第900話 固有個体〈アスィミラ〉
女性を模した
その振動は心拍のように規則的だが、時折不規則な波となって強く打ち付けてくる。それが何を意味するのかは分からなかったが、〈
背後を振り返ると、白衣を身につけた女性がヒールを小気味よく鳴らしながら近づいてくるのが見えた。淡い光が漏れる霧の中を、彼女は軽やかに進んでいる。その姿は不思議なまでに鮮明で、細かい動作や白衣の揺れさえも鮮明に目にすることができた。ヒールが地面を打つたび、色彩を帯びた音が反響して空間に華やかな緊張感を生み出している。
彼女が近づくにつれて、懐かしさを伴う奇妙な感情に支配されていくのが分かった。これも植物が抱いている感情なのかもしれない。あれこれと考えていると、その女性と正面からぶつかってしまいそうになり、思わず手を前に出した。しかし私の手は空を切り、女性は霧のように透けて消えていく。それは幻影にすぎなかったのだ。
透けるようにして通り過ぎていった女性は、擬似状体の目の前で立ち止まった。そこで奇妙なことが起きる。女性の姿を模していた生物の身体が歪むのが見えた。徐々に輪郭が失われ、代わりにガラスのような物体が浮かび上がっていく。それは見る間に変化を続け、ガラス張りの観測装置を形作っていく。
その中には奇妙な形状の植物のサンプルが収められ、明確な意識を持つ動物のように内部で蠢いているのが見えた。
「おはよう、アスィミラ。今日も素敵ね」
女性はそう口にすると、装置に備え付けられていた端末を操作する。
指先が端末を叩くたびに小さな音が響き、ガラスの表面に複雑なデータが次々と表示されていく。そのデータには未知の言語や記号が混じり、読み解けないはずのものだったが、どういうわけか理解することができた。
「実験植物群〈霧の悪夢〉……固有個体、アスィミラ?」
小声でつぶやいたつもりだったが、声は空間全体に反響し、頭上で花火のように弾けた。
白衣を身につけた女性が研究員であることや、この装置を使って異星植物が持つ未知の特性について解析を進めていることも、自然と頭の中に流れ込んできた。
植物を介して見ている幻影は、おそらく過去の記録であり、植物の記憶でもあるのかもしれない。〈感覚共有装置〉を通じて植物の感情が流れ込んできて、その理解が深まるにつれて、目の前の幻影は、より鮮明な形を成していく。
目の前の幻影が淡く霧散していくと、その向こうに新たな光景がぼんやりと浮かび上がった。それは植物から採取された樹液――粘液質の植物生体液の解析を進める女性の姿だった。
彼女の手元には、透明な試験管やホログラムのデータスクリーンが浮かび上がり、そこに映し出される複雑な化学式や分子構造が絶え間なく変化しているのが見えた。樹液は光を透過して内部で揺らめき、生命の儚さを感じさせる。
〈バイオジェル〉は旧文明の高度医療技術において、奇跡の物質で知られていた。医療用として利用されてきた〈バイオジェル〉には、人体などの有機化合物の再生を急速に促すジェルに、超微細なナノマシンが含まれていて、それが患者の遺伝情報をリアルタイムで解析し細胞の損傷箇所をピンポイントで修復するという画期的な技術だった。
どうやら、その奇跡のような技術の基礎となった物質こそ、今まさに目の前で解析されている植物の樹液だった。樹液に含まれる成分は、細胞の再生や組織の再編成を促進する特異な性質を持ち、〈バイオジェル〉の開発において欠かせない役割を果たしていた。
しかし女性研究員は、樹液が持つ医療以外の用途にも強い関心を抱いていることが分かった。ホロスクリーンに投影されていたのは、樹液が環境に及ぼす影響に関するものだった。環境解析データには土壌の化学組成や気候変動、さらには微生物群の分布までが詳細に記録されている。
幻影がさらに鮮明になると、研究対象となった植物の故郷が視覚的に再現される。それは濃い霧に包まれた暗鬱な惑星だった。
地表は湿地帯と鬱蒼とした密林に覆われ、恒星の光は分厚い雲に遮られ、ほとんど地上に届かない。湿気が肌にまとわりつくような重苦しい空気が漂う惑星は、生命にとって厳しい環境だった。それにも
その秘密は樹液にあったようだ。樹液は周囲の環境を劇的に変化させる能力を持ち、周囲の土壌を肥沃にし、空気中の化学成分を調整することで生存に最適化された環境を作り出していた。それは単なる生命維持のための手段を超え、惑星規模での環境改変さえ可能とする驚異的な物質でもあった。
やがて女性研究員の姿は淡く消え、新たな幻影があらわれる。広大な施設の内部――無数の実験植物が植えられた空間だった。そこに立つ彼女は、施設全体を制御する端末に触れながら静かに準備を進めていた。その背後では、実験植物が放つ青紫の燐光が薄暗い空間を美しく照らしていた。
この施設では、植物が周囲の環境にどのような影響を与えるのか、詳細に観察するための大規模な実験が行われているようだった。端末に表示されるデータからは、植物が放つ微弱な信号が周囲の生物や大気、さらに環境そのものにどのような影響を与えているのか解析されていた。
研究が始まってから数か月が経過したころ、広大な施設内は植物で覆われていた。天井近くまで達するツル植物や、床一面に広がる柔らかな苔、そして未知の菌類が放つ胞子が漂う空間――それは、研究施設を完全に埋め尽くしてしまうほどだった。しかし、その繁茂と比例するように研究員たちの姿は消えていった。
忙しそうに端末を操作し、実験植物を細かくチェックしていた白衣の人影が次第に減り、最後には見られなくなった。唯一稼働し続けていたのは、天井に設置された照明と散水装置だった。一定の間隔で微細な霧状の栄養液を施設内に降り注ぎ、植物の生存を支えていた。しかし雨を模した機械的な音が、静まり返った施設内に寂しげに響くだけだった。
研究員が姿を消して数か月、植物は奇妙な反応を感知した。それは施設の外、地上に広がる同種族の微かな生命反応だった。遠くから呼びかける声のようにも感じられる反応に導かれ、植物は地上に向かって根を伸ばし始めた。
根はゆっくりと地中を這い、金属やコンクリートの障害物を押し分けながら進む。その動きには、単なる本能を超えた明確な意思が感じられた――地上の仲間と繋がりたいという欲求だった。植物は初めから知っていたのだ。研究施設が地下深くにある孤立した空間であることを。
やがて植物の根は地上にたどり着き、そこで繁茂していた同種族と接触する。その瞬間、植物は地上で何が起きていたのかを知った。コンテナターミナルで発芽した種子――おそらく、研究目的で新たに浮遊島に持ち込まれたものだったのだろう。それが成長し、現在地上を覆う植物群を形成していたこと。
そして浮遊島はすでに放棄され、人類の影はどこにもないことを。浮遊島に残っていた人類は、目的もなく徘徊し続ける変異体に変化してしまった事実を。
そこで不思議な感覚を抱いた。植物は、かつて自分たちを観察し、成長を見守っていた女性研究員のことを思い出していた。彼女の優しい声、温かい手、そして真剣な眼差し――それらの記憶は、植物の細胞に、そして核に刻み込まれていた。彼女に会えなくなったことを知覚するたびに、植物は言葉にはならない悲しみを抱いていた。
孤独のなか、植物は生存のために浮遊島の環境を利用し始めた。島に残されていた動植物は、植物の根に取り込まれ栄養分にされていく。それは決して貪欲で破滅的な行為ではなく、ただ生き延びるための手段だった。島に取り残されていた生物が息絶えると、その命は植物の一部となり、生き延びる力に変わっていった。
植物はその根をさらに伸ばし、浮遊島を覆い尽くそうとしていた。それは孤独を埋めるための旅であり、研究員の記憶を忘れないための行為でもあったのかもしれない。植物が意思疎通のために用意した擬似状体が、どうして女性の姿を模したモノでなければいけなかったのか、今ではその理由が分かるような気がした。
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