第189話 天と地の狭間へ①

〈フェルネス、天と地の結び目の上空にて〉


 目の前が霞んでくる。バルアダンを倒し、次はべリアを倒さねばならないというのに体が動かないのだ。ハミルカルが俺を案じるように低く鳴き声を上げる。さっさと俺を見放せばよいものを。忠義立てして地獄まで付き合っても仕方あるまいに。


 四百年前、ハミルカルは幼少の時から俺の騎獣だった。父の騎獣であったタニンより体格は一回り小さいが、その機敏さ、冷静さは、草原の王国にいた竜の中でも上位の個体だった。

 俺のような小僧にハミルカルがあてがわれたのは、確か俺が王の息子だったからだ。ハミルカルを駆って父の背中を追いかけて空を飛ぶのを俺は何よりも楽しみとしていた。

 親が雷光と共に消え去り、懇意にしていたハドルメのオシールらに引き取られた後もハミルカルは常に俺の側にいてくれた。


「草原の王国は消え去ったのだ。王の頼みでお前をハドルメで引き取る。クルケアンの神殿には、王子であるお主を狙う者も多い。これより名を変えよ。王も市井として生きていくことを望んでいた。……お前は今からフェルネスだ」


 魔人化による魂の浸食で忘れていた記憶が少しだけ蘇った。業腹だが恐らくトゥグラトの印の祝福の所為だろう。奴がべリアの腕を癒着させたときに用いた祝福が、精神の内の他の魂の蠢動を抑えているのだ。

 しかしそれでも両親の名前は思い出せない。そしてもう一人大事な人がいたような気がするのだ。オシールやシャマールのように、魂の記憶を完全に持つ魔人はその代償に人血を欲する。俺はあそこまで人として堕ちたくはない。あの日追いかけた父の背中やハミルカルを覚えているだけでも良しとしよう。


 十五年前、魔獣から魔人として目覚め、べリアに拾われて騎士となった時、ハミルカルが突如として俺の目の前に現れその頭を垂れた。俺は訝しむ騎士達を腕力で黙らせ、時を超えて再びハミルカルを騎獣とした。尊敬すべき上官、友人達、そして相棒と過ごした時間の何と貴重な事だったことか。しかし、それも今はどうでもよくなった。俺はただ個として最強を目指すのだ。それが故郷などない男に残された唯一つの夢だ。そしてその力でこの世界を作り替えるのだ。だから、ハミルカル、お前は邪魔なんだ。部下たちは俺が力を求めた所為で洗脳された。お前も巻き込まれることはない。早く俺に見切りをつけるんだ……。


「フェルネス!」


 呼びかける声にはっと目を正面に向ける。べリアが呆れたように俺を見据えていた。


「そんな状態で戦えるものか、意識をしっかり持て!」


 やれやれ、敵に心配をかけさせるとは、元飛竜騎士団の隊長の名が泣くというものだ。上官に向けて構えを取ろうとするが、バルアダンが貫いた右腕はもうほとんど動かない。しかしそれでも目の前の男を倒さねばならぬ。べリアは大剣の切っ先を向けてこちらに迫ってくるが、何か怒鳴っているようだ。それに対してハミルカルは速度を緩め、まるでべリアを受け入れるように空中で止まった。とうとうこいつにも見放されたか、それでいい、それでいいんだ。


「情けない小僧だ。最強を目指すにはまだ弱い」

「べリア、何をしている……」

「サリーヌから月の祝福を少しばかりこの剣に籠めてもらった。その力で以って貴様の腐りかけた腕を治そう」


 月の祝福が体内で駆け巡り、腕の感覚が戻っていくのが分かった。そしてその祝福はトゥグラトの魔力をも抑え込んでいく。力と引き換えの洗脳がとけ、不快感が消え去っていく。あぁ、この男は決着をつけに来たのではない、俺を助けに来たのだ。


「この俺に情けをかけるというのか」

「そうだ。本来はお前の腕を返しに来たのだが、この戦況ではままならん。しばらく私の腕を預けておくぞ」

「俺はお前を倒して……」

「倒すがいいさ。しかし、何のために最強を目指すのだ。あの時お前が語った、超えるべき父はすでにいないのだろう。ならば自分の為にか?」

「そうだ」

「ふん、そんな男が洗脳された部下を見て躊躇いを見せているものか!」


 その時べリアは突然苦悶の表情を浮かべた。大廊下での戦いの傷だろうか。しかしべリアはその表情のまま時間が惜しいように俺への説教を続ける。


「いいか、お前の右腕には私の武の祝福が籠められている。……私には分不相応の祝福だった。しかしフェルネス、お前やバルアダンならば使いこなすことができる。さすれば魔人化の影響など吹き飛ばして、何のために強くなりたかったか、本当に守りたいものを思い出すことができるだろうよ」


 そしてべリアは口から血を吐き出しながら俺の頭の上にそっと手を置いた。治癒が進み動き出した右手をべリアの体に向けると固いものが指先に触れた。それはべリアの体を貫いている鉄槍の先端だった。


「強くなれ、もうしばらくは待ってやろう」

「べリア団長!」

「ふん、まるで手ごたえのない。やはりこいつは魔人化の失敗作よ」

「トゥグラト!」


 赤黒い頭巾をかぶった老人がそこにいた。神獣や飛竜に乗らずして空の中に立っているのだ。べリアの体から鉄槍を引き抜くと、飛竜ごと蹴飛ばして高笑いを上げる。


「トゥグラト、貴様!」

「同盟者として当然の手助けをしたまでだが? 最後の設計者オグドアドフェルネスよ。安心せい、べリアはあんなことでは死なぬよ。ただし呪いをこの鉄槍にかけている故、徐々に体は蝕まれるだろうて」

「……お主、人間か?」

「あぁ、ヒトだ。今のところはな。しかし、フェルネス、儂の洗脳から抜け出すとはやはりお主も尋常なヒトではないな。ますます気に入ったぞ」

「お前の与えた力はただの狂気であったわ! よくもだましてくれた、力が増しても理性がなければ獣にすぎん。さぁ、俺の部下も元に戻してもらおう」

「そうかね、それは残念だ。イルモートの狂気こそ時代を創る力だというのに。しかしそれは後の事よ。ほれ、お主の采配により、戦況は優位に傾いたぞ」


 疫神ラシャプの力を持つ化け物に飛竜・神獣騎士団が手間取っている間、部下のサウル、メルキゼデク、エドナと鉄塔兵とは天と地の結び目ドゥル・アン・キの迂回に成功し、数こそ少ないものの挟撃を開始したのだ。疫神の瘴気でバルアダン旅団の兵は戦闘力を失い、追い詰められていく。


「お主がバルアダンに勝利したおかげで、旅団はその士気と機能を失った。まったくヒトの組織とは弱いものよ」


 トゥグラトが権能杖をかざすと、赤光が迸り大地が揺れ始めた。それを合図とするように空からアナト達以外の神獣が姿を現した。三百を超える神獣に鉄塔兵が騎乗している。俺は勝利を確信した。


「しかし後詰の兵までだすとは思わなかった。やはり恐るべきはバルアダンか」


 今や三方から押し込まれることになったバルアダンの旅団は次々と天と地の結び目ドゥル・アン・キに追い込まれ、落下していった。オシール達ハドルメの飛竜騎士団は脱出し、アナトの神獣騎士団はバルアダン達を救うべく、全騎が穴へ向けて飛び込んでいく。戦場には大地が揺れる音と頭巾を深く被ったトゥグラトの高笑いだけが響いていく。


天と地の結び目ドゥル・アン・キよ、その役目はもう果たした。あるべき姿に戻るがいい!」


 トゥグラトの権能杖から再び赤い光が発し、辺り一帯を覆いつくす。大地の揺れはますます強烈なものとなり、やがて光が弾け飛んだ。


「馬鹿な! 穴が塞がっているだと?」


 天と地の結び目ドゥル・アン・キはその存在がなかったかのように消え失せていた。そしてその穴に流れ込んでいたカルブ河の水が、再び大地を流れ始めていく。


「バルアダン……」

「さて、フェルネス、イルモート神の復活に備えようではないか。その暁にはお主の望む世界に作り替えてやろう。ヤムとはその最後の一点、イルモートの力をどう使うかで対立関係にあったが、お主となら問題はあるまい?」

「異存はない。しかし部下達の解放をしてもらおう」

「了解した。我が同盟者よ」


 フェルネスはトゥグラトの言葉を受けて覚悟を決める。

 ……そう、俺は俺が望んだ世界を創るのだ。いや、戻すのだ。

 それは過去の幸せなハドルメでの生活であり、そして……。

 頭痛と共に子供が手を伸ばしている光景が脳裏に走った。

 そしてその子供は俺に向かってこういったのだ。助けて、お兄ちゃん、と。


「アドニバル?」


 知っているはずもない名を呟き、フェルネスは頭を抱えて呻き声を上げる。

 トゥグラトはその様子を見て、高笑いを上げながら戦場から消え去った。


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