第899話 感覚共有


〈兵站局〉の倉庫から、超感覚的知覚を高めるための装置を持ってきてもらっている間、警戒を怠ることなく異星の生命体を観察していた。彼女――あるいは擬似状体は、静かに佇み、青緑に輝く体表を微かに明滅させながら、じっと我々のことを観察していた。


 その視線には、純粋さと計り知れない知性が入り混じっているようにも感じられたが、ソレが何を考えているのかは想像すらできなかった。


 我々の頭上では複数の超小型ドローンが飛び交い、胞子の拡散や予期せぬ事態に備えて準備していた。重力場を利用した飛行だったので、微かな重低音が聞こえる程度だったが、霧のなかでもそこにいることが分かった。


 カグヤの遠隔操作で地下施設に潜入していた蜘蛛型の超小型ドローンも、爆薬を背負って慎重に植物の核に接近していた。攻撃の準備は整っていたが、今のところ引き金を引く理由は見当たらない。


 目の前に立つ生命体に攻撃の意思がないことは明らかだったが、それでも気を緩めるつもりはなかった。時折、女性の姿を模した擬似状体の顔が痛みに歪むのが見えた。この生命体が示す〝苦痛〟の原因は、おそらく〈枯葉剤〉にあるのだろう。


 そこに含まれる毒素が核に届く前に、意図的に根を切断していたのかもしれないが、少なからず影響を受けてしまっているようだった。いずれ植物が持つ修復能力によって癒えるかもしれないが、今は痛みに苦しんでいるように見えた。


 やがてテンタシオンが倉庫から戻ってきた。黒い専用のケースを抱え、慎重に進んでくる姿が視界に入る。ケース内部には、振動や衝撃から内容物を守るための厚みのある梱包材が詰められているようだった。それだけ繊細な装置なのだろう。


〈接触接続〉で解錠すると、白銀の輝きを放つ装置が収められているのが見えた。それは複雑な機能を備えた端末と言うよりかは、女性のための精緻な頭飾り(サークレット)のようにも見えた。


 細く滑らかなラインが美しさと機能性を兼ね備え、表面に繊細な浮彫りが施されている。装着する部分には柔らかな素材が使われていて、頭部に優しくフィットするよう工夫されていることが一目で分かった。


〈感覚共有装置〉に分類されるそのデバイスには、女性特有の感覚を強化するために製造されたものだという。旧文明の遺伝子操作技術者たちは、あらゆる猫と特定の女性だけが持つと言われる能力に手を加え、本来備わっている超感覚的知覚を飛躍的に高めることに成功していたのだろう。この装置も、その研究の産物だった。


 残念ながらペパーミントは生身で浮遊島にやってきていなかったので、彼女に装着してもらうことはできなかった。ちなみに、大樹の森で暮らす森の民も〈感覚共有装置〉を使って昆虫を使役していたが、この装置は、より複雑な意思疎通を可能にするためのものだった。


 慎重に装置を手に取り、金属の冷たい感触を確かめたあと、目の前の生命体に視線を戻す。この装置を使えば、彼女――人間を模した生命体――との意思疎通が可能になるのだろうか。それとも、これがさらなる危機を招く道具になるのだろうか。その答えを知るためにも、行動を起こさなければいけない。


 胞子に寄生される危険性が頭をよぎったが、今は目の前にいる奇妙な生命体を信じることにした。〈ハガネ〉のフルフェイスマスクを変形させ、口許くちもとだけを覆うと、冷たく光る〈感覚共有装置〉をゆっくりと頭部に装着する。それが肌に触れた瞬間、微かな振動と共に冷気が額に広がるのを感じた。


 装着するだけで装置は自動的に起動するので、端末を操作する必要はなかった。思考によって装置は静かに作動し、周囲の雑音が遠ざかり、意識が一点に集中していく――目の前の生命体に向けて心を開くように。


 そして奇妙な感覚に包まれていく。それはほとんど気づかない程度の変化だったが、すぐにその違和感は明確なものに変わっていく。目に見える色彩が、よりハッキリと鮮烈に映し出されていく。緑は深く、青は透き通るように澄み、灰色の霧の中でさえ、微かな構造色の光が揺れ動いているのが見えるようになった。


 それに鼻をくすぐる微かなニオイ――霧の冷たさと共に漂っていた草や花の香り――が、まるで色を持つかのように視界の先で揺れ動いている。香りが形を成し、滑らかに漂う。それはどこか心地よく、しかし同時に現実感を薄れさせるような感覚でもあった。


 さらに驚いたのは光の変化だった。目に見えないはずの光の流れが、今では柔らかな波紋として視界に映し出されていた。目の前の世界が静かに、しかし確実にその姿を変えつつあるのを感じた。


 そして目の前に立つ生命体が、単なる一個の生物ではないことが視覚的に理解できるようになる。彼女の輪郭は空間のなかで朧気になり、無数の小さな粒子が、まるで生物の集合体のように、ひとつの形として結びついているのが見える。その粒子は絶えず動き、呼吸するように緩やかに収縮と拡張を繰り返していた。


 さらに目を凝らすと、彼女の背後に鬱蒼と生い茂る森が浮かび上がる。それは植物の生命力に満ち溢れていた。葉の揺れる音、風に運ばれる花々の甘い香り、そして足元に伸びる草が擦れる微かな音までが鮮明に聞こえてくる。


 それらが現実の光景なのか、植物が見せている記憶なのか、それとも超感覚的知覚によって見える幻なのかは曖昧だったが、その鮮明さには抗いがたい説得力があった。


 世界全体が美しく、生々しい迫力を伴い迫ってきていた。色、音、香り――それぞれが鋭く、深く、全てが今まで以上に鮮明だった。そしてそれらのすべてがひとつの調和を持ちながら、自分自身に語りかけてくるように感じられた。


 目の前の生命体が無言のままじっとこちらを見つめている。世界が広がりを見せるなか、彼女が何を語りかけようとしているのか、それを理解しようとして心を研ぎ澄ませた。


 装置によって強化された超感覚の世界で、目の前の生命体の存在はかつてないほど鮮烈に感じられるようになった。彼女の身体から赤い光がほとばしり、瞬間的に爆ぜる。まるで電光のようなバチバチと音を立て、そのたびに稲妻のような赤い光が視界にあらわれる。


 それは単なる視覚効果ではない――彼女の感じる痛みそのものが形になって、知覚に訴えかけているのだ。その痛みは彼女の身体全体に広がり、まるで炎が皮膚を焼くような鋭い感覚として感じられるようになる。


 その感覚が通り過ぎていくと、彼女の身体から透き通った水晶が浮かび上がる。それは霧のなかで煌めきながら周囲を漂い、やがてゆっくりと近づいていく。水晶の中には、まるで彼女の純粋な好奇心を表すような、柔らかな光が封じ込められている。


 水晶は脈動するように煌めき、植物が我々に対してどれほど興味を抱いているかを語りかけている。しかしその一方で、異種族との接触に迷い、戸惑う感情が微かな波紋となって水晶を揺らしていた。


 私は意を決して、ゆっくりと前に踏み出した。その瞬間、彼女の足元に滅紫けしむらさきの液体が静かに広がっていくのが見えた。それは深い沼地に変化しながら彼女を捕えていく。


 深く暗い色合いは彼女の恐怖を表現していた。戦闘による痛みや苦しみの記憶が、金属の棘となって彼女の身体に突き刺さっていく。その痛みが、彼女の中に植え付けられた恐怖を鮮明にしていた。


 それでも彼女は逃げ出さなかった。恐怖に足を縛られたまま、それでも毅然とした態度で私を見つめ続ける。その青い眸は透き通るほど鮮やかだったが、底知れない深さを持ち、目の前の異種族を静かに見据えている。


 滅紫の沼に足を沈めながら、慎重に彼女に近づく。足元から這い上がる不安感や痛みが全身に広がるなか、それでも歩みを止めなかった。そして手を伸ばす。ゆっくりと、躊躇わないように。


 指先が彼女の手に触れると、感情が波となって私の中に流れ込んでくる。それは言葉では説明できない感覚の洪水――痛み、恐怖、そして好奇心が混ざり合い、溶け合ったものだった。


 彼女はまだ私を見つめている。その視線に応えるように彼女の手を握る。まずは痛みと恐怖に寄り添うことから始めることにした。我々のファーストコンタクトが痛みと恐怖によって始まったように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る