第95話 北伐② 月の女神
〈バルアダン、北伐の行軍にて〉
行軍三日目の夕方、私達はクルケアンから八千アスク(約六十五キロ)まで到達していた。
「バルアダン中隊長、ミキトが水場を発見しました。俺の小隊で規模や衛生など調査してきます」
「サリーヌ小隊で基地建設に適したくぼ地を見つけました。これから後続の基地建設部隊のために、縄で区割りを張っておきます」
ガドとサリーヌの報告を聞いて満足を覚える。実践に勝る訓練はない。研究や発展性には乏しいかもしれないが、工夫と習熟において彼らは他の兵より確実に成長していった。クルケアンの軍は対人・対国を想定して編成や訓練がされていない。軍の移動ですら教本ができていないのだ。やがてガドやサリーヌ達の経験が反映されていくだろう。
彼らの報告をまとめ、後方に建設されているであろう基地に向かってタニンを飛ばした。ガドとサリーヌが小隊に指示をした後、こちらに向かってくる。
「バルアダン中隊長。今日はあの岩場で野営となりそうです。今、ガトと天幕を張りますのでそこでお休みください」
「サリーヌ、前にも言ったろう、人のいない時は中隊長は不要だと。ガドもだ」
「しかし上官を呼び捨てにするのは」
「まったく、ダレトも頑固だったが、妹も同じか。よし、ならば上官命令だ。私の精神衛生上、部下がいない時はバルと呼ぶように、いいな?」
「分かりました、……バル」
「りょ、了解です、バルアダンさん」
二人とも遠慮しているようだが、いいとしよう。セトやエルと離れてまだ数日なのに、喪失感を覚える自分がいたのだ。アナトは、貴殿の器量なら一軍を率いてもおかしくはあるまい、といってくれたが、この体たらくではなれるはずもないだろう。
「バルアダンさんって、もしかして寂しがり?」
「きっとそうね。バルって出征の時も私達の兵舎に来てくれたし」
「サリーヌ、お前、呼び捨てにできて嬉しそうだな」
「ガドこそ、前のように呼べて嬉しいんでしょう」
寂しがりではない、何か、こう家族や友人の温かさを求めているだけなのだが。しかし良い上官は部下の些細な誤解をいちいち指摘しないものだ、と考え、共に天幕を張るために岩場へ歩いていった。
日が沈みきる前、神獣騎士団の部隊が物資を持って天幕前に降り立った。アナトではないようだ。連隊長を示す暗い赤の外套を纏った白鎧の男が、私に向かってその歩を進めてくる。
「バルアダン中隊長、休息中に失礼する。神獣騎士団連隊長のアサグです」
「……これはアサグ連隊長、お役目ご苦労さまです」
「いや、一同、お立ちにならずとも結構。すぐに荷を下ろして引き返す故。また、明日の昼には神獣騎士団全員がこの基地に集結します。その時に改めて正式な挨拶をさせていただきましょう」
あの施薬院の一件があっても、この神官は罪を問われなかった。表向きは魔獣の暴走として軍も神殿も処理したが、魔人と化したアサグに対する神殿の発表はなかったのだ。シャムガル将軍に呼び出された私は、アサグもべリアと同じくザババの毒による意識混濁状態であり、不幸な事故であった、と告げられたのだ。将軍に対する不信感と共に、もしかしたら魔人化について、軍は神殿と結託しているのではないかと疑いを持った。
「了解しました。ところでアサグ連隊長、自ら物資運搬をされているのは、アナト殿と同じく訓練の為でしょうか?」
情報が欲しい。それが敵対した人物であってもだ。アサグの表情は兜のせいでよく分からないが、その獣のような、それでいて虚ろな目だけは昔のままに赤く光っていた。
「バルアダン殿、戦が始まればお互い忙しくなる。個人的な挨拶だけは今のうちにしておきたかったのです」
そう言って彼は私に近づき、耳元でささやく。
「こちら側に来ませんか? 貴方の強さは、その剣をこの身に受けた私が一番よく知っている」
「断る。私の剣はクルケアンの民を、友人を、家族を守るためだ。人体実験をする輩とどうして手を組めよう」
「それは残念だ。しかし、貴方の正義の正しさは誰が決めるのでしょうか。大義はこちらにあるのですよ。神殿にいらっしゃれば、シャヘル様も喜んで奥の院の知識を授けるとのことです」
爬虫類のような息遣いが耳障りだった。
「貴方は友人をどうやって守るので? 待っていますよ、バルアダン殿。それまで魔獣ごときにしてやられることがないよう、祈っております」
そう言ってアサグは踵を返し、その外套の色と同じく赤黒くなった空に飛び立っていった。
日が落ちて、夜番以外の隊員たちは眠りについていた。右からガドのいびきが聞こえる。左の寝床はサリーヌで、夜番に出ているためだろう、毛布だけがそこにあった。私はアサグの言葉に不安を感じ、寝付けないままであった。
褒められた行為ではないが、こういう場合に備えて、また気付けや消毒のために小型の水筒に蒸留酒を入れて携帯している。外で飲んで早く体を休めなければ、と天幕をでた。
「バル、寝られないのですか?」
「あぁ、あのアサグを見るとどうしてもこれまでの因縁が思い出されてな。サリーヌも少しどうだ?」
私は蒸留酒の入った水筒を掲げ、部下を共犯に誘う。
「上官命令なら仕方ないですね。お供しましょう」
月の光に照らされたサリーヌは、黒い髪が銀色の絹糸ように光り輝き、その美しさを際立たせていた。彼女が月の祝福を受けたのも頷ける。
水筒の蓋を酒杯代わりに差し出そうとすると、サリーヌは水筒ごと受け取って、小さく喉を鳴らしながら、ゆっくりと酒を味わった。
「もしかしてかなり飲めるのか、サリーヌ」
「いえ、初めてです」
「何! しまった、気付け用のきつい酒だ、水を持ってくるからな」
「大丈夫そうですよ。それより、バルの番ですよ」
「そうか、ではいただこう」
サリーヌから水筒を受け取り、口に含む。酒精が胃に染み渡り、少し張り詰めていた心がほぐされる。それに伴って身体の緊張も和らいだようだ。
「バル、アサグは何と言っていたのです?」
「神殿の側に来ないか、と言われた。勿論拒否をした。すまんな、多分今後も狙われていくだろう」
「それは私も同じことです。お互い様ですよ。兄がバルと共闘したように、次は私の番です。だから謝罪は不要です。でないとこちらも謝りますよ?」
「それは勘弁願いたいな」
「はい、では謝罪はしません。だから貴方の横で剣をふるわせてください。……そのかわりに私を守っていただけますか」
「勿論だ、サリーヌ」
そうして私達はもう三口ほど水筒を傾けた。背後で騒がしい声が聞こえる。魔道具の灯りで部下の顔が照らされている。何人か起きたようだ。
「ええ、と、隊長、たち、ばかり、ずるい、と言っているようです」
「よく分かるな」
「……神官時代、読唇術は叩きこまれたもので」
「サリーヌ、抜け駆けだよ!」
ウェルが口をとがらせてサリーヌに抗議する。
「中隊長、すみません、もしかして俺のいびきがうるさかったですか?」
ガド達がおどおどと駆け寄ってくる。ミキトが私達の水筒を見て大声を上げる。
「隊長たちお酒を飲んでいる! こいつはひどいや、士気が下がるというものだ!」
「い、いやこれはな、ミキト」
「ウェル、どうしたらいいと思う?」
「仕方ない、これは隊長に責任を取ってもらおう。みんなを起こしてきて! どうせ明日からは堅苦しい本軍と合流するんだ。今のうちに中隊全員で宴会だ!」
夜分に使いから戻ってきていたタニンがのそのそと、人の輪に近づいてくる。どうやら宴会という言葉に反応したらしい。ずん、と横たわって、ラザロを見やる。
「え、私に食事を持ってこいってことですか! りょ、了解です。そんなに唸らないでください」
いつの間にか焚火がたかれ、私達は朝日が上る前からささやかな宴会を始めていた。
「あ、サリーヌ、酔っぱらって中隊長にもたれかかっている! さぁみんな、中隊長の肩にもたれかかるのは順番だよ。一人青銅貨一枚から!」
「二枚出す!」
「三枚だ!」
「お、おい、ウェル、私は商品ではないんだぞ。サリーヌは最後の夜番だったからゆっくり休ませてあげよう」
悪ふざけをして盛り上がる隊員達に苦笑しながら宴は続いた。やがてうっすらと朝の光が差し込み、隊員の笑顔がはっきり見てとれる。……必ずこの大事な部下を生還させよう。色々悩むことはあるが、まずはそれからだ。
私は神殿が崇めるイルモート神ではなく、膝の上で眠っている月の女神にそう誓ったのだった。
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