第170話 臆病者達の恋
〈アスタルトの家の学び舎にて〉
「タファト!」
イグアルは寝台の上で跳ね起きた。ひどい頭痛と共に体の節々が痛むのを感じる。右手を見ると権能の腕輪があった場所に大きな切り傷ができていた。側には彼を救出したべリアがいるのだが、彼に気づくこともなく、朦朧とした意識のまま、イグアルは想い人の身を案じて寝台から下りようとする。
「……夢ではなかったのか。タファト、タファト、無事でいてくれ」
「安心しろ、あの娘は無事だ」
「安心なんてできるものか、早くタファトの許へ……」
「想い人なら常に側で守っておくことだな」
「あぁ、そうだ。これからは片時も離れるものか。命を賭してでもタファトだけは私が守るのだ」
「だ、そうだ、娘よ。良かったではないか」
イグアルは、ようやく声がした方向にその首を向けた。そこには隻腕の偉丈夫が剣を杖にして椅子に腰かけており、さらにその後方には頬を赤らめたタファトが立っているのに気付く。そしてそんなタファトを見つめているサリーヌら、アスタルトの家の若者達の姿があった。イグアルはようやくここがアスタルトの家の学び舎だと気づいた。
「タファト、無事だったのか!」
「無事だと言うておろうに。まったく余裕のない奴め。タファトよ、粥でも食わせて滋養をつけさせるがいい。イグアル、お主は血を大量に失ったのだ。ある程度は血を補完したとはいえ、まずは体力の回復をせよ」
「はぁ……」
温めた
「飛竜騎士団長であったべリアだ」
イグアルが麦粥を落とす寸前に、タファトが受け止める。イグアルは咎めるようなタファトの目を見なかったことにして、べリアに昨晩の事情を聴いたのであった。
「私はシャヘルについた。クルケアンためにアスタルトの家に味方しよう」
「それが私達の護衛だと?」
「クルケアンの家も含めてな。私としては寄る辺ができて重畳というものだ。さて、月の祝福者サリーヌよ。もう一度、イグアルの血を増幅せよ。それで治療は終いだ」
「はい、騎士べリア」
「べリアでよい。殺し合った仲だ。騎士などと呼ばなくてもよい」
「……わかりました。べリアさん」
「べリアさん、か。変わった娘だ。私はバルアダンやダレトの敵であったのだぞ?」
「私も最初はそうでありました。でも今はここにいます。それが一人増えただけのこと。べリアさんはアスタルトの家の仲間であり、従業員ですね」
「従業員か! それもいい。何という言葉の響きの面白さだ。その面白みの前には飛竜騎士団長の肩書など紙よりも薄い。流石はバルアダンの副官だ、久々に胸がすく言葉を聞いた。……さて、お主達は今夕、百層に行くのであったな。私は知人に会ってから後で合流するとしよう。四半刻もすればラバンからの護衛も来る。それまではイグアルの元を離れるな」
「はい。べリアさんもお気をつけて」
べリアは目を細めてもう一度笑った。少女に心配される落ちぶれた我が身を滑稽に思うが、しかしそれは心地よいものであった。団長としてではなく、対等な仲間と共に剣を振るえるのだから。
べリアは北壁の露台に出ると事務長ソディに用意させた大型の
「タニン、久しぶりだな。相変わらず自由な奴よ。いや、私もお主の仲間入りだな。さて、私の相棒はクルケアンに残っているのか、試してみるとしよう」
弩弓からクルケアンの北方に向けて矢が放たれる。甲高い音を立てて飛んでいく矢は、まるで誰かへの叫び声であるかのようだった。
「……竜の声に似ている」
サリーヌが呟き、タニンが興味を示したかのようにその鏑矢の方向を見つめていた。そしてサリーヌは自分が影の中にいることに気づく。そしてその影はどんどん大きくなっていくのだ。
「飛竜!」
サリーヌの叫びと共に大型の飛竜が露台に舞い降りる。竜は咎めるような眼に、甘えたような声を出してべリアに歩み寄っていく。
「相棒よ、よくクルケアンに残ってくれた。そして済まなかったな。私にもう迷いはない。残りの時間を私と共にいてくれ」
竜は短く鳴くと、べリアをその背に乗せた。
「サリーヌ、フェルネスに会えば戦ってはならぬ。私が来るまで逃げに徹するのだ」
そう言い残すと、べリアはクルケアンの上層へ飛竜と共に駆け上っていった。サリーヌ達も百層に行く準備を始め、部屋にはタファトとイグアルの二人きりとなった。
「無茶をしたのね、イグアル」
「暗殺者は君も殺すと脅してきた。冷静でいられるものか。祝福者狩りは
「イグアル、前に私に言ったこと、覚えていて? 共に歩もうって、もう私は守られるだけの存在ではないわ」
「タファト?」
タファトの手から強い光が零れていく。そしてそれは熱を帯びたかのように肌を刺してくる。そしてその光が収縮していくについて炎となったのだ。太陽の祝福者が狩られている今、太陽の祝福は彼女に集中しつつある。恐らく本気を出せばクルケアンの数層は一瞬で業火で焼き尽くすことが可能だろう。
「タファト、君の力は傷つけるためのものではない!」
「イグアル、私は子供達の為ならば、人の生活を守る太陽の祝福を、相手を害する事に使うことも出来る。サリーヌ達に辛い仕事を任せておいて、私だけが綺麗な手でいることは我慢ならないの。それは大人の役割よ」
「いや、しかし……」
「一番我慢ならないのが、あなたが私を置いて死のうとしたこと。イグアル、私に死ぬ時は一緒だといっておいて、一人生き残った私に憎しみしかない人生を送れと言うの? それは男の自己満足だわ」
タファトは怒りを込めた大きな目でイグアルを見つめていた。男の身勝手な思いやりへの怒り、教え子達を守ることができない自らの力不足への怒り、そしてある感情を心の中心にきちんと据え置けない怒り、それらの怒りを、今、タファトはイグアルへ向けている。
「私は弱いんだ。タファト」
「知っている。あなたは強くはないわ」
「私は失うのが怖いんだ、タファト」
「知っている。あなたはどこまでも優しいから」
「……私は臆病だ。好きな人が傷つくより、自分が傷つく方が楽なんだ」
「知っている。それは私も同じだから。だから、あなたの中に私を入れて。二人でなら弱さも、恐怖も、臆病も克服できると思うから。私の辛さをあなたの中で溶けさせて」
この時、臆病者のイグアルは選択を間違えず、愛しい女性を抱きしめた。そしてその頬を流れる涙を掬い取るように優しい口づけを交わした。
「共に傷つき、共に戦い、共に見守り、そして一緒に生きよう。タファト」
「はい、イグアル。私はあなたと共に在る」
タファトの出した光に気づいて、陰から様子を見ていた若者達が声にならない歓声を上げる。自分達の大好きな先生が、朴訥な青年と結ばれたのだ。ここまで先生を待たした青年に文句を言いたい気持ちがクルケアンの最上層より高くあるにしろ、まずは満足すべき結果だった。エラムは頷き、トゥイとサリーヌはこぶしを握り締めて天井に向けて突き上げた。興奮しすぎたのか、トゥイの足がもつれ、サリーヌにぶつかり、そしてエラムの背中に二人はもたれかかる。蛙が踏みつぶされたような声を上げて床に倒れこんだ三人が顔を上げると、顔を真っ赤にしたタファトとイグアルと視線が合った。
「あ、ちょっと忘れ物を……」
「そうね、トゥイ。そろそろ戻ろうか」
「……お前ら、いくら何でも誤魔化しきれんだろう」
視線を合わせようとしない教え子達の照れた表情を見て、タファトは顔を手で覆って悲鳴を上げた。
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