第90話 冒険と蜂蜜入りのカターフ
〈ヒルキヤ、セト達を見下ろしながら〉
少年と少女が律動的な足音を立ててクルケアンの模型に駆け寄った時、その彼らを工房の三階から老人が見つめていた。その老人は追放されたバルアダンの祖父であり、名をヒルキヤという。
老人は子供たちのうち、娘の方が以前ギルドの依頼を受けて支部に来た子だと気付いた。今ではソディから事のあらましを聞いて、彼女が何者か知っている。そして横の少年の事も。
彼らが自分の孫、バルアダンの弟妹分だと聞いて、ヒルキヤはあの子にも守るものができたのだ、と喜んだ。今日、ヒルキヤは笑顔を見せる二人を見て、彼が兄として健やかに成長して彼らを見守っていたのだと嬉しく思った。
セトがクルケアンの模型の周りを一周して、カムディに向かって都市の欠点を語り始める。下層の都市構造の問題点をすらすらと言える当たり、成程、流石は旅人ギデオンの孫だと納得する。思えばギデオンに会ってから自分の運命は劇的に変わったのだ。
セトの語りはやがて演説となり、カムディもギデオンも手を叩いて楽しんでいる。思わず自分も少年の演説に対して手を叩こうとして自制する。もしあの子たちが気付いて話しかけられたら、自分はザイン家のことを、バルアダンのことを聞いてしまうだろう、と考えたのだ。彼は若い世代を巻き込みたくはなかった。
セトの演説はやがてヒルキヤの頭の中でギデオンの演説に変わっていった。ヒルキヤは階下の少年の言葉を、過去へ誘う音楽代わりにして老人は椅子に腰かけ目を閉じる。
それは四十年前の記憶だった。
「船だと、それは本当か!」
貴族のザイン家としてすでに軍の重鎮であったヒルキヤは、報告を聞いて入り江の塔に駆け付けた。嵐の海を越えて船が一艘、入港してきたというのだ。既に七十年前から入港してきた船はなく、クルケアンが外の国から断絶して久しい。もしや嵐が晴れたのかと、期待と警戒を抱いてその船に近づいた。
「これはひどい……」
その船は竜骨が折れ、入港というよりも漂流といった態で流れ着いてきたのだ。
「生存者がいれば返事せよ!」
ヒルキヤの言葉に反応はない。外の世界に憧れていた彼は残念に思いつつも、せめて弔いをせねばと、小舟を指示して、船を港に引き寄せ乗り込んだ。
「おぉ、もう朝かぁ?」
その時、壊れかけた船室から一人の男が出てきたのだ。一目で異国のものと分かる服を着て、ぼさぼさの頭と、火のように輝く目とともに。
「お主は何者だ、どこから来た!」
厳しい誰何の声を投げかけるも、ヒルキヤは胸が躍っていた。これから何かが起こりそうな予感がしていたのだ。
「なぁ、ここは伝説のクルケアンか? あんた、階段都市ってのはどこにあるんだい!」
男はヒルキヤと顔を接するくらい近づき、襟首を両手で掴みながら口角泡を飛ばす。これには完全に閉口したヒルキヤはたまらずクルケアンの頂上を指し示した。男はそのままクルケアンを見て涙を流していた。
「やったぞ、クルケアンだ! ははっ、あんたはクルケアンの住民だな、そこのあんたも! 俺はとうとうたどり着いたんだ!」
男は付近の兵士にまで握手を求めながら、時には抱きつきながら歩き出した。ヒルキヤもその部下もあっけにとられて男の為すがままにさせていた。流石に男が港で魚を運んでいる女性にまで手を広げたとき、慌てて取り押さえる。が、男は抱きつかれたと勘違いしたようだ。
「お、あんたも俺を歓迎してくれるのか。俺の名はギデオン、モティアからきたレシュ家のギデオンだ!」
そしてヒルキヤは強い力で抱きしめられた。
七十年ぶりの外国人として、評議会からその保護と外の情勢を聞くように命じられたヒルキヤは、上層の自分の家に招待という形で監視を行った。貴族でありながら家族を事故で失っているヒルキヤのために、ニンスンという貴族の幼馴染が二人の世話に女中を連れてやってくるようになった。
「ギデオン、それで外の世界はどうなっているんだ。前に話してくれた煙を出す馬車っていうのを詳しく教えてくれ!」
「ギデオン! お前の曽祖父はクルケアン出身だったのか。おそらく嵐の海になる前に外に出たのだな」
「……ギデオン、このクルケアンをどう思う? 美しいとは思うが、停滞してしまった。軍も評議会も魔獣の襲撃も、同じことの繰り返しだ。変化を求めることは悪いことなのかな」
「ニンスン、聞いてくれ、ギデオンはすごいんだぞ、木を削って空を滑るように飛んでいくおもちゃ作ったんだ。外の世界のおもちゃはすごいな」
監視のはずが目を輝かせて質問を浴びせてくるヒルキヤに、ギデオンは思わずニンスンに苦言を言う。
「ニンスン、ヒルキヤってもしかして子供なのか?」
「ええ、ギデオン、否定できないわ。まったく、この広い家に子供が増えて賑やかになったことね」
「ん、この家にはまだ子供がいるのか?」
想像にお任せするわ、冒険者さん、そう言ってニンスンは笑って、ギデオンに外の世界の美味しいお菓子のことを聞くのであった。
数か月が過ぎた、客人というより同居人として暮らすうちに、二人はお互いを友人と思うようになっていた。そしてニンスンは二人の良き相談役でもあった。やがてヒルキヤは、クルケアンの住民には言えない愚痴をギデオンに話すようになっていく。そんな友にギデオンは誘いの言葉をかけるのだ。
「なぁ、黒き大地も、その北の森も、そして西部も探検すればいいじゃないか。だって俺は嵐の海を超えた男だぞ? お前と一緒に都市の外に出るくらい、朝飯前だ」
「……俺は貴族だ。ここを離れられない。黒き大地にも行ってはいけない。あそこは禁止区域だからな」
ヒルキヤは酒を呷あおった。黒き大地へは無理でも西側の小都市群には行きたかったのだ。彼は軍人ではなく、商人として旅がしたかった、世界を見たかったのだ。ギデオンはふん、と不満そうに酒気と共に息を吐き出し、友人に絡みだした。
「あのなぁ、お前はどうなんだよ、行きたいのか、行きたくないのか! 心を殺してどうする。そんなことだからニンスンにも告白できないんだ。情けない男だ」
「軍人に対して情けないだと、どうしてそんなことがいえる!」
「昨日告白して、一か月後には結婚式に参加させてやる、と言ったのは誰だ」
「……私だ」
「昨日と今日が無理なら明日、ニンスンに言ったらどうだ。弱虫!」
「また言ったな、弱虫と! あぁ、明日いうぞ、明日こそいうぞ!」
三十歳に差し掛かろうという大人の会話ではなかった。翌日、ヒルキヤの家を訪れたニンスンは床に散らばった酒瓶をみてため息をつき、折り重なって二日酔いに苦しんでいる二人に水をかけた。
「しっかりしなさい! 二人とも。軍の英雄と、冒険者が何という体たらくですか!」
夢うつつのヒルキヤが起き上がり、ニンスンの手を取って告白する。
「ニンスン、結婚してくれ」
ふらつきながらギデオンは手をたたいて友人のために喜んだ。ニンスンは、そんな最低な結婚の申し込みがありますか、とヒルキヤとギデオンに酔いが吹っ飛ぶほどの平手打ちをみまうと、三日以内に理想の告白をしなさい、と言って腕を組んで二人を見下ろしたのだ。
軍一筋に生きてきたヒルキヤと冒険に関する知識しかのないギデオンは、必死で告白の仕方を考えた。結局それから二回の失敗を経てヒルキヤは美しい花嫁を迎えることができたのである。
結婚式のその日、ヒルキヤの視界にギデオンが壁を背にして酒を飲んでいる姿が入った。すこし残念そうにしている彼にその理由を聞いた。
「これでヒルキヤ、お前を旅に連れていくことはできなくなったな。だが、それでいい。家族を経営するのも冒険だ。頑張れよ」
「ヒルキヤ、お前もニンスンのことを……」
「馬鹿を言うな、ニンスンは気に入っているが、友人のお前をとっていったからな。だから――」
「だから?」
「お前達の子や孫ができたら、ヒルキヤ、お前の代わりに旅に連れ出すぞ。覚悟しておけよ? 旅をしながらお前は弱虫でクルケアンから出なかったぞ、と言って陰で悪口を仕込んでおくからな」
そう言って笑う友人に、ヒルキヤは最初であった時と同じように、しかし、今度は彼の方から強く抱きしめた。憎まれ口を叩きつつもギデオンは頻繁に友人たちを訪ね、菓子の作り方を教えたり、クルケアン西方の都市に行った話をしたりして、彼にしてはゆっくりとした時間を過ごしていったのだ。
ヒルキヤが現実に意識を戻した。セトの演説がその結びを迎えたのだ。
「……このように水力による動力の確保と機械による都市の生活水準の向上で、都市を豊かにしましょう。そうすれば、僕たちは旅に出る余裕が生まれる」
「旅に出るだと? お主の孫はすごいことを言い出すな、ギデオン」
「クルケアンの都市の問題点はそこなんです、僕が頂上に行きたいのも、そこに行けば多くを見渡せるからなんです。だって、世界は広いんでしょう? 西の都市すらあまり行き来がないのに。僕はクルケアンが大好きです。だから、ここを拠点として多くの世界と結びつきたい。空に近づけば、天に近づけば世界が見える。だから、僕は自分のためにこの都市を変えていく」
ヒルキヤは行きたいのか、と自分を誘ったギデオンの言葉を思い出していた。そう、私も行きたかったのだ、あの時は行けなかった。孫たちにも行かせないのだろうか。それはもう十分だ。十年前、自分が追放刑になった時、死の床にあったニンスンが笑っていったのだ。
「あなた、それは自由を手に入れたということよ。本当はね、あの時、貴方がギデオンと冒険に出ていくんじゃないかってずっと心配だったの。実は私もついていくつもりだった。三人の旅も悪くないだろうしね。でも貴方は私を選んでくれた。だから、自由を返してあげる」
「何を言う。私こそ君を伴侶に出来てよかった。ラバンもユディも、そしてバルアダンも多くの家族に囲まれたのだ。知らぬ世界を味わったのだ。これを冒険といわずして何という」
「ふふっ、じゃぁ、あなた、次の冒険よ。ラバンも陰でギデオンと旅に出ていたことだし、貴方も……」
「ニンスン、無理をするな、ゆっくり休め、休んでくれ」
「ありがとう、あなた。私は幸せでした。ちゃんとギデオンと仲良くするのよ。あなたの旅の報告、楽しみにしているわ。私はあちらであなたの好物の蜂蜜入りのカターフを作って待っているから……」
旅に出る、か。外の世界を彼らは知りたいのだ。それがこのクルケアンの住民のためになろう。神の道具としてなり果てるだけ未来をこの子たちには選ばせない、そうヒルキヤは決心した。
そして老人は若者の演説に心から大きな拍手をした。
セトたちは階上を振り向くが、そこには椅子が一つあるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます