第874話 仮想空間
ひとりの技術者によって創造された〈
我々の目の前には、のどかな牧場が広がっていた。驚くほど平和で、見渡す限り緑の草原が広がっていて優しい風にそよいでいる。空はどこまでも高く、青く澄んでいて、薄い雲が緩やかに流れていた。
遠くに視線を向けると、ぽつぽつと牛のような生き物が牧草地に散らばり、緑の絨毯の上で気ままに草を
さらに遠くに目を凝らせば、どこか
空気は、現実の世界のように一切の汚染がなく、透き通るように新鮮だった。ひんやりとした冷たい風が頬をかすめ、乾いた草と湿った土のニオイを鼻先に嗅ぐ。荒廃した〈廃墟の街〉では決して味わえない心地良さだ。耳を澄ませば、遠くから鳥のさえずりが微かに響き、それは純粋で澄んだ音のように感じられた。
現実を凌駕するほどの自然の美しさと、作り物とは思えないほどの現実的な感触が、この世界の魅力を一層引き立てる。この場所が〈仮想空間〉だと知っているはずなのに、そのすべてが信じられないほどの生気に満ち溢れている所為で、目の前の空間が本物の世界のように思えてくる。
そして不気味な静けさにも気がつく。ディフェンスAIの痕跡が一切ないことが、どうにも引っかかっていた。通常なら〈仮想空間〉の侵入者に対し、セキュリティが容赦なく攻撃するはずだった。出口のない迷宮や錯覚、武力による侵入者の排除など、手段を選ばない防御機構が施されているはずだった。
しかし、この場所にはソレがない。技術者が創り上げた世界には、何の抵抗も妨害もなく、ただひたすらのどかな世界が広がっている。
本当にこれが〈仮想空間〉なのだろうか、思わず自分に問いかける。だが、同時に納得もしていた。
これだけのものを見せられると、旧文明の人々が偽りの世界に魅了されていた理由も理解できる。ここではすべてが超現実的で、それでいて理想を叶えてくれる夢のような場所だった。現実がどれだけ無情で辛辣であろうとも、すべての理想を叶え、夢を抱かせてくれる。そういった逃避のための楽園だったのだろう。
広大な草原と平和な牧場が広がる〈仮想空間〉の中を進みながら、心の奥で疑念が膨らんでいく。この美しくも偽りの世界が、現実を忘れさせる甘美な罠であることを理解していたからだ。
国家や巨大企業が膨大な資金を投じ、この〈仮想空間〉を開発し続けてきた理由もそこにあるのだろう。現実から逃避できる夢のような世界があれば、過酷な現実に対する不満も和らぎ、政治や権力に対する怒りや反発も抑え込むことができる。奴隷のように管理されてきた人々の視線を逸らすための、巧妙で冷酷な政策だったに違いない。
誰かがこの支配構造を批判したとしても、それはすぐに〝陰謀論〟というレッテルを貼られ、笑い飛ばされてしまう。訴えは嘲笑の中で葬り去られ、真実を告げる者の声は次第にかき消されていく。そして〈仮想空間〉の魅惑に引き込まれた人々は、その快適さの中で疑念を持たなくなり、ある種の麻薬のように抗う気力さえも奪われてしまう。
だが、その美しさや穏やかさの奥に、我々を標的とする捕食者のような意識が潜んでいることも理解していた。人工的に構築された平穏の裏には、必ずと言っていいほど破滅が待っているものだ。
我々はこの場所がただの理想郷でないことを知っていた。この〝偽りの平和〟がいつまでも続かないことも、もちろん知っていた。不穏な空気を感じながら、目の前に広がる草原を歩く。
牧場の中に立つ古めかしい木造の建物に目をとめた。外観は年季の入った農家で窓はひび割れていて、風雨に晒されてきたことが分かる。だが、その佇まいに不自然な美しさが感じられた。まるで、誰かが意図的に作り込んだ〝過去の美しい記憶〟のように。
これだけ壮大な世界を構築しているのなら、その地下に秘密の実験施設が隠されていても不思議ではないのかもしれない。
「あまりにも不自然ね。まずは、あの建物を調べましょう」
ペパーミントはそう言うと、廃墟のようにも見える農家に向かって歩いていく。彼女の〈アバター〉は背が高く歩幅があるので、小走りでついていく必要があった。
古びた両開きの大扉に手をかける。軋みながら扉がゆっくりと開いていく。そこに足を踏み入れると、何とも言えない悪臭が鼻についた。牛の排泄物の臭いが建物に染みついているのかもしれない。嫌な臭いまで再現した技術者の執念すら感じられる場所だ。
細かなホコリが空気中に漂い、壁には古いランプがかけられ、床板にはホコリが堆積している。表面的には農家の倉庫にも見えたが、この地下に別の空間が存在しているのではないか、という疑念は消えない。
建物の奥に歩みを進める。草原で感じた自然の開放感とは対照的に、この建物の内部は閉塞的で重々しい雰囲気に満ちている。
何もかもが完璧に整えられた〈仮想空間〉だが、その奥底には、〈データベース〉の監視をかいくぐり、外界の目から逃れようとした技術者の狡猾な思惑が垣間見える。ここに隠された研究データは、簡単に入手できるような代物ではないのだろう。
ペパーミントは虚空から突如として出現したライフルを構えると、無言のまま先行し、薄闇の中に入っていく。彼女の背後に続いて歩を進めながら、しだいに建物の広さに違和感を覚える。
外から見たときには、ただの農家に見えたが、今やどこまで続いているのかも分からない異様な広がりを見せている。背後を振り返っても、もはや入り口は見えず、そこにあるのは果てしない暗闇ばかりだった。まるで、この場所が出口のない迷宮に変貌したかのようにも感じられた。
「……やっぱり、ただの農家じゃないみたいね」
ペパーミントはライフルの銃口を左右に振りながら警戒を怠らない。
歩みを進めるごとに、薄暗い空間に潜む不気味さが増してくる。不意にどこからともなく聞こえてきたのは、牛の鳴き声と重い鎖を引き
なんてことのない音だったが、心をざわつかせるような薄気味悪さが感じられた。不可解な感覚に支配され、音の出所を知るのが怖いとさえ感じてしまう。ありふれた牛舎の音であるはずなのに、ここではそれが異質な何かに聞こえるのだ。
一歩ごとに木材の冷たい感触が肌に伝わってくる。暗がりのなか、古びたランプが弱々しい光を放ち床に影を落としている。足元に目を凝らすと、床板にわずかな隙間ができていて、ネズミらしき生物が駆け抜けていくのが見えた。薄暗い空間を進むうち、空気中に生物が腐敗したような臭いが混ざっていることに気がつく。
時折、遠くでぼんやりとした影が動くのが見える気がした。あの影が果たして実在するものなのか、それとも〈仮想空間〉が見せる幻なのかも分からない。侵入者を驚かせる仕掛けとしては、よくできているように思えた。
けれどディフェンスAIが、そのような超自然的な仕掛けに頼るとも思えない。すると再び牛の鳴き声が聞こえた。それはどこか遠くから、あるいは耳のすぐ近くに聞こえた。
「レイ、見つけたよ」
どうやら地下につづく階段を見つけたようだ。ペパーミントが地面に設置された重い鋼鉄の扉を持ち上げると、青白い照明に照らされた清潔な空間が見えた。
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