第109話 血肉と獣欲

〈アスタルトの家、神殿にて教皇と対峙しながら〉


「お待ちください、入室はアスタルトの家の関係者のみとなっております!」

「そうか、ならば問題ない。私は彼らの後見人なのでな、さぁ、そこをお退き」


 会議室の外から、力強い老女の言葉が聞こえてきた。教皇に退室を命じられたイグアルが、不測の事態に対応するべくサラと共に再び乗り込んできたのだ。


「シャヘル、邪魔をするぞ」

「サラか、まぁよい。一応は元老であったお主だ。尊大な態度も大目に見てやろう」

「変わってしまったな。善良な薬師であったお主はもう何処にもいないのか」

「その通りだ。奴の性質などもはや何処にもない」


 堪らずエラムが教皇に向かって叫んだ。


「シャヘルさん、貴方は神の愛を、その存在を確かめたいがために多くの人を助けてきたはずだ。その在り方までも失ってしまったのですか!」

「そうだ。エラムよ。シャヘルの意思はすでに失った。しかし私は受け継いだのだ。今日、貴様らを呼んだのはそれを伝えるためでもある」

「受け継いだ……?」


「サラよ、クルケアンの賢者よ。魔人化の儀式の本当の意味を知っておろう」

「魔獣の魂を人に流し込むことで、その力を手に入れることができる。表向きはな、しかし、月の祝福を受けた私には分かる。魂の融合だ」

「その通りだ。流石はシャヘルの師だ。そしてヤムの弟子だ」

「ヤムを知っているのか。感情を伴う記憶はともかく、知識はシャヘルから受け継いでいるということか」

「そうだ。それ故にお前が哀れでならぬ、では魔獣はどこから来た? セトよ、お前なら知っていよう」


「……人だよ。魔獣は人だったんだ」


 セトがシャヘルを見据えてそう言った。シャヘルは鷹揚にうなずき、その発言の正しさを認めたのだった。


「魔獣や魔獣石を僕の力で消し去った時、人の意識が流れ込んできたんだ。だから、分かった。このクルケアンが何でできているかを」


 エルとトゥイが悲鳴を上げた。クルケアンが人の魂で出来た巨大な墓場だと理解したのだ。


「北壁と外壁、そして中層から上は全て魔獣石でできている。なぜだ、なぜ神殿はそんなひどいことを知っていながら黙っているんだ!」


 セトは自分の力を知っていくにつれて、クルケアンの都市そのものを理解してしまっていた。クルケアンを愛していた自分、クルケアンの歴史が血と怨嗟の声で彩られた事実を知った自分、セトはそんな複雑きわまる心情を、今、出口を求めてシャヘルにぶつけたのだ。


「知りたいか? ならば依頼を出してやろう。クルケアンの家の者たちよ」

「依頼だと?」

「今日ここに残ってもらったのは二つの依頼をお主たちに出すつもりであったのだ。命令ではない。受けるも断るもお主たちの自由だ。私がシャヘルに敬意を表する最後の機会だと思え」


 教皇は冷淡にそう告げた。


「……普通の魔人化では魂と意識はその支配権を巡って争い融合するのだ。魂の強さに差がなければ融け合って自我なぞ無くなるのだ。しかしシャヘルはな、自身の意識を、その支配権を最初から手放したのだ。その魂に迷いはなく、限りなく透明であった。故に身体はシャヘルであるが、意識はハドルメ国の神官シャプシュである。それが私だ」


 ハドルメという国にサラが反応した。かつて彼女の師がその国の歴史を語ったことがあったからだ。


「昔に滅んだ民族が魔獣へと変わったというのか」

「あぁ、お主たちクルケアンの民によってな。貴様らは我らにとって敵というわけだ」

「ま、待て、お主の話が本当ならなぜトゥグラトに従っているのだ」

「トゥグラトがこの体にかけた呪いよ。故に我は奴の命令には逆らえぬ。だからお主たちに依頼をするのだ。それがシャヘルの願いでもあったからな。エラム!」

「はい」


 エラムは落ち着いていた。シャヘルの遺志を受け取り、その意図を読み取って実現しなければならない、それは自分の義務だ。そう考えて教皇の言葉を一字一句心に刻みつけていたのだ。


「一つ目の依頼だ。クルケアンの民への祝福はこの数年で失われる。故に祝福や魔力に頼らない都市建設を推進すべし」

「承知しました。シャヘルさんの魂にかけて実行しましょう。しかし祝福が失われるとははどういうことでしょうか?」

「サラが詳しいはずだ。元老であったからな、人を家畜と同様に扱うあの政策に関与していないはずはない。どうした、サラよ、青い顔をして。今更自分たちの所業に恐れ慄くのか。笑止なことよな。……セト!」

「は、はい」

「数年の内にお主は選ぶであろう。この都市の崩壊か、延命かを。印の祝福を受けし若者よ、地下神殿の奥の院で隠された歴史を調べるがよい。私は興味があるのだ。真実を得た時、人は四百年前と同じ過ちを繰り返すのか、そうでないのか。以上が私の依頼であり、シャヘルの願いでもあった」


「猊下、この子達への依頼は分かりました。しかし貴方の意図が分かりません。貴方は私たちの味方なのでしょうか」


 いずれにせよ、この子達の安全が確保されなければ、そうタファトは考え、教皇に言質を求める。

 教皇はその顔に哀れみを浮かべ、そしてそれは一瞬で嘲弄へと変わっていった。


「浅はかよな、娘よ。私が貴様らクルケアンの味方をするものか。シャヘルに対しては同じ神官であった身として敬意を払ったが、それだけだ。私はな、今度は貴様らが永遠の苦しみを味わうことになるのだと、我が神に感謝しているのだぞ。そして今は神殿もハドルメも今は協力関係にある。何を選択しようとお主たちの行きつく先は地獄しかないのだ。それにな、私は今腹が減っておる。お主たちの白い肌を見ると、その肉を、血を啜りたくて堪らぬのだ」


 教皇はおぞましい顔で、シャヘルの伝言の礼の代わりに、何人か喰らうつもりであることを告げたのであった。そして、半数は食べ残すので、安心して業務に携わるがよいぞ、と笑顔で語ったのだ。教皇の目が大きくくぼんでいく。その手には魔爪が伸び、会議室には瘴気が充満した。


「浅はかなのは教皇、貴方でしょう。シャヘル様の生き様を見事と思うなら、なぜ彼らを信用しないのです?」


 人を喰らうという、その衝撃にあって只一人タファトが臆せず前に進み出る。それは彼女の姉と同じ境地にあったのだろう。彼女には身命を捧げてでも守りたいものがあった。


「何だと?」

「貴方はシャヘル様の魂が迷いなく、と評価されました。古代の民とはいえ、私たちと同じ喜怒哀楽があり、貴方自身がそれを共有できていたではないですか。故に、私は貴方に要求します。彼らを信じなさい。トゥグラトの命令に従わざるを得ないとはいえ、その範囲で彼らと行動を共にすることができましょう」

「歴史を知らぬ小娘めが、我らの民の恨みを知ればそのような戯言も言えまい」

「ええ、知りません。ですが、貴方のご依頼の通り学び、知りましょう。知ったうえで彼らは選択をするのです。彼らが最善の選択をすると考えないのですか! 彼らの選択は貴方をも救うはずです。人を喰らう獣になり果てて、未来を奪うとは。この子たちは世界の可能性、彼らを甘く見ないでいただきたい!」


 タファトは怒っていた。なぜこの子達が巻き込まれるのであろう。なぜ世界の重荷を背負わされるのだろう。この子たちは誰も切り捨てたりはしない、優しい子たちであるのに。その小さな身を震わせ、怒気を纏いながらタファトは考える。……世界を創ればいいのだ。悲しい歴史や争いを全て包み込んだ、新しい世界を。過去に対する責任は私達大人が取ればいい。そのためにならこの命など惜しくはない。


 教皇の目が赤く光った。魔人になりつつある教皇に抗すべく、タファトの周りをイグアル、サラ、セト、エル、エラム、トゥイが守るように囲んだ。

 セトの目も赤く光り、短剣を握りしめていた。


「やめなさい、みんな。こんなところで戦うのを先生は見たくはないの。猊下、失礼をしました。ご無礼をお許しください。この命をもって謝罪いたします。その代わり私の言を受け入れてくれれば幸いでございます」


 教皇の目が更に赤く光る。それは血を欲する魔獣の眼に近づいていた。


「命か、どうせこの場でお主とそこの幼い娘達を喰らうつもりでおったが、しかし、大言に免じてお主の血肉で今日は退くとしよう」


「先生を殺させるものか!」


 セトが皆の中央に立って短剣を構えた。すでに剣にはセトの魔力が満ちている。対する教皇も権能杖を振り上げ、両者の間に激烈な振動が起り、部屋にひびを入れていく。


「やめてぇ!」


 エルの叫びが聞こえた瞬間、全員が草原の上に立っていた。

 

 空は青く、鳥たちが歌い、緑の丘に割く花が風に揺れている。川のせせらぎは耳に心地よく聞こえてくる。そんな美しい光家が広がっていた。

 そして、その中心には目から青い光を放つエルシャが佇んでいた。

 

「お、おお、エリシェ、いや、エルシード、この時代におわすとは……」


 教皇が涙を流して伏している。エルシャが何か教皇に囁き、タファトに大丈夫よと、笑顔を向けた。


 次の瞬間、彼らはひび割れた会議室に戻っていた。教皇は元の姿に戻り、エルシャはセトの腕に寄りかかって震えている。

 物音を聞いて飛び込んでくる衛兵を教皇は手を上げて制止した。


「タファトよ、そなたの言葉、我が魂にかけて受け止めるとしよう。私個人の誠意として、後日、守護者を派遣する。今日はもう下がるがよい」


 一行が退席した後、ひびだらけの会議室で一人、教皇は思考を続けた。


「四百年前の再現は必ず起きる、だが希望は見えた。あぁ、王はこの時代から……」


 虚脱したように教皇は椅子に深く座り、天井を仰いだ。


「シャヘルよ、お主の賭けた未来は、案外全てを救うかもしれぬ。この浅ましい獣欲にまみれた我ら魔人達すらも。だが、同意するつもりはないぞ」


 過去をそう割り切れるものではない、そう闇に向かって呟いた。そして彼はその闇の中に一人の人物の気配を感じた。


「フェルネスか、油断のならぬ奴。明日から遠征だというのに闇に隠れて何をしておる。……剣を抜いておるな、もしやあの者達に情が沸いたとでもいうのか。愚か者めが。王の養子としての立場をわきまえるがよい」


 殺気を帯びた気配が闇から消えたのを確認すると、教皇はため息を深くついた。気を取り直すように、先ほど見た美しい光景を脳裏に描く。


「カルブ河よ、ティムガの草原よ、失われし我が故郷よ……」

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