第169話 最強のその先に

〈クルケアン神殿の奥の院にて〉


 イグアルが暗殺者に襲われる十日前、そしてサラ導師らによる奥の院への探索を明後日としたその日、教皇シャヘルは奥の院に足を向けていた。


「恐るべきは魔人の再生能力よの」


 シャヘルは鉄門回廊の一角にある死体置き場で呟いた。そこには魔獣工房でバルアダンに斃されたべリアの遺骸が放棄されているはずだった。瘴気によって蛆さえ湧かぬ魔獣と魔人の死体が積み上げられている中で、べリアであった肉の塊だけはなお蠢いているのだ。傍らにはべリアの大剣と黒い甲冑が角灯の光を黒く反射している。


「ふむ、残った魔力を吸収しようとしたが、これは他に使い方があるかもしれんな」


 しかし、その肉塊もやがて活動を止めるだろう。シャヘルは他に使えそうな遺骸がないか石室を見回っていく。人脂と血の腐臭が染みついたその石室には場違いなほど美しい石像があったのだが、月の祝福者シルリと伝えられるその石像にシャヘルは一瞥をくれただけで通り過ぎようとした。


「何?」


 突然、シャヘルの指に痛みが走った。見ると手に棘のようなものが刺さっている。忌々しいその棘を抜き、へし折ろうとするが魔人の自分であっても容易に折れなかったのだ。魔獣石か、シャヘルはそう思い至ったが、いったい誰がこの場で魔獣石を変化させたのか。余人はおらず、勿論、魔獣石を変化させる月の祝福者もいるはずがない。肌を刺すような感覚を覚え振り返ると、そこにはシルリの像があった。


 多くの死体に埋もれ、その血を一身に浴びながらシルリの像はシャヘルを見つめている。……生きているのか。シャヘルは像に近づきその顔に手を当てる。


「貴方は私の声が聞こえるのですね」


 石像はその身を震わせ、シャヘルに振動を声として伝えてきた。 


「あぁ、私はハドルメ国の神官シャプシュだ。お主はシルリで間違いないか?」

「シャプシュ様!」


 シャヘルはその体と精神を支配する魂の名を告げる。魔獣の姿で生きていたシャプシュは魔人化の儀式によってシャヘルの肉体に入り込み、他の魂を喰らいつくしたのだ。元老トゥグラトの意に反せば呪いにより命を失うが、今、本名を名乗ることは特に問題なかろうと彼は判断した。


「ハドルメの将軍にして神官のシャプシュ様ですね。覚えておられますでしょうか、クルケアンのシルリでございます」

「……すまぬが、お主が石となって四百年は経過しておる。今生きているハドルメの民は魔人であり、記憶のほとんどが消え去っているのだ。シルリ、シャマールの恋人よ。それだけしか覚えておらぬが、奴に会いたいか?」

「何とおっしゃいました、あのお方が存命ですと?」

「然り、シャマールも魔人として生きておる。だが、多くのハドルメの民は魔獣のままだ」

「あぁ、魔獣、魔獣! イルモートの呪い……。ハドルメの民にどうやって詫びればいいの……。シャプシュ様、シャマールは今どこに?」

「ハドルメ国の駐在武官としてこのクルケアンに来ておるぞ」


 石であるはずの彼女の心臓が鼓動を打ったように鳴り響く。シャヘルはシルリの月の祝福を利用しない手はないと考え、提案を持ちかける。


「会わせてやってもよい。しかし、条件がある。月の祝福であればそこの魔人の肉塊も治せるのではないか? 魂と精神はまだ宿っているはずだ」

「分かりました。神殿は魔獣化の呪いのために月の祝福者をも利用しました。石と化して逃げた私にも責任があります。その者を治しましょう」


 石像の権能杖が光り輝き、べリアの体が人の形を成していく。バルアダンに斬られた左腕は戻らなかったものの、ここにクルケアン最強と謳われた戦士が蘇った。


「約束は果たしました。シャマールとはいつ会えるのでしょう?」

「明後日にこのクルケアンの奥の院へ調査隊が入る。その一員にシャマールを推薦しておこう。だが、会えるかどうかは運命と知れ」

「それでもいい、あの方が生きていてくれたのだから……」


 急にシルリの声が聞こえなくなった。地下のこの石室では時間の流れは把握できないが、おそらく夜が明けたのだ。月の祝福は弱くなったのだろう。


「ここはどこだ……」

「目覚めたか、べリアよ。ここは奥の院だ」

「お主は神殿長のシャヘル? 貴様がなぜ奥の院に来れるのだ」

「今はお主と同じ魔人よ。教皇シャヘルと名乗っておる」

「名乗っておる、か。あの情けないが芯の通った薬師の魂はもうないということか」

「……然り。さぁ、べリアよ。お主の忠誠は今どこに向いている?」

「ふん、もう神殿には加担せぬぞ。バルアダンとの戦いで戦士としての私は終わったのだ。後はこの剣をクルケアンの為に振るうのみ」


 そう言って自身の大剣を求め、シャヘルに向けてその切っ先を向けた。


「トゥグラトや神殿こそがこのクルケアンにとっての諸悪の根源だと分かった。私は自分も含めて全ての魔人を滅ぼすことにするぞ。シャヘルを名乗る教皇よ。お主も例外ではない」

「それが部下であったフェルネスであってもか?」


 その言葉は、傲岸不遜なべリアをして落雷を受けたような衝撃を与えた。剣をシャヘルに向けたままその場で呆然と立ちつくす。


「……フェルネスも魔人だと? あの素晴らしい男までも魔人であるというのか、言え、神殿はどう甘言を弄したのだ」

「ふん、何も知らぬ猪が。フェルネスは貴様と会った時から魔人よ」

「何だと?」

「べリアよ、トゥグラトが憎いか、この世界の矛盾を憎むか? ならば我の同志となれ!」


 シャヘルの体から血が噴き出していく。魔人として新鮮な血は甘露に等しいはずなのに、べリアは食欲もわかず、ただ目の前の男の静かな狂気に気圧されていた。


「貴様、それは呪いか」

「トゥグラトが裏切らぬようにこの身にかけた呪いよ。さぁ、再度問おう。我と共にトゥグラトとそれに従うイルモートの教信者たちを一掃するのだ。その結果、魔人が全て死のうと結構ではないか」


 シャヘルの持つ権能杖が赤く光り、呪いに蝕まれた肉体を修復していく。しかしそれは苦痛を和らげるものではない。それでもシャヘルは淡々とべリアに選択を迫るのだ。


「さぁ、我と共に来い。我らこそがこの世界の不条理に対して純粋な破壊をもたらす者なのだ」

「よかろう。どうせ表にはもう出られぬ。貴様と手を組んでやろう。しかしそのざまでは我らの敵についてそうそう何度も語れまいに」

「バルアダンの仲間、アスタルトの家に味方せよ」

「何、バルアダンといったな」

「そうだ。彼らとその保護者であるタファトとイグアルに近づくといい。そうすれば我らが裏で何をせねばならないか分かるであろう。そしてその道にはいずれフェルネスが立ちはだかる」

「……承知した」


 シャヘルの体を包んだ赤い光は消え失せ、体力と魔力の消耗で片膝をついた。……セトの力がこもった権能杖もそう何度も使えないだろう。そうなればいよいよ命を懸けてトゥグラトと敵対せねばならぬ。その前にこの男を同志にできたのは僥倖であった。シャヘルは我が身の幸運をハドルメの主神であるエルシード神に感謝した。


「さて、神殿に潜む不審者よ、くこの場から去るがよい。でなければ警護の者を呼びますぞ?」


 シャプシュから教皇シャヘルへと在り方を変えた男は、張り付いた笑顔でそう言った。


「……失礼いたした。教皇シャヘル殿。どうやら悪い酒に酔って寝込んでいたらしい。すぐに退散するとしよう」


 そういってべリアは甲冑を着込んで奥の院を抜け、鉄門回廊から貧民街に出たのである。見上げるクルケアンは美しく、子供達は貧しいながらも笑顔で路地を走り去っていく。

 思えば自分もこの貧民街で生まれ、兄弟分を守るために最強の戦士を目指していたのだ。目的を忘れ最強の称号だけを追い求めた自分がどんなに愚かだったことか。あの時バルアダンとダレトに敗れたことは、おそらく自分にとって救いとなったのだろう。

 クルケアンをじっと見上げる姿が奇異と映ったらしく、気付けばべリアの周りを子供達が取り囲んでいた。


「どうしたんだい、おっかない騎士殿?」

「この騎士様、ボロボロの恰好をしているぞ!」

「本当だ、ひどい匂い」

「でも俺らの街には似合っているかもな」

「そうそう、貧民街の騎士様だ」

「おっさん、強いんだろ? 俺はこの町とクルケアンを守るんだ、稽古をつけておくれよ」

「ずるい、僕も、僕も」

「クルケアンを守る、か。大層な言葉だ。だが、いったいどうやってだ?」

「飛竜騎士団に入るのさ。バルアダン隊長の部下には俺達の兄貴分や姉貴分がいるんだぜ。俺は後を追って飛竜騎士団に入る! そしたら最強を目指すんだ。クルケアンを守る最強の騎士ってな!」


「……あぁ、その心意気こそが一番強いのだ」


 いつの間にか手から零れ落ちていた大切なものが、今、自分の前で笑い声をあげている。畢竟ひっきょう、最強とはその意志の強さなのだ。その意志を固める純粋な想いなのだ。


「ふふっ、ずいぶんと遠回りして、また最初に戻ってきたのか。おい、小僧、その痩せた体で剣が振ることができるのか?」

「子供扱いして! 稽古をつけてくれれば分かるさ」


 べリアは大声で笑って壁に架けられていた箒の柄を握った。貧民街の子供たちも喜色を浮かべて次々と適当な棒を探して手に握る。


「さぁ来い、最強の兵士共」


 クルケアン最強であった黒騎士は、その隻腕で箒を握り子供達の輪の中へ入っていく。彼が求めた最強の終着に辿り着けたかのように、その笑い声は純粋な嬉しさに満ちていた。

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