第880話 ジャック・アウト
何か冷たいものに腕を締めつけられるような感覚がして、反射的に振り返る。そこで目にしたのは奇妙な光景だった。書類棚の一部が徐々に黒く染まりながら、粘液の塊を伸ばして自分の腕を
その黒い物体は
その黒い影は――まるで卵を飲み込む蛇のように顎を外していく。異形の口は不気味なほど大きく広がり、鋭い牙が無雑作に並ぶ暗黒が見えた。その口がこちらを呑み込もうと迫ってくる。
何とかして腕を振り払おうとしたが、やはりどうすることもできない。すぐ近くの書類棚に手を伸ばすと、棚がガンラックに変化していくのが見えた。〈仮想空間〉ならではの奇妙で非現実的な現象だ。
そのラックから乱暴にショットガンを掴み取ると、黒い牙だらけの口の中に銃口を押し込む。引き金を引いた瞬間、耳をつんざく銃声が大気を震わせる。目の前で異形の影が震え、巨大な頭部は破裂して黒い体液やら肉片やらが散乱していく。ショットガンの反動が腕に響くなか、異形に掴まれていた腕が解放されるのを感じた。
どうやら、こちらを攻撃するときには実体化しているようだ。倒れていく黒い人影が空間に溶けるようにして消え去るのが見えた。しかし安堵する間もなく、周囲の棚が一斉にざわめきだし、黒い液体が次々と漏れ出すのが見えた。次の瞬間、それらの体液は無数の黒い影に変容し、こちらに向かってくるように動き出す。
その姿は幽霊のように曖昧で、実体化したかと思えば、透けるようにして消えていく。この空間に馴染んでいないようにも見えた。手足や頭部が異常な方向に曲がったりしていて、無理矢理、人の姿を模倣しようとしているようにも思えた。
ショットガンを構えると、次々と押し寄せてくる黒い影に対して銃弾を撃ち込んでいく。しかし、やはり攻撃してくるときでなければ実体化しないのか、銃弾は黒い影を通り過ぎてしまい、傷つけることができなかった。
そこにペパーミントが呼び出していた〈ツチグモ〉がやってくるのが見えた。多脚で書類棚を押し倒しながら足場をつくると、迫りくる黒い影に照準を合わせる。その威圧感に一瞬だけ黒い人影の動きが止まるように見えた。けれどすぐに影は動き出し、新たな標的に向かって一斉に腕を伸ばし自律戦車に襲いかかる。
その瞬間を待っていたかのように、〈ツチグモ〉の砲身から鈍い音が聞こえ、迫りくる敵に対して銃弾の雨を浴びせることになった。鋭い銃声が響き渡り、実体化していた黒い影はズタズタに切り裂かれ、黒い体液と肉片らしき物体を撒き散らしていく。自律戦車の掃射は止まることなく、標的を次々と破壊していく。
それでも敵は恐怖を知らず、次から次へと押し寄せては排除されていく。ショットガンの弾丸が尽きると、ガンラックからライフルを取り、容赦なく銃弾を叩き込んでいく。するとフェイスシールドに通信を示すアイコンが表示される。カグヤからの連絡だ。
『目的のデータを入手した。脱出の準備をするから、指定した地点まで移動して!』
視線の先に表示されたフロア地図を確認したあと、目的地まで誘導してくれる矢印が足元に浮かび上がるのが見えた。それを確認するや否や、ライフルを放り出して駆け出した。
地震のように空間全体が震えたのは、ちょうどそのときだった。足元の振動は次第に強くなり、真直ぐ走ることすらできなくなっていく。周囲の書類棚が不気味な音を立てながら傾いたかと思うと、ドミノ倒しのように次々と崩れ落ち、道を塞いでいく。金属がぶつかり合う音が耳をつんざき、紙の束や粉塵が視界を覆う。
すぐに新たな経路が表示されるが、進行方向に無数の黒い人影が出現していく。相手にすることなく走り続けるが――気がつけば、こちらを囲むように数十体の黒い人影が集まってきていた。
振り返ると、それまで掩護してくれていた〈ツチグモ〉も黒い波に飲み込まれていくのが見えた。崩れゆく空間と迫り来る影、時間との戦いの中で選択肢は少ない。前に進むしかない状況だった。影たちの隙間を縫うように突き進む。もう後戻りはできない。
そのときだった。激しい衝突音を轟かせながら、何かが視線の先に飛び込んでくるのが見えた。それは書類棚に激しくぶつかり、無数の棚を吹き飛ばしながら宙を舞う。拡大表示すると、宇宙の戦士を思わせる〈アバター〉を使用していたペパーミントだと分かる。
彼女は次々と書類棚を薙ぎ倒しながら激しく転がり、床に何度も叩きつけられて動きを止める。
「〈仮想空間〉なのに、痛みがあるってどういうことなの!?」
彼女は文句を言いながら身体を起こすと、襲い掛かってきた黒い影に向けてライフルの銃弾を叩き込んでいく。その動きには一切の迷いがなく、轟音とともに発射された銃弾は敵の体内で炸裂し、黒い体液を撒き散らしていく。
「一体なんなのよ……」
彼女は黒い体液にまみれながら立ち上がると、こちらに振り返る。
「レイ、急いで。もう時間がない!」
しかし状況はさらに悪化していた。周囲には次々と黒い影が湧き出していて、我々を完全に包囲しようとしていた。逃げ場はどこにもなく、フェイスシールドに表示されていた経路も敵に塞がれている。
と、そこに書類棚をスキャンしていたドローンの一群が集結してくるのが見えた。その拳大のドローンは空中で旋回すると、実体化していた黒い影に向かって一斉に突撃し、眩い閃光とともに爆散していく。耳をつんざくような爆発音と衝撃波が空間を震わせ、黒い影が霧散していくように消滅していく。
ドローンがつくってくれた機会を無駄にするわけにはいかなかった。すぐに駆け出してペパーミントと合流すると、そのまま矢印が示す方向に一心不乱に走り出す。無数の黒い影が実体化しながら背後から迫るのを感じたが、振り返ることなく走り続ける。
すると草原で見かけていたのと同じ、何の変哲もない木製の扉が視線の先にあらわれる。その場違いな存在感が不思議なほど鮮明に見えた。ペパーミントは扉を一気に開け放つ。
「この中に飛び込んで!」
振り向きざまに叫ぶ彼女の声に従い、扉の中に飛び込もうとするが、黒い影に足を取られて倒れ込んでしまう。すぐに起き上がろうとするが、そこに無数の黒い影が圧し掛かってくる。身動きが取れなくなり、呼吸すらまともにできなくなる。そこに凄まじい衝撃波と爆音が轟いて、ふっと体重が軽くなるのが分かった。
視線を上げると、〈ツチグモ〉が敵に銃弾を浴びせているのが見えた。
『レイ、すぐに立って!』
カグヤに急かされるようにして立ち上がると、扉の向こう、真っ暗な空間に向かって飛び込む。直後、視界が暗闇に包まれる。
戦闘の喧騒が聞こえなくなり、無音の空間に沈み込んでいくような、無重力めいた奇妙な感覚がした。その静寂の中で自分の荒い息遣いだけが、やけに大きく響いていた。
やがて意識が不思議な方向に引きずられ、世界そのものが反転するような感覚に包まれた。視界はグニャリと歪み、上下左右の概念が崩壊する。その中で、淡い光が頭上にあるのが見える。その光に向かって吸い寄せられるようにして、ゆっくりと浮上していく感覚に支配されていく。
眩しさに思わず瞼を閉じ、しばらくしてから目を開ける。目の前にあるのは薄暗い天井と絡まり合ったケーブルで、一部は青白い電光を散らしながら漏電していた。微かに焦げたような金属臭も鼻を突いた。
「現実に戻ってこられたみたいだな……」
ヘッドセットを外して上半身をゆっくりと起こす。ソファーの感触を背中に感じながら、徐々に現実感が戻ってくるのが分かった。周囲を見回すと、暗闇のなかに沈み込むゲームセンターと、すぐそばで待機してくれていたテンタシオンの姿が見えた。
目の前のコンソールパネルが微かな光を放っている。ディスプレイには〈仮想空間〉に関するログが表示されていて、無事に
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