りで……」


 神殿は何か隠している、アサグは自分たちの時代の神殿より何か禍々しいものを感じていたが、時代と共に信仰は変わるものだとこの世界の住人に任せて距離を置いていたのだ。しかしクルケアンで魔獣被害や行方不明者が多くなり、流石に政治に口を出さざるを得ないと、神殿長に対して調査を強硬に主張したのである。そして恐らく煙たがられて西方諸都市に神官兵として軍と共に魔獣討伐を命ぜられたのだ。

 ……私の考えは間違っていた。自分もこの時代の人なのだ。

 アサグはもはや神殿上層部に対する遠慮を捨て、権能杖を握りしめ、父母を奪還すべく奥の院への侵入を決意したのであった。

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