第143話 エルシード

〈エルシャ、大空洞の淵にて〉


「セト!」


 魔獣の唸り声が眼前に迫る中、セトが穴に飛び込んでいった。


「サラ導師、セトが、セトが!」

「エル、セトは大丈夫だ。この底にあるものを彼は知っておる。穴底を見るがいい。地の底が赤く光っておる」


 赤い光の粒が上がってきてはゆっくり消えていく。これはセトが底で魔獣の魂を開放しているのだろうか。こんな大量の魔獣をセトだけで?


「朝からセトは変だった。私の名前を呼び間違っていた。そんなこと、あるはずがない!」


 魔獣が石切階段を上がってくる。ガルディメルさんが先頭に立って斬りこんでいく。シャマールさんとシャンマが後に続いた。


「ガド小隊長、私達は前に出なくていいの?」

「まて、赤い光が、下から上がってくる。ミキト、見えるか?」

「セトの力で解放された魂ではないな。……赤い小さな光が近くに二つずつ、それがたくさん……」

「魔獣だ! ミキト、ゼノビア、エルとサラ導師を壁に、俺たちが淵で戦うぞ!」

「応さ!」

「了解!」


 わたしの目の前ではガルディメルさんが剣を振るって魔獣の動きを止めている。そこのすきを逃さず、シャマールさんが次々と斬り伏せる。空を飛ぶ魔獣の群れが、わたし達と三アスク(二十一・六メートル)まで狭まった時、ミキトとゼノビアの手から異様な音が続けて発せられた。弾ける音がして、火薬の匂いが辺りを覆う。短筒槍アルケビュスと呼ばれるギデオン爺ちゃん達が開発した兵器だ。


「体を狙うな、翼を狙え! 致命傷を与えられん。下に落とせさえすれば、セトが何とかしてくれる!」

「小隊長、携行弾、ここで全部使ってもいいかな?」

「だめだ。穴の底がどうなっているのか予測がつかん。ミキト、タファトおばさんの照明弾を込めろ、シャマール殿、聞こえますか、合図をしたら目を閉じてください!」

「魔獣と斬り合っているのに目を閉じよとは、クルケアンの若い兵士は無茶を言う」

「シャマール殿、ここはガドの言うことを信じてください。何せあの子たちは、空を飛ぶ飛竜を水で押し流したのですからな」

「はは、現世は滑稽なことが起きるのですね、ガルディメル。その空で流された騎士に会ってみたいものだ」

「……タダイ、シャンマ、聞いた通りだ、ガドの合図とともに目を閉じよ!」

「小隊長! 装填完了、三、二、……」

「目を閉じろ!」

「一、発射!」


 光が巨大な穴を照らしていた。目を瞑っていても瞳が焼き切れるかと思うくらいに光を感じ取れた。数瞬の後、暗闇が戻り、翼を持った魔獣は苦悶の声を上げて下へ落ちていくのが見えた。

 階段に伏せている魔獣をシャマールさんたちが止めを刺していく。私にはそれが人を刺しているように見えていた。


「エル、大丈夫だったか」

「ガド……。皆には魔獣に見えたの?」

「何を言っている?」

「わたしの目には人に見えたわ。今もそこに横たわっているのが人に見えるの。……わたしが変なのかな」

「何を言っている、底に横たわっているのは魔獣だ。俺たちに牙と爪を向けた魔獣なんだ。気をしっかり持て、エル」

「そうよね、ごめんね、変なこと言って。さぁ、早く底までいこう」


 一歩ずつ階段を下りるたびに、世界が現実か、幻想か分からなくなっていく。大空洞は神代と繋がっていると言われた事を思い出す。わたしは荒野の真ん中にある穴を降りているのだ。石切の階段ではなく、その上に大理石で装飾された美しい階段を。空は赤く染まっており、穴の上には多くの人々が涙を流してわたしを見ている。いや、彼らの視線は少しずれて穴の中央を向いている。光が差し込むその穴の底には一人の少年が仰向けに縛り付けられていた。セトに似ている。セト? いやあの少年の形をした存在を、その名を私は知っている。


「イルモート、考えは変わらないの?」


 わたしは階段を下りて、血に塗れた床に降り立った。かつてはヒトであったものの残骸がそこかしこに散らばっている。私は哀れみを込めて眺めながら、彼がいる祭壇に向かう。多くのヒトが彼のために殺され、殺したのだ。


「エルシード、力を人に与えた僕がいけないんだ。禁忌にはそれなりの理由があったはずなのに」

「馬鹿ね。どうして人に力を与えたの?」

「寂しかった。家族が欲しかった」

「私達も家族じゃない。ひどいことをいうのね」


 私は悔しくて口を尖らせた。天の涯、広寒宮に座す私達は、ヒトから神と言われていた。私達は時折、赤光に乗って人界に降りていく。ヒトはそこで私達に捧げものをしたり、祈りを捧げたりする。此方はヒトの想いを存在に置き換え、彼方は祝福を受けるのだ。その短い時間以外は、彼と私は寒く暗い空の宮殿でずっと一緒だったのだ。


 それなのに。彼は赤光に乗って人界にいったまま帰ってこなかった。

 次の赤光の時に私は魂だけで追いかけて、そのままヒトの体にとりついて彼を探した。対するイルモートは魂を、そしてその器たる肉体も、精神も地上に降ろしていたのだ。肉体と精神まで降ろせば、もう彼は天に戻ることはできない。


「僕たちは形を持たない。人の思いを依り代としてこの世界にいるのに過ぎない。家族意識や性別でさえ曖昧だ。エルシード、僕は肉体を持つことによって、家族を認識できたんだ」

「だから人になりたかったのね」


 悔しいという感情が、目を圧迫し、頬に水滴が流れてくる。彼はそんなわたしの顔を心配そうに見つめていた。


「あぁ、悲しまないでおくれ。君も依り代とはいえ、体を持ったことで感情を手に入れたんだね」

「こんな、苦しい思いをするのがヒトの証拠だとも?」

「そうだ。エルシード。苦しい思いだけじゃない。今、僕は君を愛おしく思えるんだ。この気持ちを手に入れられただけでも、ここに降りてきた価値はあった」

「そして、あなたは世界を消し去るのね」


 彼は悲しそうに頷いた。そうか、これが先刻、わたしがしていた表情か。


「さぁ、世界を乱した罰を受けよう。世界は漂白され、僕が来る前の世界に。あるべき世界へ、時の歩みを戻そう」


 わたしは腹が立ってきた。勝手に出ていって、勝手に感情を与えて、そして今、それすらも存在していなかったように世界を組み替えようとしている。


「わたしがいなくて平気なの?」

「……そうだ」


 彼は口の端を少し上げてそう答えた。


「嘘つき」

「……エル、ごめんね」


 穴の上から鉄の槍が雷雨のように彼の体に降り注いだ。世界は白くなり、全ての時が戻されていく。いや、戻るのではない。世界が消えて、復活するのだ。彼が起こしたこの騒乱も、死んだヒトもなかったことになる。悲しむヒトもいない、誰も失うものがない。結構な結末ではないか。


「なのに、なぜ、私の記憶はそのままなの……」


 気付けば私は広寒宮に戻っていた。

 誰もこの寂しさをわかってくれない。

 独り、私は天の涯で泣き続けた。



 暗い穴の底に、イルモートの体が祭壇に横たわっている。

 そばには彼に似た幼い少年が立ちつくしていた。

 少年の体の力が抜けたように、祭壇に座るように崩れ落ちる。わたしは肩を支えながら、彼の横に座った。


「やっと、出会えた。……ひどい人ね」


 わたしは少年の胸を借りて泣き出した。

 恨み言をいうつもりだった。

 ヒトのように殴りつけてもいいと思った。

 でも彼の頬を撫でるだけで心はこんなにも乱れていく。


 あぁ、でも時間がない。エルシャに意識を返さねば、この依り代は形を保てないだろう。ただの器であり、記憶をなぞることしかできない精神が、ヒトとして生きることを選んだエルシードの魂に影響を与えてはならないのだ。


 願わくは、彼女も幸せになって欲しい。

 わたしはエルシードであり、わたしはエルシャだ。両立はできない。

 だが、セトもイルモートも助けるには人の命では短すぎるのだ。

 エルシードの魂はどういう選択をするのだろう。

 繰り返すのか、それとも死ぬのか。

 わたしは彼を強く抱きしめて、そう考えた。



 生きた魔獣とその屍骸に囲まれた大空洞の穴底で、エルシャは意識を取り戻した。エルシード、そうつぶやいた後、彼女は祭壇に横たわるイルモートとセトの体を見続けていた。

 

「この寝坊助め」


 エルシャは笑ってセトの頬をつねる。


「いつも起こしに来るのはわたしなんだから。甘えん坊のセト」


 エルシャはセトの荷物から雄牛の封蝋の巻き手紙を取り出した。エルシードは彼女に、セトを救いたければ人の命では短すぎる、と伝えていたのだ。


「最後まで付き合ってあげる。今度もわたしが起こしてあげるからね。他の人に起こされたら承知しないぞ」


 エルシャはセトの唇に顔を寄せ接吻をした。

 少女は顔上げて少年を優しく撫でる。

 そして涙が少年の唇を湿らせた。

 

 エルシャは優しい笑顔を浮かべながら封蝋を解き、大空洞は青い光に包まれた。


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