第879話 データ保管庫
ゆっくり立ち上がったあと、視線の先に広がる真っ白な空間を見渡す。果てしない純白の世界は、まるで終わりのない無限の宇宙のようだった。その空間には何もないはずなのに、不思議と圧迫感すら覚える。足元を確認しても足跡ひとつ残らず、何もかも消失していくような奇妙な感覚に襲われる。
振り返ると、あの奇妙な扉は跡形もなく消え去っていた。
「この場所は?」
すぐとなりに立っていたペパーミントに声をかけたが、水中にいるときのように、妙に声がくぐもって聞こえる。声は大気を震わせることなく、空間に溶け込んでいくように何処かに消えていく。
彼女は少し眉をひそめて、それから真っ白な空間を見つめながら言う。
「技術者の保管庫よ。データの読み込みに時間が掛かっているみたいだけど」
彼女の言葉に戸惑いつつも、真っ白な空間に奇妙な変化が生じ始めているのを感じ取る。はるか遠く、何もない空間に青色のワイヤーフレームがあらわれて、物体の輪郭を形作っていく。それは我々が立っている場所に向かって、徐々に世界を構築するようにして近づいてくる。
まず表現されたのは、無数の金属製の書類棚だった。視界の端から端まで、整然と並ぶ棚は、迷宮の壁のように空間を埋め尽くしていく。棚ひとつひとつにビッシリと書類が詰め込まれ、ホログラムのタグが幾重にも投影されている。そのすべてが異なる情報を示しているようだった。
空間の変化はどんどん加速していく。白い虚無が波のように押し寄せて書類棚の群れで埋まり、足元には硬質な床材が敷かれていく。棚に手を伸ばしてみると、冷たい金属の感触が伝わる。わずかに錆びついていた部分が指先に引っかかりそうなほど、それは緻密に再現されていた。
そこで右腕に寄生していた〈生体兵器〉がなくなっていることに気がつく。戦闘服に付着していた〈異星生物〉の体液もなくなっていて、損傷も修復されていた。データの再読み込みが行われたのだろう。
「エラーも検出されていないし、完璧に〈仮想空間〉を再現できたみたい」
ペパーミントは満足げにつぶやく。
たしかに、〈仮想空間〉内に再現されたディテールは驚異的だった。書類棚だけでなく、微かに聞こえてくる空調の音や空気の流れ、通路の先に設置されている誘導灯まで、すべてが現実のように感じられた。
けれど同時に、その圧倒的な情報量に気圧される感覚もあった。この膨大な情報の海の中から、果たして必要な情報を見つけ出せるのだろうか。ここが〈仮想空間〉であることを忘れそうになるほど、奇妙な現実感が迫ってくる。
「それで……具体的に何を探せばいいんだ?」
ペパーミントは肩をすくめたあと、綺麗な顔で微笑んでみせた。
「核融合炉に関する情報は、すでにカグヤが探してくれているみたい。だから私たちは、技術者が残してくれた有用そうな研究の資料を探しましょう」
彼女が手元の情報端末を操作すると、どこからともなく複数の小さな光点が集まってくる。それはすぐに拳大のドローンに変化して、空間中に散開していく。ドローンは微かな振動音を響かせながら、棚と棚の間を縫うように飛び回る。あれも彼女が呼び寄せたのだろう。
「複数の擬似信号を使って私たちの存在を隠蔽している。だからディフェンスAIに居場所が知られてしまうことはないと思う。もちろん、完全に安全とは言えないけどね」
彼女は周囲を見回して、それから続けた。
「さっきみたいに自律型のアンチウイルスが展開している可能性もあるから、警戒を怠らないでね」
「了解」
彼女の言葉を聞きながら、自然と視線を上げる。
すると金属製の棚がどこまでも積み重なり、闇に溶け込むようにして
ドローンたちが次々と書類棚をスキャンしていくのを見ながら、適当に近くにある棚を開くと、仕様書の束が重なっているのが見えた。
いくつかの資料を手に取るが、〈レーダー感知パッケージ〉やら〈甲状腺インプラント移植後の経過観察〉やら、〈超高分子ポリマーを利用した耐熱被膜〉など、どれも高度な技術に関する研究記録が並んでいる。理解できない難解な言葉に眉をひそめつつ、別の資料を手に取ると、より具体的な記述が目に留まる。
〈血液凝固プロジェクト・新型白血球の特性〉という見出しが記された資料には、人体の血管破損に対応するための特殊な白血球に関する研究結果が詳細に記されていた。
新型白血球は血流中の凝固因子を迅速に活性し、外傷を抑止、また大量出血を抑える機能を持つという。実験結果に基づき、適応された兵士の損耗率は大幅に低下――といった記述が続き、さらに小さな注釈には〈身体改造手術後の運用を推奨、量産プロセス要検討〉とある。
文字だけでなく、血管の断面図や血液の流れを示す矢印付きの図表も添えられている。おそらく、兵士に提供されていた肉体に使われていた技術なのだろう。
それらの資料の中には、軍事用サイボーグに組み込まれる神経インターフェースに関する説明も含まれていた。電子回路が脳の神経信号をどのように読み取り、データ化しているのかという内容で、精密な回路図がびっしりと描かれている。
手にした資料を試しに取得しようとすると、資料全体が淡い光に包まれていき、一瞬で光の粒子に分解され空中に消えていく。するとフェイスシールドに〈データ取得完了〉のメッセージが表示される。
「なかなか便利な機能でしょ?」
すぐとなりで資料を漁っていたペパーミントが笑顔を見せる。
棚の中には大量の資料が残されていたが、その中から優先的に取得するべき情報を判断するのは困難だった。すべて取得できれば良かったのだが、大容量のファイルを移動するには、それなりの処理が行われることになり、ディフェンスAIに我々の損害を気づかれてしまう危険性も増してしまう。
「ここで迂闊なことはできないな……」
いくつかのファイルを入手し、つぎの棚に手を伸ばそうとした瞬間だった。視界の端で何かが揺れるように動くのが見えた。反射的に視線を向けると、棚の隙間に黒い人影が立っているように見えた。けれど目を凝らした瞬間には、すでにその姿は消えていた。
「……気のせいか?」
自分自身に問いかけながら、眉をひそめる。
書類棚に視線を戻そうとすると、今度は薄暗い通路の先に佇む人影が見えた。背の高い人間のようにも見えたが、詳細は分からない。が、とにかく嫌な予感がする。
疲労や緊張からくる幻覚だと思い込もうとしていたが、時間が経つにつれて、影はよりハッキリとした輪郭を持つようになる。そして、ただ遠くに立ち尽くしているだけでなく、こちらに近づいているようにも感じられた。
ペパーミントもその存在に気がついているのか、すでに戦闘の準備をしていた。光の粒子が出現したかと思うと、複数のバリケードや戦闘車両が形作られていく。巨大な榴弾砲を備えた自律型の車両や、回転する銃座を搭載した〈ツチグモ〉が次々とあらわれ、金属棚を押し倒しながら指定された目標地点に照準を向ける。
「……攻撃して」
ペパーミントが短く命じると、無数の砲口による容赦ない攻撃が開始された。
轟音とともに砲弾が炸裂し、無数の棚が宙に舞い上がる。火のついた資料が空中を舞い、燃える紙片がゆっくりと降り注ぐ。その中には金属の破片も混じっていて、爆発の衝撃で棚の残骸が飛び散っていることが分かる。
けれど人影は幽霊のように消え失せていた。砲弾の嵐が収まるころには、破壊された棚の残骸が広範囲にわたって散らばっているだけだった。
「見失った?」
彼女の声には、わずかな苛立ちが含まれていた。
砲火によって生まれた静寂の中で、再び何かがこちらを見つめている気配がした。
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