第2話 魔獣

〈バルアダン、魔獣と対峙する〉


「セト、エル、みんなを連れて近くの建物に逃げ込め!」


 弟妹が迷惑をかけていると聞いて駆けつけて見れば、魔獣まで出てくる始末。兵の詰め所に駆け込む暇もなく、近くには伝声管もない。せめて百九十層の飛竜騎士団が騒ぎに気付き、駆け付けてくれるのを願うしかない。

 赤黒い巨大な獅子が獲物に狙いをつけるようにひたり、ひたりと近づいてくる。その卑しい獣は口中にあった犬の体を一飲みすると、まだ物足りないかのように私を見据えるのだ。


「落ち着け、勝つ必要はないんだ。脚を斬り、動きを鈍くするだけで――」


 そう自分に言い聞かせ、努めて平静を装う。だが魔獣は未熟な私を嘲弄するかのように、ゆっくりとその前脚を振りかざした。大きく鋭い爪が私の視界の半ばを奪い、次の瞬間には急激に視界が狭まっていった。


「舐めるな、魔獣め!」


 初撃を受け止めることができたのは偶然だろう。とっさに振り上げた一撃は魔獣の爪を砕き、僅かに後退させることに成功する。こちらも距離を取って周囲を確認すると、エルが子供達を指揮して腰を抜かした神官達を下の層へと続く小塔に放り込んでいた。


「バル兄、こっちは大丈夫!」

「よくやった、ところでセトはどうした?」

「衛兵さん達と向かいの路地にわなを仕掛けているわ。誘導、よろしく!」


 ……クルケアンの誰もが恐れる魔獣を前に、弟妹はむしろ楽しんで周囲を指揮しているのだ。やれやれ、兄としては負けてられないな、と苦笑をして魔獣に立ち向かう。恐怖も緊張ももはやない。振り下ろされた魔爪を無視し、裂帛の気合と共に長剣を振り下ろしながら懐に飛び込んだ。


「ガァアアッ!」


 左肩を砕かれた魔獣は、血と怒りの声をまき散らしながら私に体をぶつけてくる。私は剣を巻き込むように半身を捻り、その勢いを全て叩きつけた。魔獣の顎を斬り飛ばした代償に、向かいの路地へと吹き飛ばされてしまう。煉瓦と埃を浴びながら見上げると建物の屋上からセトのしたり顔がそこに在った。そして恐らく彼に巻き込まれたであろう衛兵達が、セトの指示を受けて綱をそこかしこに結び付けている。


「よーし、これでわなは完了っと。あとはこの路地の奥まで追い込めば僕達の勝ち!」


 奥に追い詰めるには私が魔獣をやり過ごさないといけないのだが、その困難さをセトは分かっているのだろうか。いや、輝いたセトの眼を見る限り、私ならできると思っていると信じ込んでいるのだろう。その期待に応えなければいけないのが、兄の辛さというものだ。まぁ、弟の前で恰好をつけたいという欲も同時にあるのだが。

 魔獣は路地裏に私を追い詰めたと思っているのだろう。逃げ道を塞ぐように斜めに身構えている。だが、肩を砕かれた左脚では跳躍することはできず、必然、その態勢は飛び出す角度を私に教えてくれる。

 魔獣がその丸太のような右脚を石畳に打ち付け飛び掛かる。私は空いた僅かな隙間に向け斜めに駆け抜け、その勢いで半身を撫で斬った。よろめいた魔獣が路地の奥に倒れた時、セトの元気な声が響き渡る。


「よし、衛兵さん、一番と三番の綱をちょっと前に引いてから引っ張り上げて!」

「おうさ!」


 魔獣の脚下にあった綱が絡まり、その動きを封じ込める。驚き、首を振ろうとする魔獣だったが、その首に何かがまとわりついていることに気付く。


「次、二番と四番の綱を緩めて……そうそう、そこで一気に絞るんだ!」

「うへぇ、魔獣を縛り上げるなんざ、聞いたこともない」

「ふふん、すごいでしょう!」

「でもよ、セト。こんな綱どこに隠し持っていたんだ?」

「えへん、衛兵さんとの追いかけっこに備えて、そこら中にね。このクルケアン全てが僕の通り道ってわけさ!」

「うんうん、没収しておくからな」

「そんなぁ!」


 のんきな声を聞きながら、どうやら勝ったようだと私は壁に背を預けた。やがて子供達を引き連れたエルの声も混ざり、全員の無事を確認する。

 さて、一連のドタバタでセトもエルも忘れているようだが、帰ったらきっちり、みっちりと説教をしなければ。私ももう成人の儀を迎える。おそらく兵士としてどこかの砦に配属されるのだろう。安心して家を出るためにも、お灸をすえておくとしよう。

 なんとなく寂しい気持ちで剣を鞘に納めると、壁が軋むような音が聞こえてきた。それどころか、路地全体が揺れているのだ。


「セト、地震かもしれない。はやく屋上から中に避難するんだ」

「ち、違うよ、バル兄! 魔獣が、魔獣が綱を引きちぎろうとしてるんだ!」

「何?」


 振り返れば魔獣が立ち上がり、綱を食いちぎろうとしている光景だった。砕いた爪や肩も、斬り飛ばした牙も、撫で斬ったはずの胴体さえも赤黒い光と共にその形を取り戻していく。流石に左脚はうまく動かないようだが、取り戻した殺意を受け、冷や汗が全身を流れ落ち、私は死を覚悟した。せめて組み付き、魔獣の頭を落して弟妹達を救わねば――。


「どけ、そこの兵士よ」


 冷たいが、力強い声が私の背中を打ち付ける。ガシャン、と甲冑の音が響き、全身を武装した騎士が私を押しのけ、魔獣に無造作に歩み寄る。無謀だと、止めようとする私に、もう一人の騎士がそれを押し留めた。


「大丈夫だ、バルアダン。あの騎士は俺より強い」

「……フェルネス隊長!」


 飛竜騎士団の俊英であるフェルネス隊長がそこにいた。評議員でもあり身分ははるかに上の方だが、クルケアンを探検し、高所から降りられなくなったセトを度々助けてくれた縁で、すっかり見知った仲になったのだ。


「ベリア団長に勝てる魔獣や人なぞ、いるはずもない」

「あの方が、クルケアン最強のベリア団長! しかし、少し前に魔獣相手に深手を負い、右足が義足となったのでは?」

「それでも最強なのだから恐ろしい。やれやれ、いつになったら俺がその座に居座ることができるのか」


 義足に触れる足具の奇妙な音と共に、ベリア団長は悠然と大剣を抜いた。あまりにも自然な、日常のようなその所作に、魔獣は気圧され後退あとずさりする。


「どうした、かかってこないのか? 足が不自由な者同士、友好を深めようではないか」


 大剣を大上段に構え、不敵な笑みを浮かべて言い放つ。


「互いに戦いにしか生きられぬなら、剣と牙を突き立てることだけが言葉よ」


 威に圧し負けた魔獣がその怖れから逃げ出すように跳び掛かる。それをベリア団長は無造作に眺めると、次の瞬間、一剣の下に両断したのだ。血煙を浴び、剣を袖で拭った団長は、その冷たい目を私に向ける。


「貴様がこの魔獣に深手を負わせたのか」

「浅い傷をつけるだけで精一杯でした」

「飛竜もなく魔獣に挑める勇者が謙遜をするな。それは兵の美徳ではない」


 値踏みするようなベリア団長の視線に、フェルネス隊長が耳打ちし、私の名を告げる。


「そうか、貴様がバルアダンか。楽しみにしているぞ」

「楽しみ?」


 訝しむ私をよそに、ベリア団長は駆け付けてきた騎士団に対し、指示を出していく。


「隊員の準備を待って駆け付けたのだろうが、遅すぎるわ。この訓練生のように単身で魔獣に飛び掛かる気迫がなければ有事に間に合わぬ。次に私より遅ければ、斬り捨てる故、心せよ!」

「はっ!」

「フェルネス、血の匂いに引き込まれてまた魔獣が来るやもしれん。お前の竜で子供達を最下層の広場まで降ろせ」

「了解です。なんだかんだで子供にはお優しい」

「なんだ、お前達にも優しくしてほしいのか?」

「そんな恐ろしい団長は見たくありません……では失礼します」


 大きな影が路地を覆い、見上げれば黒い竜の姿があった。フェルネス隊長の乗騎であるハミルカルが舞い降りたのだ。セトが喜んでその鞍に飛び乗り、エルや子供達を慣れた様子で引き上げている。フェルネス隊長が手綱を握ると、ハミルカルはゆっくりと上昇していった。


「ではバルアダン、次は隊舎で会うとしよう」

「隊舎?」

「あぁ、飛竜騎士団に推薦をしておいた。直に兵学校のラメド校長から呼び出しがあるはずだ。共に戦えること、楽しみにしているぞ」

「私が飛竜騎士団に!」

「やったぁ、バル兄、すごいや!」

「家に帰ってお祝いの準備をしなくっちゃ! わたしのとっておきの料理、楽しみにしておいてね」


 エルとセトが鞍上で歓声を上げているが、これはいつでも竜に乗れると先走っているのだろう。彼らを見送り、気を落ち着けるために外壁沿いを歩きながらクルケアンの街並みを見下ろす。それでも手が震えるのを止めることはできない。


 かつて祖父が所属していた飛竜騎士団に、ついに手が届いたのだ。

 祖父が謀反の疑いで追放され、上層から最下層へと追放されたザイン家。

 死罪のはずが罪一等を減じられたのは、クルケアン創設以来の貴族であったためだ。

 その名誉を取り戻せる機会を私は得たのだ。

 それはその罪の真相を調べる機会でもある。


「バルアダン、お前は赤い光には近づくな。調べようとしてはならぬぞ。クルケアンのおぞましい秘密は、老人達で解決すべきことなのだから」


 祖父のヒルキヤは幼い私にそう言って姿を消した。姿を探して泣き喚く私に、平民に堕とされた父母は黙って抱きしめるばかりであった。

 ……今の環境が嫌いなわけではない。何より平民となったことで、愛すべき弟妹を得ることができた。多少元気すぎて手を焼かされるのが問題だが、それさえも貴族では得られない貴重な時間だった。だからこそ、クルケアンの秘密が祖父のように私の家族に害をなすのかも知れないと、恐れてしまうのだ。


「お爺様、赤光に近づこうとする私をお許しください」


 そう呟いた私は、飛竜三体がかりで運んでいる魔獣の遺骸を目にした。既に生気のないその目が、私を睨んでいるようだ。思わず身構えた私の気配を察したのか、竜も私に顔を向ける。


「赤い目……」


 魔獣や竜の瞳の奥から、赤い光が発せられたかのように思うのは、気にしすぎているからだろう。私は軽く身震いをすると、その場から足早に立ち去った。

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