第858話 水底
重厚なグレーチングは、本来ならば簡単に外せる代物ではなかった。しかし周囲の基礎ごと破壊され、歪んだ鋼鉄が辺りに散らばっている。地面に膝をつくと、排水溝の暗闇を覗き込むが、底知れぬ静寂に満ちていて生物の気配は感じられない。深呼吸して気持ちを落ち着かせたあと、排水溝内に飛び下りる。
鈍い音が冷たい空間に響き渡り、どこか不安を増幅させるように反響する。その深い溝は狭く薄暗く、何の特徴もない灰色の壁に押し潰されそうな圧迫感を覚える。あちこちに生えている青白い藻のようなものが視界の端で不気味に発光しているのが見えた。それらの藻に触れないように、細心の注意を払いながら先に進む。
長い間使われていなかったのだろう、足元に水気はなく、汚染物質も確認できない。先に進むごとに闇は深まるように感じられた。そこには光源になるようなものはなく、ただ漆黒が広がるばかりだった。〈ハガネ〉の暗視機能を起動する。視界が瞬時に切り替わり、薄暗い緑の光で満たされた。
しかしそれは一瞬のことだ。機械学習により輪郭が補完されるだけでなく、色彩すら再現され拡張現実によって立体的に表示されるため、昼間のように周囲の環境を認識できるようになる。壁のひび割れから、床に残るネズミらしき小動物の小さな足跡まで鮮明に映し出され、細部まで把握できるようなった。
息を殺しながら狭い通路を進んでいくと、やがて空間が開け、広大な地下貯水池にたどり着いた。目の前に広がる水面はどこまでも暗く、底が見えない。その水面を見ていると、背筋に何か冷たいものが
貯水池のそばに立っているだけで、沈黙の重みで押し潰されるようだった。おそらく、浮遊島全体に供給する水が蓄えられているのだろう。水面にはタールのような黒い膜が張っているように見える。浄水施設が近くにあるはずだが、果てしない暗闇が、その存在さえも不確かにさせる。
この空間に――あるいは水底に、何か異様なものが潜んでいる。そう錯覚してしまうほどに、闇が濃く、そこに立ち尽くしているだけで雰囲気に呑まれそうになる。
そのときだった。水面を揺らす微かな水音が聞こえた。ゆっくりと波紋が広がるが、原因は分からない。どこからか風が吹き込んできたのだろうと自分に言い聞かせ、改めて暗視機能で周囲の様子を確認する。
広大な水面の至るところに鉄製の足場が張り巡らされている。その足場は年月とともに経年劣化が進み、あちこちで崩壊しているようだった。かろうじて残されている足場で何かが動いているのが見えた。
視線の先を拡大表示して確認すると、それはネズミにも似た生物の死骸だった。その腐りかけた肉に、無数の――黒光りするゴキブリが群がり、まるで生きた絨毯のように
ネズミの身体は黒く染まり、暗い眼窩からゴキブリが這い出てくるのが見えた。死骸に群がるゴキブリの数は、〈廃墟の街〉でも滅多に見られない規模に膨れ上がっていた。それがカサカサと音を立て、ゆっくりと蠢くさまは、どこか呪われた生態系を目にしているかのようだ。
格納庫内を徘徊していた変異体は、これらの生物を餌にしていたのかもしれない。かれらが水源に集まるのは本能的な行動なのかもしれないが、その水がこれだけの死と腐敗を抱えていることは奇妙で、どこまでも不吉に感じられた。
そのとき、偵察のために先行していたドローンが音もなく近づいてくるのが見えた。拳ほどの小さな偵察ドローンは、機体に備え付けられた赤外線ライトを点滅させ、こちらに位置を知らせるように空中で円を描くように飛んでいた。
そのドローンの後を追いかけるように進むと、奇妙な光景を目にすることになった。貯水池のすぐ近く、壁に寄り掛かるようにして白い物体が座り込んでいるのが見えた。あの白い巨人めいた変異体だ。しかしその姿はこれまでの個体と異なっていた。変異の段階で止まってしまったかのように、より人間に近い姿をしていた。
死人のように肌は青白く、皮膚のあちこちに裂け目が走っているが、人間としての原形を保っていた。抜け落ちていない長い黒髪の所為で顔は見えないが、血管が浮き出た大きな乳房で女性だと分かる。
彼女の腹部は大きく裂けていて、肥大化した内臓とおぼしきものが壁に向かって触手のように伸び、壁と一体化しているのが見えた。それはまるで、地中で菌糸を伸ばすキノコが成長し、地面に根を張っているかのようだった。
その触手状のモノが脈動するように震えるたびに、ソレが死んでいるのか生きているのか判別がつかず、薄気味悪いものを感じる。まるで生きながら壁と融合したかのようなその姿は、生命が歪みながらも成長し続ける醜悪な形そのもので、グロテスクさと不気味さが強調されていた。
体内からガスが噴き出ているのだろうか、環境センサーが異臭を検知していた。周辺一帯に強烈な腐敗臭いが漂っているのかもしれない。何処からともなくゴキブリがやってきたかと思うと、触手めいた器官の隙間に侵入し、そのまま取り込まれていくのが見えた。臭いで獲物を誘き寄せているのだろう。
その触手のいくつかは、すぐ近くの貯水池に向かって伸びていた。そこでは小さな波紋が静かに広がり、何かが水面の下で蠢いているのが分かった。壁と同化している変異体が意識を持っているのか、それともすでに意識がないのかは誰にも分からない。けれど、ソレを放って置くことはできなかった。
ライフルを肩に引き寄せると、異形の化け物に向かって銃弾を撃ち込んだ。彼女の頭部は衝撃で揺れたが、それだけだった。とくに反応をみせることはなかった。周囲には不自然な静寂が漂い、遠くで水滴が水面に落ちては消えていく音が木霊していた。
その場から離れようとしたときだった、視界の端に金属の輝きが映る。変異体の動きに警戒しながら近づくと、異形の肉体に半ば埋まっていた情報端末が見えた。画面をひび割れていたが、まだ原形を保っている。
人擬きの所有物だろうか。貴重な情報が記録されているかもしれない。義手の指先で端末の角をつまみ、じっと変異体の反応を
幸いなことに先ほどの射撃で無力化できていたのか、変異体はピクリとも動かず、暗闇の中にその巨体を沈めている。端末をしっかりと握り、急ぎ足でその場から離れた。
『ねぇ、レイ』ペパーミントの声が内耳に聞こえる。
『ウェンディゴを動かせるようになったから、すぐに戻ってきて』
彼女の声を聞いて緊張が少し和らぐ。歩調を早め、慎重に来た道を引き返す。周囲の闇が濃さを増していくなか、先ほどの異形が今にも追いかけてくるような錯覚に陥るが、振り返らずに進み続ける。
憶測でしかないが、あの奇妙な人擬きは一体だけでないのだろう。暗闇に支配されたこの広大な空間には、これまでに見たことのない変異を繰り返してきた化け物が数え切れないほど生息している。人知れず暗闇のなかを徘徊している化け物のことを想像するだけで、嫌な汗をかいた。
破壊されたグレーチングの蓋の位置まで戻ると、〈ナノファブリケーター〉を起動し、排水溝の入り口を塞ぐための代替品を作製する。数分も経たずに格子状の蓋が形成され、それを慎重に設置していく。蓋がピタリと
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