第902話 フェアリーリング


 もはや〈霧の悪夢フォギーナイトメア〉に戦う意思がないことは明白だった。その動きには敵意も抵抗の兆しもなく、ただ静かに根を広げ、風に揺れる葉が微かな音を奏でるだけだった。


 これまでもそうしてきたように、〈アスィミラ〉は戦闘を回避する最良の方法を選んだ。結局のところ、異星植物〈霧の悪夢〉の望みはただ生きることであり、そのためなら生息域を無理に広げることはせず、無駄な争いを避けることも選択する。それは、生存を最優先に据える知的生命体本来の姿なのかもしれない。


 目の前に立つ擬似状体を見つめながら、頭部に装着していた〈感覚共有装置〉を通じて、敵対する意思がないことを伝えた。「争う理由はない、共存する道を探そう」と。


 思考として発せられた意思は、周囲に立ち込めていた濃密な霧を鮮やかな色合いに変え、それは徐々に形を変えながら桜吹雪のように花々を舞い上がらせていく。つめたく暗い、痛みを伴う空間は優しい光に包み込まれていき、蜜の香りに満たされた風が吹くようになる。


 手にしていた擲弾発射器をゆっくりと足元に落とした。枯れた植物の残骸――砂場に埋まる銃身が鈍い音を立てるが、それはただの音ではなく、和解を示す音として〈アスィミラ〉に伝わる。砂に埋もれた銃身には苔が生え、木製のストックからは植物が芽を出していく。


 そして感覚の消失が始まる。〈アスィミラ〉の意識を通じて見ていた世界が、ゆっくりと薄れていくのが分かった。鮮やかだった色彩は徐々に色褪せ、万華鏡のように複雑だった音の波は形を失い、周囲の環境から流れ込んでいた膨大な情報も無意味なノイズに変わっていく。それは、馴染みのある現実世界に引き戻される感覚でもあった。


 目の前の世界が人間の視覚にのみ依存した平面的で、面白みのない世界に収束していく中で、ある思考に囚われる。人類がどれほど退屈な世界で生きているのか――あるいは、どれほど単調な形でしか世界を理解できていないのか、と。


 けれどすぐにその考えを振り払った。そもそも、超感覚的知覚を持つ異星植物と人類を比較すること自体が間違っているのだ。〈霧の悪夢〉の持つ感覚は、人類の認知能力を遥かに超えたものだった。それはまるで無限に広がる海に飛び込みながら、溺れることなくその流れを楽しむような感覚だ。しかし、人間にはまだその準備ができていない。


 ある種の幻覚剤などを通じて、その世界を垣間見ることはできるかもしれない。けれど果てのない世界を日常的に感じ取り、それに耐え続けることは、今の人類には不可能だ。それは進化の過程で獲得した性質であり、無理に得ようとすれば必ず綻びが生じる。


 結局のところ、ないものねだりをしても仕方がない。この〈感覚共有装置〉を〈ハガネ〉に取り込むことができれば、あるいは新たな知覚を獲得できるかもしれないが……とにかく、そうして〈アスィミラ〉との深い繋がりは断たれてしまう。


 目の前に佇む擬似状体――記憶の中の女性研究員を模した生命体は、徐々にその形状を失い始めた。人間らしい輪郭は次第に曖昧になり、肌の質感は樹皮に変化していく。その変化はどこか神秘的で、夢の中で形が移ろうような不確かさを伴っていた。やがて擬似状体は完全に植物本来の姿を取り戻し、しっかりとした幹を持つ樹木に姿を変えた。


 幹には深い刻み目があり、そこから緩やかに蔓が伸びていた。しかし、それらのツル植物は攻撃の意思を感じさせるものではなく、ただ静かに風に揺れていた。それまでの触手のように無数の棘を突き出し、威圧感を放っていた植物の一部とは明らかに異なっていた。大気中に胞子を散布していた菌類の活動も完全に止まっていた。


 その結果、我々は安全に宇宙港に出入りできるようになった。植物の領域に足を踏み入れる際に感じていた緊張感は、もはや感じられない。代わりに、霧の中に漂う微かな平穏ささえ感じられるようになった。


 霧がかかった静寂のなか、背後に微かな気配を感じ取って周囲を見回すと、巨大な影がゆっくりと霧の中からあらわれた。それは植物の守護者でもある、あの捕食者だった。


 その姿は相変わらず恐ろしかった。熊のような巨体を包み込む漆黒の外殻は鈍い光を放ち、無数の触手がゆらゆらと動く様子は海底に生息する深海生物のようだ。頭部にはクリオネの触角を思わせる禍々しい器官が揺れていた。しかし、その恐ろしげな姿とは対照的に、もはや敵対の意思は感じられなかった。ただ我々の行動を観察しているようだった。


 すでに〈アスィミラ〉と情報を共有していたのだろう。この領域を侵す者を容赦なく排除していた化け物は、今では敵意を持たない大人しい存在として振る舞っている。


 やはり〈アスィミラ〉の知性は、単に支配するのではなく、共存の道を模索する方向へと進化したのだろう。それは恐るべき捕食者が脅威としての役割を捨て、守護者として新たな形態を選んだことからも感じられた。


 濃密に立ち込めていた霧は徐々に薄まり始め、視界が広がっていく。湿った大気はまだ肌にまとわりついていたが、先ほどまでの不気味さは薄れ、代わりに微かな静けさと安堵感が漂っていた。


〈感覚共有装置〉を介して見た異星植物の記憶と、そこで得られた情報が脳裏に鮮明に残っている。それはただの知識の共有ではなく、生命の根源に触れるような、神秘を超越した感覚的な経験だった。その感覚をカグヤやペパーミントと共有しようとしたが、やはり言葉だけで説明するのは難しい。


『レイが見たっていう女性研究員って、この人かな?』

 カグヤの言葉のあと、地下施設で働いていた研究員のID情報が視線の先に表示された。数百人の名前と顔写真が次々に表示されるなか、あるひとりの女性が選び出される。


「アメリア・オカザキ……」

 その名前をつぶやいた瞬間、植物を通して見た記憶が蘇る。


 記憶の中の女性と、拡張現実で表示される女性の面影は確かに重なっていた。けれど途方もない年月が流れた影響なのか、〈アスィミラ〉の記憶は完全ではなかった。断片的な映像と感覚の中で、彼女がどんな人物だったのかを知る術はほとんどない。それでも、植物が抱えていた微かな憧憬どうけいのような感情は、この女性に向けられたものだった。


 そこで、ふと〈アスィミラ〉との友好関係を築く意味を込めて贈り物をしようと思いついた。不幸なすれ違いによって、我々のファーストコンタクトは殺し合いに発展してしまったが、こうして互いを理解し合うことができた。


 殺されるかもしれないような切迫した状況だったので、仕方ないことだったのかもしれないが、彼女の同胞に対する謝罪の気持ちも込めて何かを贈るべきだと感じていた。


 そのことをペパーミントに話すと、彼女が操る機械人形は〈ウェンディゴ〉に積まれていた荷物を探り始める。さまざまな資材や装置の中から、手のひらに乗るほどの小さなホログラム投影機を見つけた。それは光と熱で充電され、半永久的に動作するデバイスだった。すでに旧文明期では枯れた技術だったこともあり、装置の信頼性は高い。


 そのホログラム投影機を、特殊な擬似状体が変化した樹木のそばに設置する。そして、IDカードに記録されていたアメリア・オカザキの等身大の姿を投影するように設定する。装置が淡い光を放ちながら起動すると、空間の中に透明感のある女性の姿が投影される。その姿は、かつて〈アスィミラ〉が記憶していた女性そのものだった。


 ホログラムのアメリアが樹木のとなりに立つと、奇妙な変化が起こり始めた。樹木の根元から菌類があらわれ、それが円を描くように広がり始めた。まるでホログラムを中心にして形成されるフェアリーリングのようだった。その菌輪きんりんは美しく輝き、〈アスィミラ〉が贈り物を受け入れ、感謝の意を示しているようにも見えた。

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