第142話 イルモート
〈セト、鉄門回廊に行く前日の夜〉
僕たちが調査隊として神殿に行く前日、あと一刻ほどは夜の時間という頃に学び舎の僕の部屋の扉が叩かれた。そこにはとても綺麗な女性がいて、その髪は月の光を受けて輝いていた。後ろには騎士団の男性が涼やかな顔をして付き従っている。
「サラ婆ちゃんに、ラメドさん?」
二人の外見は違うのだけど、なぜかその言葉が口から洩れた。厳しさと優しさが混じり合った魂の匂いがサラ婆ちゃんに似ていたからだろう。
「セト、
そこには四人の人物がいた。タファト先生に、イグアルさん、そしてギデオン爺ちゃんにもう一人のお爺さんだ。
「ええと、初めまして?」
「私は君に会ったことがある。車輪のギルド工房での君の演説を聞かせてもらっていたんだよ。私はバルアダンの祖父、ヒルキヤだ」
「バル兄のお爺ちゃんですね。ふふっ、初めまして! 会えて嬉しいです」
「こちらこそ。ギデオンの孫に会えて光栄だ」
ギデオン爺ちゃんは、いつもの陽気さと豪快さを何処かへ捨ててきたかのように、ただ黙って僕を見つめている。
露台の小さな円卓に、ヒルキヤさんは僕を手招きする。その机には二巻きの手紙があった。以前、ダレトさんに預けていたものに違いない。
サラ婆ちゃんが手紙の軸となる棒を指で弾きながら、月の光のようなきれいな目で僕を見据えた。
「印の祝福者よ、我が弟子セトよ。その力、神殿の奥の院で目覚めるかもしれぬ」
「心配しなくても大丈夫だよ。サラ婆ちゃん」
「セト!怪我だけじゃすまないかもしれんのだぞ。お前そのものが…」
「爺ちゃん、分かっている。分かっているんだよ。でも大丈夫。僕が消えたらエルが探してくれる。エラム達もね。どこにいるかきっと探し出してくれるんだ。だから、大丈夫なんだよ、爺ちゃん」
だから待っていて欲しい。ここが僕の居場所だから。
「セト君、私の妻は武の祝福の継承者だった。しかし器が弱すぎて、その力の封印が解かれた時に衰弱して亡くなってしまった。いずれバルアダンにも封印を解くべく使者が現れるかもしれない。妻の場合はサラ殿の師のヤムが来た。そしてこれと似たような手紙を預けたのだよ」
「僕の場合は、男の子が使者だったと思います」
「だった?」
「手紙は自然に学び舎に置かれていたのと、しばらくの間ですがその男の子に体を乗っ取られました」
「祝福者への使い、か。ヤムもハドルメ側かどうかは怪しいものだな」
「それと、印の祝福の時に、綺麗な女性から最上層で待つ、という言葉を受けました。今のサラ婆ちゃんみたいに女神様みたいな女性でした」
サラ婆ちゃんは、目を細めて、少し照れたように笑った。
「聞いたか、ラメド、イグアル。男としてはこのように女性を褒めたたえなくてはな」
「私だって学生時代に女性をたたえる詩歌の勉強はしているのですから」
「サラ様、予習だけで実践しない男をどう思いますか?」
「そうさな、そんな臆病な男はいざというときに役には立たないな」
「ラメド殿まで!」
「ラメドは夜駆けの時に、武骨ではあるが私に詩を捧げてくれたぞ。最近になってやっとだがな。イグアルはもう少し早くできるようになれ」
美女二人が優雅にお茶を飲みながら、ラメドさんとイグアルさんを批評している。ラメドさんはギデオン爺ちゃんとヒルキヤさんの好奇の目を避けて背を向けて月を見ている。この場にエルがいなくて本当に良かった。二人を見て心からそう思った。
「ふふ、あははっ」
「どうした、セト」
「何でもないんだ。爺ちゃん。なんか嬉しくなったんだ。大人になってもこうやって楽しく過ごせるんだなぁ、って」
「セト、お前も大人になって。いずれはお爺ちゃんとなるんだ。だからそんな遠い目をしないでくれ。爺ちゃんはな、お前の結婚式が楽しみで生きているんだ。必ず儂より長生きをするんだぞ」
「うん、約束する」
サラ婆ちゃんが席を立つ。ラメドさんが何も言わず、一つの手紙を手に取って、サラ婆ちゃんに渡した。
「この二つの手紙はセト、そしてエルの封印を解くものであろう。恐らく武・太陽についても
「セト、私とサラは君にこれを預ける。封印を解くべきか解かないべきか。それがクルケアンを滅ぼすものか、栄光をもたらすものか、君たちが決めるものだと判断した」
「その代わり、私、ラメド、そしてここにいる大人たちは、過去と現在のクルケアンの問題に立ち向かう。クルケアンとハドルメとのしがらみを全部片づけてから、アスタルトの家に後事を委ねたい」
「嫌だよ、サラ婆ちゃん」
「セト?」
サラ婆ちゃんは膝を折って、僕の目線に合わせ、優しい微笑を浮かべて見つめてくれた。
「婆ちゃんも一緒に未来を創るんだよ。だって、僕たちはみんなでアスタルトの家だ。家族がいなくなるのはとても辛い。みんなで一緒にいたいよ」
確かに家族がいなくなるのは悲しい。他の家のお葬式に参列した時の悲しい気持ちはとても辛いものだった。でもどうしてこんなに辛いんだろう。まだ僕のレシュ家ではなくなった家族はいないはずなのに。
少しだけ赤い光が目から洩れ、サラ婆ちゃんの顔を朱色に染める。サラ婆ちゃんはそんな僕を優しく抱きしめてくれた。
「みんな、ボクをおいて、いかナイで……」
穴の底で僕は光が差す天に向けて叫ぶ。叫ぶ? ここは露台で穴ではないはずなのに。
「セト、セト。大丈夫だ。怖い思いをさせたね。ごめんね。泣かないでおくれ……」
サラ婆ちゃんが優しく僕の髪を撫でてくれる。僕は幼児の様にサラ婆ちゃんの胸で泣き続けた。もう家族を、大切な人を失いたくない。多くの人が死んでいく様子を見たくない。
祭壇で多くの生贄が捧げられた。
自ら命を絶つ者もいた。
伸ばしたその手が掴んでいるのは心臓だった。
兵が僕に向かって怨嗟の声をあげている。
イルモート! 力尽きた兵士が死ぬ前にそう叫んでいた。
火が赤ちゃんを、お母さんを、家族を包んでいる。
誰もいない荒野で僕だけが立ちつくしていた。
空から声が聞こえる。
でも帰るのはそこではない。
僕が帰るのはここだ。
僕が待つのはここなんだ。
赤い光が一瞬だけ強く光り輝き、露台の皆を包んでいく。
僕の大好きな人たちをもう殺させはしない。殺しはしない。
「落ち着いたかえ、セト」
気づけば耳元でサラ婆ちゃんの声が聞こえていた。
「うん。ありがとう。サラ婆ちゃん」
僕は皆に向き合い、手紙を取って、その雄牛の封蝋に手をかける。
「セト、今でなくとも!」
「爺ちゃん、今なんだ。きっと。僕が僕であるために。皆に見守っていて欲しいから」
封蝋は溶けるように消え去り、そこには地下に閉じ込められている化け物の絵が描かれていた。その絵の輪郭が光り、僕の胸に吸い込まれていく。
「エルと約束したんだ。きっとどちらかが探しに行くって、探し出して見せるって」
光が僕を包んでいく。サラ婆ちゃんが再び歩み寄ってきて僕の額に接吻をしてくれた。
「私の月の祝福をセトに渡しておく。寂しくないように、お守り代わりだ。……いってらっしゃい、セト」
空は白み始め、サラ婆ちゃんの顔が元にもどっていく。ラメドさんも同じだ。
「ふふっ、やっぱり僕は婆ちゃんのその顔が一番好きだよ」
いってきます。
そう言って僕は目を閉じた。
やがて光は消え失せ、セトと呼ばれた少年がゆっくりと目を開けた。そして別人のような顔で一同を睥睨し、サラを代表者とみて、淡々と言葉を発した。
「まだ封印は解かれていない。私がこの体をイルモートの肉体が封印された地へ連れていく。そこでセトが望めば私は融合を果たすであろう。セトの魂は眠っている。それまでこの体は預かろう」
「お主を何と呼べばいい?」
「イルモート」
ギデオンが殺意を込めてセトを睨んだ。それはセトの中に入っている異物にむけて放たれた怒りだった。
神だと? もうこのクルケアンに神は必要ないのだ。孫を蝕む封印なぞ、神の依り代としての孫なぞ、儂は望んではおらぬ。セトを帰還させるためにサラの打った手を信じつつ、ギデオンはイルモートが封印された神殿の大空洞で、神を名乗る輩と決着をつけることを誓った。
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