第901話 環境適応能力


 異星植物〈霧の悪夢フォギーナイトメア〉は静かに、しかし着実に浮遊島で生息域を拡大していく。地下施設から根を伸ばし、地表に菌糸を広げ、胞子は霧の中に漂いながら新たな命を芽吹かせていった。


 その過程で出会うことになったのは、すでに人間としての自我を失った変異体や、実験目的で連れてこられて野生化した異星生物たちだった。


 かつて人間だったモノたちは身体が変異し、奇妙な触手や骨が突出したグロテスクな姿に変わっていた。彼らは目的もなく施設内を徘徊し、時折うめき声や金属を引っ掻く音を響かせていた。固有個体〈アスィミラ〉は、彼らの存在を認識していたが、知性がなく接触する必要がないと判断していた。


 変異体の多くは植物に興味を示さず、また生物学的にほぼ遺伝子が崩壊していて、食物連鎖に組み込む価値すらない存在だった。


 その一方で、檻から逃げ出した異星生物は別だった。色彩が変化する外皮を持つ爬虫類めいた吸血生物、無数の目を備えた昆虫の群れ、酸を吐き出す軟体生物――それらは新たな環境に適応しながら野生化し、独自の生態系を築きつつあった。彼らは捕食者であり、同時に〈霧の悪夢〉の拡大を阻む障害でもあった。


 浮遊島には、〈霧の悪夢〉の根や菌類を好んで食べる捕食者も存在した。彼らは驚くべき順応性を持ち、植物の防衛網を突破することすらあった。その中でも特に厄介だったのは、熊のような巨体を持つ捕食者だった。その獣は菌類を主食とし、島内を彷徨いながら〈霧の悪夢〉の根を引きちぎり、キノコを主食として貪っていた。


 しかし〈霧の悪夢〉は食われるだけの存在ではなかった。この植物は、出生地でもある惑星でそうしてきたように、捕食者を〝研究〟するようになった。


 触手のように蠢くツル植物を使い捕食者を捕らえると、菌糸を通じて遺伝的な情報を取得し、その生命の仕組みを解析していく。驚くべき知能を有する固有個体〈アスィミラ〉は、捕食者の弱点や適応能力、さらには生物がどのような進化を遂げてきたのかを短期間で理解することができた。


 捕食者の遺伝子情報を解析し終えた〈アスィミラ〉は、次にその遺伝子を操作し始めた。植物の遺伝子操作は自然界のことわりを深く理解し、それに寄り添う形で行われた。それは人類の――どの遺伝子工学者よりも巧みに、そして調和が取れた方法で実行された。


 捕食者の体内に菌類との共生関係を築く遺伝子を組み込み、栄養を摂取する際に植物を守る行動を促すように仕向けた。捕食者はやがて、自らの欲求を満たすために〈霧の悪夢〉の守護者となり、他の捕食生物が植物に近づくことを許さない存在に変貌していった。


 こうして我々が対峙することになった熊にも似た恐るべき捕食者は、植物と共生する新たな生態系の一部となった。その巨体は島内をさすらい、〈霧の悪夢〉を脅かす存在を排除していった。その行動は、自らの意志を持つかのように見えたが、実際には遺伝子レベルで植え付けられた生物学的規範によるものだった。


 これらの出来事は、単なる生存競争の記憶ではなかった。〈霧の悪夢〉にとってそれは、一種の学びであり進化の記録だった。捕食者を調和の中に組み込み、彼らを守護者とすることで、浮遊島における支配力を強化していった。


 捕食者を守護者へと進化させ、浮遊島の生態系を支配するまで十数年の時を必要としたが、それによって浮遊島の環境は一見安定したかのように思えた。


 しかしその平穏は長く続かなかった。植物の支配領域が広がるにつれ、新たな脅威が明らかになった。それは島の防衛のために配備されていた警備用機械群――金属の身体を持つ無機的な存在だった。


 それらの機械人形は、〈アスィミラ〉にとってまったく未知の存在だった。故郷の惑星には存在しない光沢のある金属で覆われ、微かな駆動音を立てながら島内を巡回する。鋭敏なセンサーと植物に破滅をもたらす武装を備えたそれらの機械群は、植物の根や菌類、さらには守護者と化した捕食者にも敵対し攻撃していた。


〈アスィミラ〉はその新たな脅威に困惑した。植物の進化は有機的な生命との共存や競争に基づいていたため、無機質な機械に対して無防備だったのだ。触れた瞬間に植物を焼かれ、胞子が無力化されるなかで、直接の接触は無意味だと悟った。


 そこで〈アスィミラ〉が選んだ方法は、極めてシンプルでありながら効果的なものだった。それは〝観察〟することだった。警備用機械人形に対する直接的な攻撃をやめ、代わりにその行動パターンや反応の傾向を詳細に記録し始めた。


 彼らがどの程度の感知能力を持ち合わせ、それらがどれほどの範囲で反応するのか。巡回ルートはどのように決められ、他の設備同様にメンテナンスを必要とするのか。〈アスィミラ〉はそのすべてを静かに、そして執拗に観察していった。


 もちろん遠くから観察するだけでなく、守護者として徘徊していた捕食者たちも活用した。捕食者たちに機械群の警備区域に侵入させ、その動きを検証することで制限区域を知ろうとした。


 その過程で多くの守護者を失う結果になったが、それすらも植物にとって無駄ではなかった。捕食者の屍骸は新たな栄養源となり、菌類や胞子の苗床として機能した。その結果、植物は立ち入り制限区域内に少しずつ勢力を広げることもできた。


 捕食者を失うたびに〈アスィミラ〉は痛みを感じると同時に、一瞬の悲しみも抱くようになった。しかしその喪失感もすぐに新たな目的に変わった。守護者の身体に残された傷痕や情報を解析し、それを次世代の捕食者の進化に生かすことで、より強靭な守護者を生み出していった。


 その間にも観察を続け、機械人形の行動原理を学び取った。機械はプログラムされたルーチンで動いていて、感情や意思を持たない存在に見えた。その単純さを逆手に取り、植物は自らの成長を抑え、巡回ルートを避けることで機械人形からの攻撃を逃れる技術を身につけていった。


 こうして機械という脅威に対しても適応を続けた〈霧の悪夢〉は、浮遊島全域にわたりその生息域を広げ続けた。そのすべては、〈アスィミラ〉にとって〝学習〟であり、進化の記録だった。


〈霧の悪夢〉の群生地が限られた区画――コンテナターミナルや一部の地下施設に留まったのは、警備用の機械群が機能していたおかげだったのかもしれない。もしソレがなければ、浮遊島はとうに植物に覆われていたことだろう。しかし制限のある環境の中で〈アスィミラ〉は進化と思索を繰り返し、その知識を深めていった。


 どれほどの時が流れただろうか、天敵らしい天敵が存在しない閉ざされた環境で、〈アスィミラ〉は孤独に浸かりながらも深い思考に耽っていた。大地に根を張り、胞子を放ち、捕食者を進化させて守護者とする過程を経て、静かな環境で繁栄を続けるうちに、植物の思考はさらに抽象的な次元に向かっていく。


 なぜ自分たちはここにいるのか? なぜ故郷を離れ、この浮遊島に存在するのか? 答えのない問いをめぐる中で、植物はただ静かに成長を続けた。


 しかしその平穏は突如として破られた。菌糸が捕らえたのは、まったく未知の生命体の反応だった。生きた金属に保護された人間のようにも見えたが、その生物から感じられる気配は、これまでに見たどの生物とも異なっていた。


 機械群にすら対抗できる進化を遂げた捕食者すら、容易に打ち倒していくその姿は、純然たる脅威そのものだった。


〈アスィミラ〉は深い瞑想から目覚め、その存在を観察し始めた。捕食者が進化の過程で見せたような敵意や、機械人形の無機質な行動とは異なり、その生命体には確固たる目的があるように見えた。意思疎通を試みるべく、植物特有の超感覚的知覚を送り込んだが、返ってきたのは虚無だけだった――応答も拒絶もない、完全な沈黙。


 最悪なことに、その生命体は〈霧の悪夢〉を殲滅する力を持っていた。植物の胞子を分解し、根を焼き尽くし、菌類を死滅させる毒だった。


〈アスィミラ〉は対応策を模索しながらも、ゆっくりと追い詰められていった。この脅威を前にして初めて、自らの死滅の可能性を理解した。擬似状体を使い接触を試みるも、すべての試みは失敗に終わった。未知の敵は、ただ淡々と植物を駆除し続けた。


 その時、幻影のように浮かび上がったのは遠い過去の情景だった。毒による痛みと恐怖は、過去の優しい記憶を呼び覚ました。それらは〈アスィミラ〉にとって、かけがえのない記憶だった。そのすべてが今、消えさってしまおうとしていた。


 その想いが、女性研究員の姿を鮮明に思い出させ、あらたな擬似状体を誕生させたのかもしれない。


〈アスィミラ〉が見せた記憶の断片が揺らぎながら霧散していくと、目の前に立つ擬似状体の姿がハッキリと見えるようになった。それがどのような結末になるにせよ、たしかな答えを求めているように思えた。

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