第843話 音声データ〈防護服〉
隔壁の向こう側に広がる汚染区画を安全に通過するため、ペパーミントは防護服を身に着ける準備を進めていた。〈兵站局〉のコンテナボックスから入手していた防護服は、白地に黄色のラインが入った洗練されたデザインで、防護服特有の野暮ったさは感じられなかった。
厚手の素材でつくられた防護服は耐熱性に優れた複合繊維の他に、アラミド繊維と鉛素材が使用されていて、外部からの汚染物質の侵入を防ぐ機能を持っていた。モールベルトに備え付けられていた生命維持装置も小型で軽量なため、防護服を着用していても動きに支障が出ることはない。
ペパーミントは義体として〈ガイノイド〉を使用していたが、それでも異星の侵略的外来が散布する胞子に対して無力だったので防護服を着用する必要があった。彼女の〈コムラサキ〉は、旧文明の生体工学を用いて完璧に設計された義体だったが、生体素材を多く使用しているため、植物の侵食に抵抗する術がなかった。
彼女が防護服を身につけるさい、半透明のスキンスーツを通して長身で均整の取れた肢体を目にすることになった。スーツ越しに滑らかな曲線が浮かび上がり、淡い桜色の乳輪や薄い陰毛が見えていて、彼女の肉体に思わず目を奪われてしまう。
もともと〈コムラサキ〉はセクサロイドとしての機能を備えた快楽のための工業製品だったからなのか、あまりにも妖艶で、それが生身ではないと分かっていても目を逸らすことができなかった。
彼女はその視線に気づいているのか、いないのか――あるいは気にしていないのか、とくに反応することはなかった。ペパーミントは振り返るようにスキンスーツの状態を確認したあと、準備していた防護服を身に着けていく。その動作はどこか艶かしく、また非日常的で、見ているだけで頭の芯がクラクラするような不思議な感覚を抱く。
彼女が半透明のスキンスーツを通して素肌を見られても気にしなかったのは、それが義体でしかないからなのかもしれない。彼女にとってソレは〝服を着替えるように、いつでも交換できる部品に過ぎない〟のかもしれない。
たとえば服が破れたり、傷んだりしたときには補修して、ソレができなければ破棄すればいい。それに近い感覚なのかもしれない。
そして新しい服を見られたからと言って、素肌を見られたときのように恥ずかしがる人間はいない。そうした身体に対する感覚や認識の違いは、〈人造人間〉だけでなく、容姿を変更するためのインプラントや、手足の〈サイバネティクス〉を思いのままに交換できた旧文明の人類も持ち合わせていた感覚なのかもしれない。
すでにガイノイドの裸体は見慣れていて、なんとも思わなかったが、そのときだけは別の感情を抱いてしまっていた。あるいは、それをペパーミントとして認識していたからなのかもしれない。いずれにせよ、こんな危険な場所で発情している余裕なんてない。ナノマシンが精神に作用すると、徐々に冷静になっていくのが分かった。
彼女は白いジャケットを羽織ると、袖口に備え付けられていたソケットからケーブルを引っ張り出して、防護服の生命維持装置に挿し込んでいく。すると低い電子音が聞こえて、システムが起動したことが分かる。彼女が装着していたフェイスマスクのシールドにも、周囲の環境情報や防護服のステータスが表示されるようになったのだろう。
私も彼女に
けれどその瞬間、思いもよらない反応が起きた。まるで生き物のように身体に馴染んでいる〈ハガネ〉が、ほぼ無意識のうちに防護服に反応する。ある種の
手のひらから流れ出た液体金属は瞬く間に防護服を包み込み、その表面を覆い尽くしていく。金属の波が防護服を浸食していくかのように見えたが、無数の微細な粒子が互いに引き寄せられ、緻密に編み込まれていくようでもあった。
そうして防護服は液体金属に溶け込み、混ざり合うようにして〈ハガネ〉に取り込まれていき、元から存在しなかったかのように跡形もなく消失してしまった。
すると『システム統合中』の文字が視界に浮かび上がり、次々と数値が表示され、何が起きているのかを示す詳細なデータが驚くほどの速さで流れていくのが見えた。システム互換性の診断情報やウイルススキャンが実行され、膨大な情報が驚くほどの速さで処理されていく。
その中には中枢神経系やシナプスとの適応性に関する詳細な情報まで含まれていて、〈ハガネ〉が肉体と精神の両方に適合し、ほとんど肉体と同化していることが確認できた。〈ハガネ〉に備わる高度な技術が防護服の機能を取り込み、装着者の身体にとって最適な状態に調整されていく過程が明らかになっていく。
やがて互換性に関する問題がないことが確認されると、防護服の内部に備わる環境センサーや生命維持に関する各種機能のシステムチェックが行われていく。体温や酸素濃度のモニタリング機能、毒素や有害物質の検知能力が次々とテストされていく。
最終的に『システム統合完了』の表示が浮かび上がると、防護服の機能が完全に〈ハガネ〉の一部となり、今やいつでもその機能を再現できる状態になったことが確認できた。防護服の気密性と、タクティカルスーツの柔軟性が完璧に融合し、身を守るための装備が強化されたことが分かった。これで植物に汚染された区画に侵入する準備は整った。
突然のことに戸惑ったが、とにかくスーツの性能を確認することにした。軽く腕を動かし、関節の動きや感触をチェックしていく。違和感はまったくなく、むしろ防護服の機能を取り込んだことで、空間把握能力が向上したような感覚すらあった。防護服に備え付けられていたセンサーも取り込んでいたので、それが関係しているのかもしれない。
その異様な光景を眺めていたペパーミントは、まるで生き物のように自在に姿を変える〈ハガネ〉のスーツをじっと見つめていた。
「ハガネの機能にはいつも驚かされるけど、それと同時に恐ろしくもある。ねぇ、レイ。そんなものを身体のなかに抱え込んでいて、怖くないの?」
彼女の声には純粋な好奇心とともに、抑えきれない恐怖が滲んでいた。
ペパーミントの足元に視線を落としながら、答えを探すように返事をした。
「怖いよ。いつか自分が自分でいられなくなるんじゃないのかって考えることもある。でも、いくら考えても答えは見つけられない。だから考えないようにしているんだ」
その声には、まるで自分自身に「大丈夫だ」と言い聞かせるような響きがあった。〈ハガネ〉と肉体の同化が進むたびに、自分の意思が少しずつ侵食されているような感覚を抱くことがあった。無意識に手足を動かしたり、脅威を排除したりすることもあった。それでも、その奇妙な感覚を押し殺してきた。
「それに――」と、作り笑いを浮かべながら言う。「〈ハガネ〉がなければ、この過酷な世界で生きていくことはできない」
しばらくの間、ペパーミントにじっと見つめられていたが、やがて彼女は納得したようにうなずいてみせた。
「そうね、考えても仕方がない。結局、物事はなるようにしかならないんだから。それに、レイの身に何か問題が起きたとしても、きっと私が解決してみせる」
それから彼女は白骨死体のそばに転がっていた〈データパッド〉を拾い上げた。その古びた端末には血液らしきモノの痕跡が残されていて、かつての持ち主がどのような状態に立たされていたのかを物語っていた。
端末のデータは消去されていたが、ひとつの音声データだけが残されていた。ペパーミントがその音声データを再生すると、男性の震える声が聞こえてきた。
『すでに戦友の多くを失くした。そして生き残っている我々の魂も、徐々に虚無に蝕まれている。――今日、戦友のひとりを撃ち殺した。彼女は……彼女は泣いて助けを求めていた。俺に助けを求めていたんだ……』
男性の声が微かに震え、彼が絶望的な状況で難しい判断を下したことが分かった。壁に寄り掛かるようにして座り込んでいた白骨死体が、その音声データを残した男性のモノなのだろう。
『我々に試練が降りかかったのは――いや……すべての発端は、あの最悪の日〈データベース〉との接続が断たれた日から始まった。あの日、我々はすべてを失ったんだ。この植物は、いずれ我々の肉体だけでなく、魂すらも手に入れるのかもしれない』
男性の声は次第に力を失くし、長い沈黙が続くようになった。
『……だが、古の神々が言ったように、我々には自由意志があり、誰に魂を捧げるのか選択することができる。そして俺の魂は――』
短い電子音のあと、男性の震える声が聞こえる。
『あとは引き金を引くだけでいい……大丈夫、なにも恐れる必要はない。もうすぐ、君に会えるのだから――』
長い沈黙。
『さぁ、やるぞ……』
金属が擦れる小さな音のあと、小声でつぶやくのが聞こえる。
『撃て、撃て、撃て……撃て――』
音声データはそこで途切れていた。
つめたい静寂のなか、しばらく何も言わず白骨死体を見つめていたが、やがて気を取り直して隔壁に視線を向ける。この場所で、彼が一体どんな悪夢を見たのか――その答えは、この隔壁の向こう側で待ち受けているのだろう。
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