第57話 魔人
〈教皇の謁見室にて〉
百二十層の工房が半壊したことを、管理責任者のナブーは震えながらトゥグラトに報告をする。飛竜に対抗する魔獣の軍団を作るための権限と地位、そして見合うだけの報酬が彼に入るはずだったが、その夢は竜と合成した魔獣の暴走で崩れ去ったのである。実験の責任を問われ、死罪でもおかしくはない状況にナブーは這いつくばって謝罪する。
「現場に出くわしたのは飛竜騎士団のバルアダンなのだな」
「魔獣が壊した壁の隙間より、変異を見て取ったとのことでございます。いや、魔獣石の壁を壊すとは一応は研究の成果が出ているものと――」
「構わぬ」
「はっ?」
「構わぬと言ったのだ。すでに飛竜騎士団には口止めをしておる。適当な神官を誘拐と人体実験の犯人として処刑せよ」
ナブーは主の機嫌を損ねてはまずいと、油汗を垂らしながら急ぎその場を去った。横にいたアサグがナブーの処刑を提言するが、トゥグラトは首を左右に振る。
「奴は我の関心を得るためにヒトとしての分限を越えおった。正気で同族を殺し続けるほどに狂っておる。実験が完了するまでは生かしておいても良かろう」
「はい、全ては兄上の御心のままに」
「さて、今回の真相はバルアダンによる襲撃だな。アサグ、お前はどう見る?」
「情報によるとダレトが負傷していたとのこと。恐らく猊下の命を受けたのを口実に二人で探っていたのでしょう」
「違いない。あの者共も未熟ではあるが頭角を出してきた。やはりここから始まるのだ」
「いいのですか、今ならば潰すのも容易いですぞ?」
「熟すのを待とう。なに、それも長い時間ではない。我らも四百年前とは違うのだ」
その言葉をアサグは首肯する。この四百年、自分と兄はヒトの血肉を喰らい続けたことで最盛期の力を取り戻しつつある。まして兄なら王者として敵を正面から叩き潰す、という自負は当然だろう。だがいささか迂遠ではないかとも思うのだ。古より待つよりも行動することこそ、この兄は好むはずだった。
「全てはあの日からですか、兄上」
「そうだ、あの日見たあの力……それを手に入れるためにはこの流れでよい」
アサグはその言葉を聞いて嫉妬する。
兄の意識をかくも捉えて放さないその日の記憶は、自分には絵画のようにしか思い出せない。当時のことを覚えているのはクルケアンでただ兄がいるだけなのだ。
だが、兄が求める力については自分の魂に刻み込まれている。神や獣にはない恐るべきヒトの力を、あの時自分も経験しているのだ。だからこそ記憶の一片は残ったのだろう。そしてあの時、自分の近くにいた同盟者達はどう行動するのだろうか。
「そういえば、ダゴンとメルカルトはどうしているのでしょう。そろそろ目覚める頃合いだと思いますが」
「ダゴンめ、大貴族の血に潜むのは良いが、覚醒を忘れて眠り込んでいるのではないかな」
「……ダゴンは兄上と志を共にしておりますが、同盟を裏切ったメルカルトにはお気を付け下さい。奴はいつでも強者との戦いを望みます。挑むのは兄上か、それともヒトの強者か」
「メルカルト、ベリア、フェルネス、バルアダン……いずれにしても我らと、神殿が準備している軍には敵うまい。そのための四百年であった」
トゥグラトは満足げに頷いた。このクルケアンの宗教も政治も神殿の意のままとなって長い。いまさら工房の一つが潰されたところで何になろう。だが、戦いを前に必要なのは数を揃えることだ。兵は揃いつつあるが、ヒトを支配するための能吏が足りていない。本来、戦いこそ自分の領分であり、政治という面倒なことはヒトに任せるべきだろう……。
「我が弟よ、奴の魔人化を始めよ」
「承りました、我が兄」
アサグは謁見の間を辞し、地下深く階段を降りて奥の院にある石室へ赴いた。その部屋の空気は重く湿っており、常人ではただ不快にしか感じられないはずだが、アサグは気にもとめようとしない。目指す石室には鎖で繋がれた男がおり、アサグを睨みつけていた。
「ご機嫌はいかがでしょう、シャヘル神殿長」
「……教皇もお主も何を考えている。祝福の件といい、神殿は民をだまして平気なのか」
「おや、乱暴な言葉ですね。神殿に対する敬意はどこへ行ったのです?」
「神に対する信仰はまだ変わらん。……あるのは神を騙るお主らへの憎しみよ」
シャヘルは言い終わると床に血を吐いた。石室に監禁されて後、怪しい薬を飲まされ続けており、体が限界を迎えていたのだ。薬師としての知識からそれが魔力を吸収しやすくするためのものだと知っていた。そして、そのために体を作り変えられているということも。
呻くシャヘルの側にもう一人の人物が現れる。それは権能杖を手にした老人で、古い時代の神官服を着ていた。
「準備は整ったようだな、アサグよ」
「この男、愚か者ではありますが兄は期待しているようです。失敗はされぬように」
「誰にものを言っておる。これまで幾人もの施術を成功させてきた儂だぞ?」
「施術? 実験の間違いでしょう」
アサグが静かに老人に向かって毒を吐く。アサグにとってトゥグラトに敵対する可能性があるもの全てが敵であり、故に、老人に対しても警戒を解いてはいない。ただ人を魔に変える力だけが貴重なのであり、取引に応じているうちは手出しができないだけだった。もっとも、老人もアサグを信用していない。両者ともどちらかが一線を超えれば嬉々として相手を殺すだろう。
「お前は、誰だ……」
シャヘルはその老人の顔を思い出そうとするが、薬による意識の混濁が始まり、その名が浮かぶ寸前で消え去ってしまう。生きてはいないはずの名だった。そう、最近ダレトから聞いたような名でもあった。だが誰なのか――。
「お前は、娘を、いや違う……」
「そうだな、儂のことは君を強くしてあげる者とだけ認識してくれればいい。弱さで馬鹿にされ続けたお主だ、力は欲しいだろう?」
その老人は邪悪な笑みを浮かべた。実験動物に対して、その痛みや苦しみを耐え抜くために一つの灯を示しているのである。それが例え赤黒くおぞましい光だったとしても、ヒトはそれに縋ってしまうだろう。
「力など、いら、ん」
「謙虚なことだ……しかし必要な資質でもある。何しろお主は教皇になると聞いておる」
「何を、言う。この、痴れ、者」
「教皇にふさわしい、民を守る力を授けてやるというのだ。そしてその力でこの階段都市を恐怖で支配するがいい」
男が権能杖を床に突きつけると、上部に取り付けられた円環がじゃりん、と音を鳴らす。杖が月明りのように淡い光を発し、シャヘルを照らした。
「やめ、ろ、やめて、くれ」
「魔獣十頭分の魔力をお主と同化させるが、自我は半分残してやろう。
杖に蓄えられていた、かつては人であった魔獣の魂がシャヘルに流れ込む。
シャヘルは魔力が精神を侵食しているのを感じ、必死の抵抗を試みた。
他人の魂が精神の海で蓄えられていた大切な記憶を奪っていく。
守れなかった少女の記憶が、
まだ反抗期のような青年の顔が、
そして共に夢を語り合った少年との時間が、
齧られ削り取られていった。
「我が魂を喰らう者共よ、こればっかりはくれてやらぬぞ。そうだ、私は欲深いのだ。この三つの宝は誰にも渡させはせん――」
常人なら絶望をする状況でシャヘルは祈りを捧げる。
まだ見ぬ神にまだ知らぬ神の慈愛を求めて。
「神よ、それでも私はあなたの愛を信じましょう」
施術が終わり、アサグは老人に首尾を聞こうとするが、その顔を見て驚いた。あの傲岸不遜な老人が苦々し気な表情を浮かべているのだ。
「アサグよ、お前はこの男を愚か者といったな」
「ええ、ヒトの中でも欲に塗れ、恥知らずな者ですが?」
「精神の中に強い魂をもっておったわ。もしかするともう一度施術が必要かもしれん」
「まさか、あのベリアでさえ一度で十分だったものを」
「……ヒトの力というものはまだまだ儂らには見抜けないのかもしれぬ。次の儀式まであの薬草を煎じて飲ませるが良い。貴重な薬草だが、神殿ならまだあるだろう。だが――」
「もしやそれでも失敗するとでも?」
老人は頷いた。シャヘルの神を求めるその思いを断ち切らない限り、施術は失敗に終わり死が待つだけだろう。ならば絶望を与えればいいのだ。心を折ってこそ、その隙間に悪意は入り込むことができるのだから。
「次に目覚めた時、奴の一番大事な場所で過ごさせるのだ。人としての生の実感を与え、そしてそれを折り続ければいい」
「なるほど、それならばシャヘルは薬師であったと聞く。三十五層の施薬院に所縁の地もあろうから、そこで監視させ施術を行うとしよう」
老人は頷き、権能杖を再び床に突きつけた。円環が鳴った音を残してその姿が消えた時、アサグは疑いを込めて呟いた。
「ヤム、
アサグにしてみれば、シャヘルはやはり愚者なのである。あの賢者ヤムが施術に失敗するとは思えないのだ。だが、シャヘルが愚者でないとすれば、それを見抜けない自分こそ愚かなのかもしれないと自嘲する。
「……誰が一番愚かなのか、一年の後にはわかろう。いずれにせよクルケアンを一番憎むものが、最後には勝者となるのだ」
そしてアサグは兄に報告すべく、石室を去っていった。
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