第171話 観測者エラム

〈エラム、百層大廊下に向かう〉


 夕陽が階段都市を鮮血のように染め上げていた。サリーヌの操るタニンがその色を一身に受けてクルケアンの中層を一周する。北方のバルアダンさんのいるハドルメのギルアド城、そして西方の中小都市群、南には太陽の光を受けて海が黄金の麦畑のようにきらめいている。突然、トゥイが感嘆の声を上げ、僕は彼女の視線の先を追った。

 見上げれば階段都市の上層に神獣と飛竜が悠々と飛んでいるのが見える。彼らが旋回しているのは評議会のある二百層あたりだ。

 翼ある獣達には、この都市で足掻いている僕達の行為はどう映っているのだろうか。そして、短い人の営みは、長い命を持つ存在にはどう映るのだろう。


「神と獣と人、時間も考え方も違うのかな」


 タニンが僕の言葉を聞いて低くうなるように鳴き声を発した。


「エラム、タニンが考えすぎだって笑っているわよ」

「サリーヌ、竜の言うことが分かるの?」

「タニンだけね。他の竜のことは全然わからないの。この子は案外素直な……」


 タニンが急に速度を上げ、その勢いで会話を途中で中断させられた。このクルケアンの老竜はもしかして照れているのだろうか? トゥイと一緒に笑い声を押し隠しながら、振り落とされないよう鞍に掴まった。そして巨竜はいささか乱暴に百層の大廊下へと着地したのだ。


 僕たちの会いたい人が、クルケアンを見下ろすその大廊下の南端で佇んでいた。


「アバカスさん!」

「エラム、トゥイ、待っていたよ」


 僕たちの婚姻の証人が笑顔で手招きをする。足早に駆け寄って、彼の手をとってお礼を言う。


「証人の件、ありがとうございました。……僕達は必ず幸せになります」

「婚姻の誓書をみて驚いたよ。一年後の発効だもんなぁ」

「すみません。僕たちはアバカスさんとフェリシアさんとの時間をもっと持ちたかった。これで少なくともしばらくは僕たちの側にいてくれるのでしょう?」

「僕の負けだよ。フェリシアも大賛成だとさ。一年は君達の後見人だ」

「やったね、エラム」

「あぁ、トゥイ」


 アバカスさんは口を尖らせて愚痴を言う。自分は昔からフェリシアの押しの強さに負けてきたのだ。あの状況で断れるわけはないじゃないか。……そう言いながらも目は嬉しそうだった。


「さて、魔人化の件についてだったね。神の二つの杯イル=クシールを用いれば魂の抽出をするのは可能だ。しかしそれには、最高の技術を持った薬師と、エルシードとイルモートの祝福、つまり月と印の祝福者の力が必要なんだ。ほら、条件が難しいだろう?」

「シャヘルさんとセトとエルがいれば大丈夫なんですね」

「……しかしシャヘルは薬師としての知識はあってもその経験を活かすための魂が溶けてしまった。あのシャヘルは別人なのは分かっているだろう」

「ええ、だからこそシャヘルさんの意識も取り戻したいんです」

「……まだ困難なことがある。魂の観測だ。誰かがその精神の内に入り込んで、他の魂を消さなければならない。魔人の精神の中に巣食う他の魂に退場願うのだ。これは死ねといっているようなものだよ」

「誰かを助けるには、誰かを殺さねばならないのですか……」

「そうだ。複数の魂を持つからこそ魔人は強い。その強さを失うということはそういうことなんだ。何なら、僕達の精神の中を観測してみるかい? そこの月の祝福者の娘、こちらへ来なさい」


 離れて警護をしていたサリーヌを呼び寄せ、僕に短刀を渡した。


「サリーヌ、バルアダンの副官よ、エラムの血を流れさせたまま、その血を僕の体に入れるのだ。一瞬でいい。造血の為の同調ではないぞ? エラムの魂の分け身であるその血をもって僕の精神に触れさせるのだ」

「しかしそれではあなたに激痛をもたらせてしまいます! せめて神の二つの杯イル=クシールがあれば……」

「魂の邂逅は一瞬。エラムが我に返った時にすぐに血止めを処置して欲しい」


 そしてアバカスさんは獣のような呻き声を上げて魔人化していった。優しかった顔は竜のようにおぞましくなる。……しかしそれは外見だけだ。その証拠に優しいアバカスさんは赤く光る魔人の目で静かに僕たちを見守っている。

 彼は魔爪を持って胸を引き裂き、たちまち鮮血が飛び散った。


「トゥイ、行ってくるよ」

「うん、フェリシアさんによろしくね」


 いつもの挨拶のようにトゥイに語りかけ、また、トゥイもそう返してくれた。

 短刀を腕に突き刺すと、サリーヌが僕の腕を握りしめてアバカスさんの胸に近づける。そして月光が僕とアバカスさんを包んだかと思うと、魂が闇に引き寄せられるのを感じた。彼の精神の内に入ったのだ。




……そこは小さな光がたくさんある、暗い場所だった。

 光ごとに何かささやきのようなものが聞き取れる。中心に大きな光と小さな光が寄せ合うようにあって、それ以外の光は少し離れたところに点在していた。それは遠巻きに中心の光を見守っているかのようだった。


 僕には一番近い光から声を掛ける。


「あなたは誰ですか?」

「名前を思い出してはいけないの。生きようと思ってしまうから。他の魂を食べてしまうから。あそこの光を眺め続けるだけで十分幸せよ」


「あなたは誰ですか?」

「若いの、知りすぎては後悔するぞ。ほれ、あの光を見なさい。あの光を見るだけで幸せになる。儂らの代わりに美しく輝いてくれれば、それで十分だ」


「小さな光だね、君は誰ですか?」

「ううんとね、忘れちゃった。でもあの光を見ながら歌うことは楽しい、ってことは知っているんだよ! すごいでしょう」


「あなたは誰ですか?」

「さて、私は誰だったんだろう。でも私よりもあの二つの光が心配だ。明るくなったり、暗くなったり……。最近は明るいことの方が多いね。それは嬉しい事なんだ」


 小さな光に話しかけながら中央へと進んでく。そこにある二つの光の内、小さな光がゆっくりこちらへ近づいてきた。そして淡く人の形を成していく。


「フェリシアさん、エラムです」

「会いたかったわ、エラム。アバカスと私の大切な友人」

「トゥイと共にフェリシアさんに感謝を。……ありがとう、婚姻の証人になってくれて」

「ふふ、私がアバカスにお願いをしたのよ。そして嬉しかった。私とアバカスの婚姻の時もああやってみんなで祝ってくれていたんだなぁとね。ふふっ、私が祝う側になれたのも、エラムのおかげよ」


 そう言ってフェリシアさんは僕を抱きしめてくれた。


「本当にありがとう。魔人となってずいぶんと長い時を苦しい日々を過ごしてきたわ。それが今は一日一日がとても楽しいの。こうやって直接お礼を言いたかった」

「僕もです、フェリシアさん。生きててくれてありがとう。アバカスさんと引き合わせてくれてありがとう」

「馬鹿ね、エラム。優しくしないで。こんな幸せが続くのなら、私も希望を持ってしまうじゃない」

「持っていいと思います。だって僕は恩返しがしたいんです。どんな希望ですか」

「エラムに会えてこうやって抱きしめられたんですもの。いつかトゥイと星のお話をしてみたい。魂の会話ではなく、人の体で、この綺麗な世界の夜空を見ながら」

「あぁ、トゥイもきっと喜ぶ。かなえて見せます。だって、アバカスさんもフェリシアさんも僕の家族だ」


 フェリシアさんの形が少し揺らいだ。はにかんだようなその顔は泣き笑いにも見て取れた。そして彼女の魂は僕の手を引いてアバカスさんの元へ連れていく。


「エラム、僕の精神は他の魔人とは違う。恐らく多くの魂が絶叫を上げながらお互いを喰らい合っているはずだ。もしくは一つの巨大な魂が無理に他の魂をねじ伏せているかだ。その魂の本質を、在処を観測して対話する。それが君にはできるのかい?」

「はい。観測は得意です。優秀な先生達に教わりましたから。これで失敗したらタファト先生とアバカスさんの名誉に関わります」

「こいつめ」


 アバカスさんは笑っていた。彼はきっと僕に道を示してくれたのだと思う。魂が混ざり合った、セトとエル、そしてダレトさんを救うための、その魂の観測方法を。


「僕達の周りにいる光は、天文台の同僚達だ。魔獣の時でも、魔人となった今でも彼らの魂は僕たちを襲わなかった。何故だか分かるかい?」

「精神や肉体を失っても、魂はアバカスさんとフェリシアさんを祝福していたから。きっと死に臨んでもお二人の事を大事に思っていたんでしょう。幸せの絶頂で死ぬことになったお二人を悼んでいたのでしょう。……なんて優しい人達だ」

「知っているかのように話すのだね」

「だって、もし僕とトゥイの婚礼で同じことが起きたら、アバカスさんだってそう思ってくれたでしょう」


 フェリシアさんがそっとアバカスさんの腕を掴んだ。アバカスさんは照れたような顔をしてフェリシアさんに口を尖らせて何かを言った。そして諦めたかのように僕に笑いかける。


「さぁ、君のように美しい魂がこんなところにいてはいけない。君の愛する人のところへお帰り。エラム、僕の大事な友人よ」

「さぁ、トゥイと共に幸せに生きるのよ。そして子や孫達に囲まれて素敵なお爺ちゃん、お婆ちゃんになりなさい。エラム、私の大事な家族よ」


 サリーヌの月の光が精神に満ちて、その光に乗るかのように二人が遠ざかった。その途中で夢のような光景を僕は見る。


「フェリシア、よく頑張った!」

「あなた、赤ちゃんを抱いてあげて。貴方に似てとてもかわいい子……」

「何を言う。君に似てとても元気な子だよ」


 二人と赤ちゃんを取り囲む多くの人が呆れたように声を上げる。


「アバカス! いちゃついていないで早く赤ちゃんを抱いてあげて」

「あぁ、そんな持ち方じゃだめだ、まったく。フェリシアさん、亭主をきちんと躾けておかないと」

「私も赤ちゃん抱っこしたい!」

「そうそう、アバカス、名前はもう決めたのかね」


 一同の明るい声が、幸せそうな光景が僕の魂をすり抜けていく。

 あぁ、彼らは夢を見ているのか。とても哀しく、とてもやさしい夢を。この四百年ずっと。


「あれは?」


 彼らの夢の中で光る星々の中で、ひときわ大きい星に気づいたのだ。それは青く、大きな星だった。そして背後を振り返れば僕達の住むクルケアンが闇夜の中に屹立きつりつしていた。


「クルケアン?」


 意識が遠ざかる中、誰かが僕を呼ぶ声が聞こえていた。


「……ム、…ラム、エラム!」


 目を覚ますと、僕はトゥイに膝の上に抱きかかえられていた。太陽がクルケアンの大地に沈んでいく。あぁ、僕は帰ってきたのだ。


「ただいま、トゥイ」

「おかえり、エラム」


 夕陽の色に染まったトゥイが僕を優しく抱きしめてくれた。

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