第897話 超感覚的知覚
すぐに〈枯葉剤〉の効果はあらわれた。周囲の植物群が小刻みに痙攣し始めたかと思うと、まるで苦痛に喘ぐように震えだした。ツル植物は力を失い、葉は乾燥して縮み、かつて鮮やかだった青紫色の花々は褪せて、くすんだ灰色に変わっていく。その変化は徐々に、しかし確実に広がり植物全体に影響していくのが分かった。
その変化は中心部から波紋のように広がっていく。根系に影響したことは明らかで、植物全体のつながりが断たれたのだろう。花々が散り、葉が砕け、茎が粉々になる様子は、まるでガラス細工が砕けるような儚さと残酷さを併せ持っていた。
濃霧のなか、どこからともなく風が吹くと灰色の細かな砂粒が宙を舞う。圧倒的な静寂の中、私はその砂の海にただ立ち尽くしていた。足元に広がるのは、かつて繁茂していた植物群の名残。砂場と化した廃墟のような光景だけが残されている。
『任務完了です、閣下。これで再び宇宙港へのアクセスを――』
ルインの冷静な声が内耳に聞こえたが、その言葉は途切れてしまう。
不審に思い、視界の端に拡張現実で浮かぶ地図に目を向ける。そこには、地下施設の異常を知らせる警告がいくつも点滅していた。地上で散布した〈枯葉剤〉は、植物群の根系に影響を与え、地下施設で繁殖していた植物にも致命的な破壊をもたらすはずだった。しかし地図に表示された異常箇所は、植物の核があると思われる位置を示していた。
『どうやら、まだ終わっていないようです』
ルインの声が少し低くなり、不安を感じているようにも聞こえた。
砂場と化した植物群のなかで何かが動くのが見えた。視界の端でその異変に気づき、反射的に視線を向ける。すると異様な生物が、砂の中から這い出してくるのが分かった。
それはまるで瀕死の重傷を負った生物のようだった。四肢を引きずり、身体を震わせながら砂を掻き分ける。その動作からは、明確な痛みと苦しみが感じられた。ゆっくりと、しかし確実にそれは近づいてくる。音もなく、ただ存在感だけを押し付けるように。
一見すれば枝葉で擬装した
それは冷たい霧の中でも異様に目を引き、現実感を疑わせる幻想的な輝きを帯びていた。なにも身につけていない素肌は細いツル植物に覆われ、刺青のように滑らかで繊細な模様を描き出している。その植物も、それ自体が独立した生命ではなく、その異様な生物の一部であるように見えた。
生物の動きに呼応するかのように蔓は波打ち、微かに形状を変化させていくのが見えた。それは単なる装飾ではなく、身を守るための器官でもあるのかもしれない。
頭部では長い黒髪が揺れていた。
彼女――あるいは、ソレと呼ぶべき存在は――苦しげに咳き込み、ドロリとした茶色の液体を吐き出す。その液体は植物が自己修復に使用した粘液に似ているが、濁りきった色と、わずかに漂う錆の臭いが血液を連想させる。その液体が地面に吐き出されるたびに、砂の上で蒸発するような音を立てては消えていく。
その行為には、どこか生命の弱々しさが感じられたが、それは錯覚に過ぎないのだろう。やがて彼女はゆっくりと立ち上がってみせた。その動作は人間的でありながらも、不自然なほど滑らかで、どこか機械的な正確さすら感じさせる。
その非現実的な肌色を考慮しなければ、彼女は確かに美しい女性に見えた。整った顔立ちをしていて、スタイルもいい。柔らかな丸みを帯びた乳房が露わになっていたが、下半身は植物の繊維が肌に密着していて、まるでレギンスのように覆い隠し、その下に何があるのかは確認できなかった。
しかしそれでも、全体的な印象として人間の――それも女性の姿を模倣していることは明らかだった。新たな
その異様な生物の青く澄んだ眸に見つめられた瞬間、奇妙な感覚に襲われる。その瞳はただ美しいだけではない。澄んだ湖面のような青は吸い込まれそうなほど深く、その奥底には言葉にできない何か、膨大な知識や感情の渦が隠されているかのように感じられた。
つぎの瞬間、耳元で弾けるような痛みが走り、頭の奥で鋭い耳鳴りが響いた。思わず顔をしかめて
しかしそれはただの感情ではない。まるで頭の中に直接感情を押し込まれるような感覚を伴っていた。自分のモノではない感情に心が支配され、こちらの意思を奪っていく。それとも、これは言葉なのだろうか? 通常の会話の代わりに、感情を媒介としたコミュニケーションが行われているのだろうか?
そう思ってもう一度、女性の姿をした奇妙な生物と視線を合わせる。すると悲しみはさらに深まり、ますます感情的なものになっていく。それは言葉では説明できないほど鮮明で、まるで自分自身が悲劇的な物語の主人公になったかのような錯覚に陥るほどだった。
その感情の濁流に飲み込まれながら、頭の中でひとつの確信が生まれる。すると今度は、その閃きで頭がいっぱいになる。どうやら正解だったようだ。この不可思議な現象は、植物が伝えようとしている感情なのだ――超感覚的知覚、いわゆるテレパシーの一種なのだろう。
眉を寄せながら目の前の存在をじっと見つめる。美しさと異様さが混在する植物と人の融合体には、確かに知性が宿っているように思えた。ただの擬似状体ではなく、人間が親しみを持つため、あるいはコミュニケーションを図るため、意図的に造形された姿なのだろう。
この生物が持つ知性は、これまで人間が定義してきた知的生命体の基準を大きく覆すものだった。かつて知的生命の指標には――大きな頭脳と洗練された生物学的感知器官、それに高度な運動性能と操作器官、たとえば、モノを掴める手のような器官が必要だとされていた。
しかし人類が宇宙に進出すると、それは完全な誤りであり、そもそも指標など存在しないと分かる。一兆を優に超える銀河が存在するのだ。どのような知的生命体が存在していてもおかしくない。
今、我々の目の前にいる生物も、そういった類の存在なのだろう。問題があるとすれば、その知的生命体が、なぜこのタイミングで接触を図ってきたのか、ということだ。〈枯葉剤〉の効果によって周囲の植物群は消滅し、この生物もその影響を受けたはずだ。それにも関わらず、意思を持って歩み寄ってきた。
いや、そもそもそれが理由なのかもしれない。我々を逃れようのない脅威と感じ、ただ生き延びるため、生存本能によって突き動かされたのだろう。ソレから伝わる感情は、敵対的な感情ではなく、多くの同胞を失ったことに対する悲しみだけだった。
その青い眸の中に、ハッキリとした答えが隠されているような気がしたが、それを理解するには意思疎通を試みなければいけない。しかし果たして、それは正しい選択なのだろうか? この未知の存在が我々のことを騙そうとしていないと、どうして確信が持てるのだろうか。
すぐに
「やれやれ……」
そっと溜息をつくと、こちらに近づいてくる生物を見つめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます