階段都市クルケアン
夏頼
クルケアンの若者たち
第1話 クルケアン
〈セト、クルケアンの外壁にて〉
「うん、いい風だ」
春の風は八十層のこの外壁にまで遠くの草原の匂いを届けてくれる。
深呼吸をして百アスク(約七百二十メートル)ほどの高さから見下ろせば、下層になだらかに広がる街並みが見えた。
「こういう日は、百層にまで登ってゆっくり日向ぼっこをしたいんだけどなぁ」
残念だけどもうここから離れなきゃいけない。
僕は軽く腿を上げて走り出す用意を始める。だって背後には息を切らした衛兵が迫ってきているのだ。
「セト、そこでおとなしく待っていろ! まったくいつも百層に侵入しようとして!」
「いつもじゃないよ? 今月はまだ三回しか登っていないんだから!」
「一回でも不法に中層へ入れば懲罰層入りだ! 子供だから拳骨で許してやっていたものを――今度という今度は許さないぞ!」
いつの間にか衛兵が増え、外壁に立つ僕を囲んでいた。
あ、やばい。みんな青筋を立てている。この三年でこんなやりとりを二十回もしているのだから、そろそろ仲良くなってもいいはずなのに。
「仕方ない、二十一回目の追いかけっこを始めますか!」
「こら、逃げるな! もうお前も訓練生になる年齢だろう。すこしは大人に――」
みんなが絶句したのは僕が両手を上げて外壁のへりに飛びあがったからだ。急に優しい声を出して、ひきつった笑顔を見せてくる。
「セ、セト。ほら、いい子だからそこから下りておいで。悪戯で怪我をしたり、命を失ったりしても仕方ないだろう?」
「えーでも怒られるのは嫌だな。さて、どうしよう?」
「馬鹿なことは考えるなよ? おじさん達もそこまで怒らないから」
「え、じゃぁ許してくれるの?」
「……おじさん達の代わりに君の兄がわりのバルアダンに怒ってもらおう」
「それ、懲罰層行きよりもひどいじゃん!」
距離を一気に詰めた衛兵が飛びついた瞬間、僕は外壁から一気に下層へと飛び降りた。
「しまった! ご家族に何て詫びればいいんだ」
「――待て、セトだ、セトが空にいるぞ!」
準備は万全。逃走のためにすぐ下の層まで鉄輪をつけた綱を張っていたのだ。
気持ちよく滑り降り、中央部の大階段まで出て衛兵たちに大きく手を振る。
「じゃ、またね!」
「こ、このクソガキめ! 絶対に許さん!」
あ、やばい。そういえば予備の鉄輪を八十層に残したままだった。
衛兵達も次々に鉄輪を握りしめこちらに向かってくる。慌ててつづら折りになっている大階段を駆け下り、鬼ごっこの続きを始めた。
「ん、下からも誰かがくる?」
どうやら先頭にいる女の子を大勢の神官が追いかけまわしているらしい。悪戯でもしたのだろうか。まったく困った子がいるもんだ。……実はその子に見覚えがあるのだけど、面倒事に巻き込まれそうなので敢えて知らないふりをする。
「あれ、セト! セトじゃない! こんなところでどうしたの?」
「……」
「どうしたのよ、わたしの声が聞こえないの? セト! セトったら!」
元気に階段を登ってきている女の子が僕に向かって大声を張り上げる。その声を聞いて彼女の後ろで追いかけている神官が僕に視線を向けた。
「セト! やっぱりお前もエルシャと共犯だったのか!」
「クルケアンの悪戯っ子共め。お尻を叩くくらいのお仕置きじゃすまさんぞ!」
あぁ、やっぱり巻き込まれた。
こうやって僕はこの幼馴染のしでかした責任を負わされるのだ。
「エル、また悪戯をしたの!」
「悪戯じゃないわ! 昨日の夜、砂嵐が下層を汚したでしょう? だから特に被害を受けた七十層の汚れを落とそうと水路の流れを変えただけよ。通りも綺麗になったし、むしろ褒めてもらいたいぐらいだわ」
「じゃ、なんであんなに怒っているのさ!」
エルは視線を逸らし、下手な口笛を吹き始める。
こいつ、絶対に余計なことをやらかしたに違いない。でもそれを問い詰める時間はなかった。上層からは衛兵の一団が、下層からは神官が僕達に迫ったのだ。
階段の踊り場で駆けあがってきたエルとぶつかりそうになる。身を反らして避けようとすると、彼女は腕を絡めて背中合わせにして立ち止まったのだ。
「下の説得よろしく。どうせあんたも何か悪いことをしたんでしょ? 当事者なら聞く耳を持ってくれないだろうし、上はわたしが引き受けるわ」
力強いその言葉とは裏腹に、一人で逃げるなという脅迫が背中と腕を通して伝わってくる。僕は諦めてため息をついて、神官達と対峙する。
「エルが迷惑をかけたようだけど、一体何をしたんです。あっ、僕は無関係ですからね」
「水路をいじくって、教区長の宿舎に向けて泥を流し込んだんだっ!」
……なるほど。彼女の善意は後始末までは考えていなかったらしい。
僕はエルが街の被害を気にしていた事、下層とはいえ、比較的高齢の方が多いこの層の清掃が捗らないこともあり、つい水路をいじってしまった(という想像だけど)のだと、彼女のために言い訳をする。
「それに教区長の宿舎の後始末、僕も手伝いますから許してやってください」
「しかしだな――」
「エルに悪気はなかったんです。まぁ、向こう見ずで乱暴で、単純だけど」
組まれたエルの腕に力が入り、僕は小さく悲鳴を上げる。
「誰が向こう見ずで乱暴者よ!」
「うまく説得できそうなんだからいいじゃないか。それよりそっちもうまくやってよ!」
「ふふん、このエルシャ様に任せなさい」
エルが自信満々に返事をして、衛兵たちを説得していく。
「衛兵のみなさん、この馬鹿は何をしたのです?」
「また勝手に百層に侵入したのさ。そろそろきついお仕置きをしないとな」
事情を察したエルが押し殺した声で笑うのを背中越しに感じる。
あ、これは人を騙そうとして楽しんでいるな。
「……セトが中層に登るのはこれが最後なんです。だから許してやってくれませんか」
「最後?」
「ええ、私達は三日後には祝福を受け訓練生となり、クルケアンを天に伸ばすための技術を学んでいきます。だから、もう子供ではいられません。……セトは最後に衛兵のみなさんにお礼を言いたくて登ったんです」
「お礼なんて聞いていないが?」
「セトは十五歳になっても、意地っ張りで、決断力がなくて、女の子の扱いすら知らないお子様なんです。きっと照れくさかったんでしょう。姉代わりとしては頼もしく成長して欲しいのですが。……弟の不始末をお詫びいたします」
だれがお子様だ、誰が弟だ!
同じ歳の幼馴染だけど、僕の方がお兄さんっぽいはずだ。
もっとも、本当の兄がわりであるバル兄とはとても比較できないけど。
「そ、そうか、これで最後なら仕方ないか……」
衛兵が口ごもった様子から察するに、エルはうるんだ瞳を見せて目を伏せているに違いない。これで騙されない大人はいないのだ。
「……お、うまくいったようね。じゃ、この隙に教区長の宿舎に行く振りをして逃げ出しましょう」
「了解、了解。でも、あれ? ちびっ子達もここに来るよ。何かあったのかな」
「あ、しまった!」
なぜか慌てたエルシャは僕と腕を組んだまま走り出そうとした。もちろん二人とも曲芸師ではないので「ぐぇ」と声を上げて倒れ込んでしまう。神官と衛兵が手を差し出し、僕達を助け起こそうとした時、子供達が上機嫌で声をかけてきたのだ。
「あ、エル姉ちゃん。さっきの水の滑り台面白かったよね! もう一回しようよ!」
「こ、こら、それは内緒にしてって言ったでしょ!」
「それにあの偉そうで意地悪な教区長の家を泥だらけにしたの面白かった! 流れをあんなにうまくぶつけるなんて、さすがはエル姉ちゃんだね」
「……」
言い逃れができない状況で、エルはえへへ、とひきつった笑顔を浮かべる。神官も笑顔なのは、事態がもう最悪なことを示しているのだろう。さらば、エル。僕は先に家に帰るとするね。
「あ、セト兄ちゃんも、百層に行ってきたんでしょ? いいなぁ」
「今回が最後だけどね」
「え、兄ちゃんが訓練生になったら僕達も連れて行ってくれるって約束したでしょ?」
「それは――」
「楽しみだなぁ。訓練生になるまでに百五十層、成人の儀を迎えたら二百層に行くっていう計画!」
恐る恐る衛兵の顔を覗き見ると、やっぱり彼らも笑顔だった。
「……どうする、エル?」
「強行突破。わたしに策がある」
そしてエルは空を指さして「あ、空に巨大な飛竜がいるわ!」と声を上げた。上層に拠点を持つ飛竜騎士団が何か異変を察して出動したのだろうか。魔獣の被害が年々多くなっているため、守ってくれている飛竜騎士団への関心は高いのだ。その場の全員が顔を上げて竜を探す。そう、それは僕も同じだった。
「エル? 飛竜なんていないんだけど――」
振り返ると、彼女が階段を駆け下りている光景が遠くに映る。あっけにとられた僕だったけど、周りより半瞬早く事態を理解すると、エルを追って脱兎のごとくその場を逃げ出した。
「あいつらめ、また騙したな!」
「みんな、追うぞ!」
怒声が次々と頭に降りかかる中、僕はエルに追いつき抗議の叫びをあげる。
「エル、僕まで騙すなんて!」
「あら、セトを信頼してこその策よ。うん、幼馴染だからこそできる連携よね」
「……そろそろこの連携も終わりにしようか」
「何よ、含みのある言い方ね」
「何の祝福を受けるか、どこの所属の訓練生になるかで離れ離れになるだろ? こうやって一緒に追いかけられるのも最後かも」
急に走る速度を落としたエルが、心配そうな目で僕を見つめてきた。
「セトは……わたしと離れても平気なの?」
真顔になったエルの言葉を受けて、僕は思わず足を止めてしまう。
そりゃ少しは寂しいとは思うし、悪戯好きなエルを放っておけないとも思う。でも、この階段都市を建設するためには、その才能を活かした場所に配置されてしまう。それに、三年間の訓練生を経て成人になれば、僕はきっと下層にはいないだろう。中層、そして上層、そして頂上を僕は目指すつもりでいるのだから。
なぜクルケアンの頂上を目指すのか、実は明確な理由はない。
あるとすれば、そこに行けと魂を揺さぶってくる、赤黒い衝動だろうか。
「エル、僕は大人になったら――って、あれ?」
気付くと、エルはさらに下方で僕に手を振っていた。そして呆然と立ち止まった僕の肩を大人達が掴んだのだった。
「ふーんだ、セトがどこにいても、わたしだけは追いついて、探し出してやるんだから」
そう言ってエルはあっかんべー、と舌を出す。
「……追いつくって言うのならさ、とりあえずここまで戻ってきてくれるかな?」
「わたしを置いて行こうとした罰ね。しっかり反省しなさい!」
でもクルケアン一の悪戯娘の逃亡はそこで終わった。皮鎧を着た兵士が彼女の前に現れ、猫にするように首根っこを掴んで捕らえたのだ。
「あっ、バル
「エル、それにセト。また悪戯をしたのかい?」
バル
訓練生であるバル
「衛兵殿、弟妹が御迷惑をおかけして申し訳ありません。お詫びに校長に掛け合って私が任務の代行をいたしましょう。あぁ、教区長様の宿舎の後始末は私も手伝いますので――」
「い、いや、特別な祝福者である君にそんなことまではさせられん」
「いえ、責任を取ることが兄としての務めでもあります」
……この調子だと、家に帰ってもたっぷりと怒られるのだろうなぁ。僕のレシュ家、エルのメム家とバル
「みんな、路地を見て!」
「……エル、もう素直に怒られて終わりにしようよ」
「違うの、あそこ、あそこに魔獣が!」
衛兵が騙されるものかと笑いながらも、エルの視線の先に顔を向けた。でもグルル……という唸り声を聞いて全員が身構える。果たして路地裏の影から現れたのが犬の頭と知った時、衛兵の一人が胸をなでおろして近づいて行った。
「なんだ犬かよ。まったく驚かせやがって」
「お、おい、その犬、様子が変だぞ!」
「怖がれば何でもそう見えるものさ。ほら、おいで――」
衛兵が手を伸ばすと、犬の首が転がり落ちた。そして巨大な獅子のような獣が、かわいそうな犬の胴体を咥えて現れたのだ。恐怖で誰も動けないこの状況で、ただ一人、バル
「魔獣め、どうやってクルケアンの内部に侵入した?」
バル
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