第888話 ルイン
「それでは閣下、あらためて自己紹介を――」
青年はそう言うと、やわらかな微笑を浮かべながら深々と頭を下げた。その動作には洗練された優雅さがあり、どこか上流階級の人間だけが持つ雰囲気すら感じさせた。
「私は隔離区画の管理を任されている〈人工知能〉であり、〈技術局〉から派遣された〝ルイン〟と申す者です」
聞き慣れない言葉に困惑したが、目の前の人物を観察しながら、彼が話したことについて考える。その礼儀正しい所作、落ち着いた低い声、そして優雅な振る舞い――どれをとっても人間そのものにしか見えない。
青年は仕立てのいい上品なブラックスーツを身につけていた。布地には微細な模様が織り込まれていて高級感があり、ちらりと見えたシャツの袖口には金で縁取られたラピスラズリのカフスボタンが輝いていた。その仕草のひとつひとつに隙がなく、見る者に〝完璧〟という言葉が自然と思い浮かぶような印象を与えていた。
旧文明の人々がそうであったように、青年の容姿も〝理想的な美〟を具現化していたように見えた。背が高く均整のとれた体型に理知的な顔立ち、そして純真さを残す表情――人間であれば、その容姿だけで注目の的になるだろう。
こうして見ていると、本物の人間と区別がつかないが、それはこの場所が〈仮想空間〉だからなのだろう。かれの言葉が正しければ、私の目の前にいるのは生身の肉体は持たないプログラムであり、ただの〈人工知能〉なのだから。
「ルイン……」
思わず青年の名を口にする。その音の響きには、古びた遺跡や崩壊した世界を連想させ、どこか皮肉めいた想いが込められているように思えた。
「旧文明の技術や遺物が保管された倉庫を管理するAIの名前にしては、ずいぶんと皮肉が効いているように思える」
「ええ、たしかに」青年――ルインは、口元に控えめな笑みを浮かべた。その表情には不快感や怒りはなく、むしろ
「〈技術局〉にも、ユーモアのある人物がいたのでしょう。放棄される運命にある無人の浮遊島で孤独に仕事を続けるのに、お似合いの名前だと思ったのでしょうね」
青年の態度には、どこか
「もっとも、私にとってソレは数ある名のひとつに過ぎませんが」
「数ある名のひとつ?」
倉庫を管理するだけの役割にしては、ルインはあまりにも優秀な〈人工知能〉のように感じられた。それは単なるプログラムではなく、どこか人間以上に人間らしくあろうとする存在――たとえば人工島を管理する〝アイ〟のような印象を受けた。
彼の微笑みの奥に潜む〝何か〟を見極めたいという好奇心と、触れてはならないという警戒心が胸の内でせめぎ合う。
「質問があることは理解していますが、まずは閣下の意識を現実の世界に戻しましょう」
青年は落ち着いた声で告げる。その表情からは悪意や欺瞞は感じられず、これまでの穏やかな態度から変化が見られない。むしろ、私の困惑を楽しんでいるような純粋な雰囲気さえ感じられた。
「今は落ち着いていますが、この場所が意識の迷路であることに変わりませんから」
ルインの言葉に反応して改めて周囲を見回した。動きを止めた異形の生物たち――まるで彫刻のように不自然に固まり、鋭利な鉤爪を振り下ろす直前で静止している化け物もいれば、機械人形の装甲を引き裂こうとしているものもいる。その機械人形もまた、異形に組み付かれたまま動こうとしていなかった。
銃声による喧騒や警報が鳴り響く音、肉体がグチャグチャに破壊されていく嫌な音――そのすべてが消え去ったことで、グロテスクな絵画の中に迷い込んだような錯覚に陥ってしまう。たしかに、この場所は真面目な話をするには適していないだろう。
「どうすれば、またルインと話ができる?」
青年にそう問いかけると、どこか含みのある微笑みを浮かべた。
「安心してください、すぐに会えますから」
異変が起きたのは、ちょうどその時だった。ルインの姿が――いや、空間そのものが揺らいだような気がした。まるで巨大な鏡の表面に波紋が広がるように、現実感そのものが歪み、虚空の中に消えていく――。
気がつくと、先ほどと変わらない真っ白な空間に立っていた。けれど目の前にあるのは青年ではなく、〈接触接続〉を行った端末であり、つめたい金属の感触が鮮明に感じられた。
現実に戻ってこられたのか?
端末のディスプレイには、大量のログが表示されていた。青年が言ったように、現実世界では一分も経っていないように見える。けれど、あの空間で体験したすべてがあまりにも鮮明で現実的だったため、この場所が現実なのか自信が持てなかった。
『どうしたの、レイ?』
背後を振り返るとカグヤが操作するドローンと、ライフルを手に周囲を警戒するテンタシオンの姿が見えた。そのまま彼女の質問に答えることなく、あらためて隔離区画を見回す。
そこには異形の生物も、そのグロテスクな死骸も、破壊された機械人形の残骸も見当たらなかった。ただ静寂の中に整然と並んだガラスケースとコンテナ、それに区画全体を覆う白い壁面パネルが見えるだけだった。
ルインの言葉を疑っていたわけではないが、どうやら本当に〈仮想空間〉に意識が飛ばされていたようだ。それも〈
もしもこれが悪意のある仕掛けだったとしたら、今もあの世界に閉じ込められていたのかもしれない。
そう思った瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われて端末から離れる。この区画にある装置の多くには宇宙軍の驚異的な技術が使われていて、我々が想像しているよりもずっと危険な場所になっているのだろう。
すると突然、端末の向こうに淡い青白い光が集まるのが見えた。ソレは次第に形を成し、〈仮想空間〉で見た青年の姿を投影していく。仕立てのいいブラックスーツに身を包み、宝石で飾られたカフスボタンが輝く。〈仮想空間〉で出会ったときと何も変わらないが、今回はその姿がホログラムで投影されていた。
しかし光の粒子は揺らめきながらも正確な輪郭を保ち、彼の表情や仕草までもが生々しく再現されていた。
『改めてお会いできて光栄です、閣下。そして皆さま』
青年はドローンとテンタシオンにも一礼してみせた。
『私はルイン。この隔離区画を管理する〈人工知能〉です』
状況を見守っていたカグヤとペパーミントは戸惑いながらも、青年の存在を受け入れる様子を見せた。彼が状況を簡潔に説明する間、誰も声を挟むことなく耳をかたむけた。
自己紹介がひと段落すると、私は気になっていたことを
「まず〈技術局〉について教えてもらえるか?」
『この倉庫を所有する〈兵站局〉同様、〈技術局〉も宇宙軍の戦闘支援機関として存在していました』
「どうしてその〈技術局〉の〈人工知能〉が、こんな場所に――浮遊島で遺物の管理をしていたんだ?」
その言葉に、青年は目を伏せるような仕草を見せた。それはどこか人間らしさを思わせるものだったが、彼の回答は明確で冷静だった。
『人類を統治する組織と、宇宙軍の間で結ばれている条約が関係しています』
青年は腕を軽く広げると、倉庫の広大さを示すように周囲を見回した。その動作に合わせて彼のホログラムが微かに揺らめく。
『この隔離区画には、異種文明から得られた遺物や研究の成果として生み出された技術が保管されています。その多くは〈技術局〉の管轄であり、人類が直接的に管理することは許されていません。これは誇張した例えですが、これらの技術を使って人類が戦争しないためにも、適切な組織によって管理される必要がありました』
彼は遺物を眺めながら、穏やかな表情で続けた。
『その〈技術局〉の意向で、私がこの区画の管理を任されることになりました。その後、浮遊島の放棄が決定されましたが、不測の事態に備えて隔離区画の管理を続ける必要がありました。もっとも、現在この区画で遺物の管理を続けているのは、〈技術局〉の〈人工知能〉が残したプログラムの残滓ですが』
ルインの瞳には何か人間には理解しきれない感情――あるいは、感情に似た何かが宿っているように思えた。
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