第845話 換気シャフト


 いよいよ危険な区画に侵入する準備が整うと、隔壁の端末に接続していたカグヤのドローンの操作によって閉鎖が解除され、無数の開口部から圧縮された蒸気が吹き出すのが見えた。分厚い鋼鉄製の扉が左右にスライドしながら徐々に開いていくと、その隙間から濃い緑がかったガスが静かに漏れ出してくるのが見えた。


 そのガスは重力に従って床に流れ、まるで蛇のようにうねりながら足元に広がっていく。すでに背後の隔壁は閉鎖されていたので汚染が広がることはなかったが、それは我々の退路が完全に断たれたことを意味していた。その事実が、この場の緊張感をさらに高めていくようでもあった。


 隔壁が完全に開放されると、侵食された通路が露わになった。未知の植物が天井から床面までおおいつくしていて、異形のつるが至るところに絡みついている。地面には太く奇怪な根が複雑に絡まり合い、緑色の淡い光を放っている。それらの植物の一部は、まるで呼吸をしているかのように、ゆっくりと膨らんだり縮んだりしていた。


 ペパーミントは防護服のセンサーが収集した環境情報を確認していく。事前調査の通り、この区画では未知の病原体を運ぶ胞子の存在は確認されなかったが、神経ガスにも似た化学物質を含んだガスが充満していることが分かった。おそらく植物から放出されているのだろう。


 その毒ガスは体内に侵入すると、呼吸器に深刻な影響を与える危険性があるだけでなく、神経伝達物質を阻害することで全身の筋肉の活動を停止させて窒息死につながることもあるという。防護服がなければ、ガスが充満した環境で生きていられる人間はいないだろう。


『未知の物質も確認したから、もっとひどいことになるかもしれない』

 ペパーミントの声はフェイスマスクの通信装置を介して聞こえていたが、その言葉には恐怖が滲んでいるように感じられた。


 カグヤのドローンが〈熱光学迷彩〉を起動しながら、薄暗い通路に向かって飛んでいくのが見えると、我々も移動を開始する。どの道、もう後戻りはできないのだ。目の前に広がる未知の危険と向き合うしかなかった。


 足元に注意を払いながら通路に足を踏み入れる。すぐに周囲の空気が変わったことを肌で感じ取る。汚染された空気に肌を晒しているわけではないので、それはただの比喩だったが、先ほどまでの冷たい人工的な空間から一転して、亜熱帯のジャングルに迷い込んだような感覚にさせた。


 しかし現実のジャングルのように鳥や昆虫のさわがしい鳴き声が一切聞こえず、不気味な静寂が漂っていた。その異様な沈黙は、我々に覆いかぶさるようにして恐怖を煽っていた。


 ちらりと天井に視線を向けると、触手のようにうごめく蔓が垂れ下がっているのが見えた。ソレは意思を持っているかのようにゆっくりと動き、こちらの動きに警戒しているような素振りを見せる。


 目を凝らすと、薄暗い通路の先にぼんやりとした青白い光を発する花が見えた。まるで深海に生息する生物が獲物を誘い込むために発する光を見ているようで、その美しさに一瞬心を奪われる。しかし植物の周囲に立ち込める不自然な暗闇は、そこに潜む不吉なものを予感させ、美しさよりも恐怖心が勝っていく。


 複雑に絡みついていた植物の根に目をやると、地上のコンテナターミナルで見かけた三葉虫に似た奇妙な生物の群れがカサカサとい回っているのが見えた。地上で見たものよりも小型だが、その動きは俊敏で気色悪さは健在だった。


 これらの生物は、光合成を必要としない異星の植物の養分になっているのかもしれない。考えてみれば当然のことだったが、この未知の植物も何かを捕食しなければ生きていけないのだろう。その事実は、異星の植物がいかに危険な存在なのかを我々に思い出させる。


 空間全体に漂う毒々しいガスと、蠢く奇妙な植物の存在、そして暗闇の向こうに見え隠れしているモノが、いっそう恐怖をかきたてる。我々が想像すらできない脅威が、この通路の向こうで待ち受けている――そんな不安が頭から離れなくなる。


 それでも歩を進めると、故障していた最初の換気装置が設置されていた場所の近くに到着する。相変わらず不気味な植物が生い茂り、苔色の蒸気が薄っすらと漂っていたが、なんとか無事に移動することができた。


 ペパーミントは、機械人形ラプトルたちが運んできたコンテナボックスから必要な工具を手早く取り出すと、作業の準備に取りかかる。その間、私はテンタシオンたちと協力しながら植物に埋もれて見えなくなっている換気シャフトの入り口を探し始めた。


 植物が鬱蒼と生い茂る光景を見ていると、それが自然に繁殖したものではなく、何か目的をもって意図的に配置された障害物のように感じられる。たとえば、シャフトの入り口に絡みつく植物は侵入者を拒んでいるかのようにも見えるが、それもある種の強迫観念なのかもしれない。この異常な環境が精神を蝕んでいる所為せいなのだろう。


 あれこれと考えていると、背後から鋭い音が聞こえた。振り返ると、触手のように蠢く蔓が勢いよく伸びてくるのが見えた。その動きに逸早いちはやく反応してみせたテンタシオンは、コンテナボックスから入手していたレーザーガンを構えると、照準を合わせることなく引き金を引く。


 赤い閃光が薄暗い通路を照らしながら蔓を焼き切ると、植物特有の青臭さと焦げた臭いが通路に立ち込めるが、〈ハガネ〉のマスクのおかげでニオイを嗅がずにすんだ。焼き切られた太い蔓は、まるで痙攣するように地面でのたうち回る。テンタシオンの反応が遅かったら、あの蔓に絡みつかれていたのかもしれない。


 換気シャフトの入り口には鋼鉄製の柵が張りめぐらされていて、その柵にも無数の蔓が絡みついていた。修理が必要な換気装置はシャフトの先にあるようだが、不用意に近づけば、先ほどのように蔓に襲われるかもしれない。


 テンタシオンが部隊に指示を出すと、機械人形たちはレーザーガンを構えていき、柵に絡みつく蔓に照準を合わせる。そして高出力のレーザーが放たれると、瞬く間に蔓は焼き切られていき、鋼鉄の柵も徐々に赤熱していくのが見えた。やがて柵の一部が完全に切断される。


 その柵が鈍い音を立てながら倒れると、シャフトの中から何かがい出てくるのが見えた。どうやら、あの三葉虫めいた生物の棲み処になっていたようだ。気色悪い生物がカサカサと音を立てながら出てくる様子は、見ているだけで鳥肌が立つ。その奇妙な生物は四方八方に散らばり、暗闇の中に消えていった。


 ペパーミントの準備ができると、我々は薄暗い換気シャフトの中に足を踏み入れた。シャフト内は異様に広く、それでいて暗く、ひどく不気味な雰囲気が漂っていた。通路の奥からは微かな風音が聞こえ、どこかで何かが軋む音を聞いたが、生物の気配や敵意は感じられなかった。


 その薄暗い換気シャフトを進んでいくと、人の背丈よりも長く巨大なファンブレードが見えてくる。けれど、高速で回転し空気を循環させる役割を果たしているはずの鋼鉄製のブレードは完全に停止していた。その原因はすぐに判明する。


 黒光りするファンブレードの軸や翼に、あの未知の植物の根がしっかりと絡みついているのが見えた。植物の根は金属の表面を這う触手のように密接していて、その圧倒的な力で強大なブレードの回転を止めていた。


 養分になる獲物を追ってシャフト内で増殖したのかもしれないが、換気装置の機能を麻痺させるために、意図的にそこに生い茂っているようにも見えた。


 ペパーミントは情報端末を使って故障していた装置を走査すると、修理に必要な部品を〈ナノファブリケーター〉で作成することにした。その間、私は機械人形たちと手分けして、その邪悪な根を焼き切っていく。レーザーガンの閃光がファンブレードを照らし出しながら根を切断していくたびに、シャフト内に煙が立ち込めていく。


 ファンの回転軸が露わになり、〈ナノファブリケーター〉で必要な部品を作り終える頃には、根のほとんどを焼き払うことに成功していた。しかし残った根がまだしぶとく絡みついていて、完全に取り除くまで気を緩めることはできなかった。

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