第186話 奈落
暗い森の中、一人の男が呻き声を上げている。男の右肩からは膿が漏れだし、腐敗臭が清浄なはずの森林に漂っていた。彼に傅くはずの騎士は治療をするでもなく、誰かを待つかのように前方を見ている。やがて一人の老人が姿を現し、騎士が姿勢を正す。
「元気そうではないか、フェルネス」
「ふん、落ちぶれた我が身を笑いに来たか、トゥグラトよ」
「おお、怖い怖い。流石は連隊長殿よ。しかし、斬り飛ばされた腕を癒着させてやったのだ。感謝の言葉の一つくらいは言ってもいいのではないか?」
「……できの悪い部下共が別の腕を拾った結果がこれだ。お主の祝福と俺の魔力で押さえつけてはいるがひと月とは持たん」
「しかし、べリアの腕だ。衰えたとはいえ、武の祝福が宿っている。今ならべリアでもバルアダンでも勝てるであろう?」
フェルネスは二人の名を聞いて、その顔に血が上っていくのを感じた。もはや彼が追い求めるのは最強であることと、
新たに作り直す? 違う、自分はしたいのはハドルメが魔獣化せず、過去の世界をやり直すことだ……。
幼い頃、父と母と生き別れてからは苦渋に満ちた生活ではあったが後悔はしていない。強い父の背中と、優しい母のぬくもり。それがあったから今日まで生きていられたのだ。それを無にしようとは……。
フェルネスは父の後ろ姿を思い出そうとするが、奇妙なことにその影が二つに分かれていくのだ。やがて父の背中は禍々しい獣へ挑む二人の戦士となり、一人は裏切り者と、もう一人は王と呼ばれている。
「何を立ち止まっているのだ、我が息子よ。ハドルメの男であるならば全てを背負え」
裏切り者と呼ばれた男が振り返り、一瞥をすると颯爽と身を翻し光の中へ消えていく。
激しい痛みが駆け巡り、フェルネスは膝をついた。
「どうした、フェルネス、そうか頭が痛いのか。待っておれ、今楽にしてやろう」
老人の懐から乳香のような甘い匂いが漂う。それはだんだんと血のように赤くなり、フェルネスの瞳は完全にその色に染まった。
「そうだ、俺を捨てていった両親に、世界に復讐をするのだ……」
「それでよい。それでよいのだ、フェルネス」
老人は満足するとフェルネスの部下達に労いの言葉を駆ける。
「お主達は引き続きフェルネスを守れ。決して無為に死なせてはならぬぞ」
「御意」
三人の騎士は主であるフェルネスではなく、トゥグラトに向けて跪く。彼らの目も赤く光り、それを見て老人は満足そうに笑みを浮かべた。
「フェルネス、バルアダン旅団がもうじきここに来るだろう。いかな英雄であろうとも二千名の兵の前では敗北は必至。なればお主に鉄塔兵五百ほどを貸してやろう。また、魂なき疫病の神の残骸をくれてやる。神兵と
トゥグラトは哄笑しながら目の前の男をそそのかした。この時代において武の祝福者はバルアダン、べリア、そしてべリアの腕を移植したフェルネスとアナトの四人のみ。彼にとって、四者の内、最強の一者が残ればいいのだ。その最強の者こそ自分の依り代となるにふさわしい。老人は獣の笑いを浮かべて姿を消し、その後に大森林に金属の軋む音を立てながら異形の兵団が到着した。それは陸から来たのではなく、空から来た兵団であったのだ。禍々しい甲冑に身を包み、常人では扱えないほどの長大な鉄槍を手にした兵の一団がフェルネスの前に整列し、そしてその背後には巨大な獣が呪いに満ちた唸り声を上げていた。
その頃、バルアダン旅団とハドルメとの混合軍は大森林に向けて進発していた。
クルケアン周辺における最大の武力集団が砂塵を巻き上げながら荒野を移動していく。黒き大地において魔獣の襲撃があったものの、二千名の兵が相手では敵ではなかったのだ。そして彼らの野営地はそのままギルドによって補給基地化され、
「オシール将軍、大森林についてご教授願いたい」
バルアダンは黒き大地にて砦建設の指示をしながら隣のオシールに問うた。道中、既に二つの砦の建設を開始している。そして三番目のこの砦が最大の規模であり、最後の建設となるのだ。それぞれの砦に駐屯する兵数と森林で展開する兵数を調節しなければならない。そのために彼は情報を欲していた。
「四百年前の知識しかないのだが、森林の中は大部隊の展開は難しい。フェルネスらを逃がさぬためには森の縁にそって数百の兵を見張りにつけ、本隊はその中間地点に配置して、監視の兵の報告あらば、そこに急行するのがいいだろう」
「兵が駐屯する場所はありますでしょうか?」
「昔の集落跡があるが、本隊は収まりきらん。そこからやや南に大きなくぼ地がある。その中央に
「天と地の結び目とは大仰な」
「私が魔獣化する前の話だ。クルケアンとの戦争中、突然に大穴が出現したと報告があった。そしてカルブ河の水がそこへ流れ込み水量がどんどん減っていった。あの美しい河が涸れ果てるほどだ」
「私達が辿ってきたこの涸川をですか! このような大河の水を数百年飲み続けるとは……。それは本当に穴なのですか?」
「いや違うだろう。あれは神の御技だ。当時から祝福者が絡んでいると噂はあったがな。天に水を送るためにカルブ河は枯れたのだと、ハドルメの民は結論付けた。故にその大穴を
彼らの横で控えていたザハグリムが目を輝かせて提案する。
「河の流れを変えて、この涸川に向ければ民の生活の発展に大いに寄与しますな。評議会で検討してみましょうか?」
「こら、ザハグリム。上官の会話に横槍を入れない!」
「いいんだ、ウェル。ザハグリムの提案は魅力的だ。木材の搬出も格段にしやすくなる。せっかくの大人数だ、フェルネスの討伐が終われば基礎の土木工事だけでもするとしよう。勿論ギルドの指導は必要だが」
「隊長、あたし達一つの国みたいだね。道を作ったり、街代わりの砦を作ったり」
「そうだな、していないのは農業くらいか」
「いっその事、国を作るのもいいかもね」
「その時はこのザハグリム、議長として貢献しましょう」
「大きく出たね、ならあたしは?」
「ウェル先輩は元気がよろしいので宰相ではどうでしょう」
その場にいた半数は茶を吹き出して、もう半数は声を立てて笑った。特にオシールは何度も頷いてザハグリムの案に賛同を示した。
「ザハグリムの言や良し。これほど暴れ馬のように元気な宰相はどの時代にもいないであろう。民も喜んでついていく。難点は宰相が民から賭金をかっさらっていくことかの」
ふくれっ面のウェルと、笑い声をあげる一同をザハグリムは不思議そうに見つめていた。自分は何か変なことを言ったのだろうか。新しい国家において、ウェルが先の賭博試合のように元気よく啖呵を切って民を導けば純粋に素晴らしいと思ったのだ。彼女が自分の勝利を宣言し、兵の歓呼に包まれたあの時ほど自分を誇らしく思ったことはない。評議会で周囲の阿諛追従に包まれていた時は、権力欲は満たされたが心中は満たされなかった。ウェルの言動こそ、自分を満たせてくれるのだ。
「ウェル先輩、共に頑張りましょう!」
ウェルは降参とばかりに、やれやれと手を上げた。
それから三日後、バルアダンは
クルケアンでもない、ハドルメでもない。異形の兵団が本隊を目掛けて進軍を開始したというのだ。待ち受けているのは自分達ではなく敵であった。その事実に兵達は慄然とする。騎兵によってその急報がバルアダンにもたらされ、旅団はくぼ地の南側にその陣を敷いた。
「来たぞ!」
兵達が興奮して示すその先には、ハミルカルに騎乗したフェルネスの姿があった。
「久しぶりだな、バルアダン」
そう言ってフェルネスは北側に布陣する。
天か地獄か、いずれかに続く大穴を挟んで両者は睨み合い、そして弧を描くように衝突した。
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