第839話 星間空間を漂う


 タグ付けされた特異個体を避けながら、我々は無数の標本が展示されていたフロアを進んでいた。特異個体の出現によって安全に移動できる経路は制限されていて、これまで以上に〝白い巨人〟の脅威を感じるようになっていた。


 何気ない動きや物音すら、今は命の危険をはらむ行為に変わってしまっていて、さらに緊張感が増していた。先行する機械人形ラプトルの戦闘部隊も、つねに光学迷彩を起動している状態で、幽霊のように姿を隠しながら進んでいた。広大な展示フロアで聞こえてくるのは、自分たちの息遣いと、時折聞こえてくる変異体の不規則な足音だけだった。


 途中、異様な生物の標本が目に飛び込んできた。それは旧文明期以前の映画や物語から抜け出してきたかのような生物だった。赤黒いゲル状の塊に見えるその標本からは、無数の触手が突き出していて、それぞれの触手の先端には――おそらく吸引のための小さな開口部がついていた。


 どのような仕組みなのかは分からないが、標本であるにもかかわらず、無数の触手は展示ケースのなかでうごめいていた。触手の先端は不気味な粘液にヌラヌラと濡れていて、まるで生きているかのようにパクパクと開閉し、周囲の様子を探るかのように伸びたり縮んだりしていた。


 赤黒い触手に覆われている所為せいなのか、目に見える範囲では頭部らしきものは見当たらず、代わりにゲルの塊から突き出た鉤爪が異様な存在感を放っていた。ソレは異様に鋭く、生物の皮膚や骨を容易に引き裂けるものだった。どんな衝撃にも耐えられそうな爪の厚みと、曲線を描くその形状は、捕食者としての進化の過程を想起させる。


 拡張現実で表示されていたガイドの説明によれば、この生物は本来、人間の目には見えない存在なのだという。


『これは不可視の存在です』と、施設の真新しい制服を身につけた青年が言う。

 主に生物の血液を吸う性質を持ち、体内に取り込んだ血液によってその輪郭が浮かび上がることで視認できるようになるのだという。展示されている赤黒いゲル状の標本は、生物が吸血した際の姿を忠実に再現していた。


 興味に駆られて展示されていた標本のそばにしゃがみ込み、触手の生え際を覗き込んでみる。すると、その根元に不揃いの牙がぎっしりと生えた口らしき器官が確認できた。口の中は暗くてハッキリと観察できなかったが、無数のひだが動いているように見えた。


 その異様な生物を間近に見ていると、不可視の触手に絡めとられ、血液をすすられながら無数の牙でみ殺されていく感覚に襲われた。ゾクリと背筋に寒気が走り、思わず後退りしてしまう。


 この世のモノとは思えない生物に恐怖するが、その奇怪な姿に見入るうちに、自分がその生物に魅了されていく奇妙な感覚に囚われていることに気がつく。この生物も〈混沌の領域〉に生息しているのだろうか。展示ケースのそばに設置されていた端末に触れると、ガイドが更なる情報を開示してくれる。


 特殊な溶剤によって原形を保ったまま展示されているこの異形の生物は、星間宇宙の深淵に潜む未知の存在だとされていた。ガイドが説明していたように、この生物は肉眼で見ることはできないが、展示されている個体は特殊な処理が施されていて、人間の目に見える形でここに存在しているのだという。


 ガイドの説明に耳を傾けながら、その得体の知れない姿に見入る。宇宙という広大な空間には、我々の想像を超える異形の生命が息づいているのだと痛感させられる。


『この生物は星間空間を漂い、生命が存在する星々で血を糧にして生きるとされています』ガイドは淡々と説明する。『どのように星間を移動するのかは未だ解明されていませんが、不運にも彼らと遭遇した兵士の記録によると、虚空から突然出現し、獲物となる生物を襲ったあと、また瞬時に姿を消してしまったとされています』


 記録によれば宇宙軍の兵士が襲われ、瞬く間に捕食されてしまったという。不可視の生物は人工血液を体内に取り込んだことで、一瞬だけ姿をあらわしたが、またすぐに消えてしまったという。


 ガイドの話を聞いていると、ふと背後に気配を感じる。微かな、しかし確実に近づいてくる足音だった。内耳に警告音が鳴り響いて特異個体の接近を知らせる。心臓が大きく跳ね上がり、緊張で身体が強張る。振り返って薄闇の向こうに耳を澄ませると、不規則で重々しい足音が近づいてくるのがハッキリと分かった。


 さっと周囲を見回したあと、ペパーミントの手を取ってサイにも似た大型生物の剥製の背後に素早く身を隠す。すでにガイドの青年は消えていて、しんとした静寂が辺りを支配していた。全身が警戒態勢に入るなか、こちらに近づく足音がさらに鮮明になるのを聞く。


 すぐに〈ハガネ〉の〈環境追従型迷彩〉を起動して、周囲の環境に溶け込むようにして姿を隠す。とはいえ、迷彩の効果は完璧ではない。照明の角度や影の差し込み具合、そして特異個体の感覚がどれほど鋭いかによって効果が変わる。


 ピタリと身体を寄せていた〈コムラサキ〉の目を見ながら、じっと息を殺し、身動きひとつせず脅威が通り過ぎるのを待つ。ほんの小さな動きや物音でも、変異体の注意を引いてしまう可能性がある。それでも変化や兆候を見逃さないように、全神経を集中させながら敵の動きを観察する。


 すると足音が聞こえなくなり、すぐ近くに変異体が立っているのが見えて額に汗がにじむのを感じる。おぞましい化け物は周囲の様子を探るかのように、展示されていた標本を眺めていく。すぐそばに白い巨人がいるという事実が、息苦しいほどの緊張感を生む。時間が凍りついたかのような静けさの中、心臓の鼓動だけが異様に大きく感じられる。


 一瞬でも気を抜けば終わりだ。ここで油断すれば、化け物の餌食になるのは避けられない。呼吸を抑え、神経を研ぎ澄ませていると時間の感覚が徐々に曖昧になっていく。足音はゆっくり遠ざかっていくが、その時間は永遠にも感じられる。


 数十秒なのか、それとも数分だったのか、それすらも分からない。全身が緊張で強張り、冷や汗がじわりとにじむのを感じる。


 すぐ近くの展示ケースから短い電子音が鳴り響いたのは、ちょうどその時だった。心臓が凍りついて鼓動が止まるような感覚がした。端末に触れたのがマズかったのかもしれない。その音は静寂を破るように響き渡っていく。その電子音が聞こえると、ゆっくり移動していた変異体は立ち止まり、それから獲物に襲い掛かる獣のような鋭い反応を見せた。


 巨大な影が素早く動き、こちらに向かってくる。肋骨が浮き出ている痩せ細った巨体に似合わない俊敏さを見せた変異体は、展示ケースの前で立ち止まると周囲の気配を探るように首を左右に振る。その顔には、あの不気味な笑みが張りついていた。


 口の端が引きつっているような笑顔は、白い巨人の異常さと狂気を感じさせ、その姿を脳裏に焼きつけていく。やがて化け物は我々の存在を嗅ぎつけたかのように目を細め、我々が身を隠していた剥製に視線を向けた。


 このままでは見つかる――そう確信した瞬間、血の気が一気に引いた。反射的に身体が硬直し、心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。ライフルを構えようとするが、わずかな動きでも変異体の捕食者としての本能を思い出させるかもしれない。


 すると、すぐ近くに潜んでいたテンタシオンが〈サイコロデコイ〉を放り投げるのが見えた。その小さな装置はコロコロと音を立てながら通路の中央に転がり、次の瞬間、立体的に再現された男性の姿を投影した。


 突如としてその場にあらわれ男性は、驚いたような仕草を見せてから走り出す。その動きに反応した変異体は、凶暴な本能に駆られ、牙を剥くようにして襲いかかった。〈サイコロデコイ〉が踏み潰されてホログラムが消えたあとも、興奮が冷めやらない様子の化け物は消えてしまった人影を探すようにどこかに駆けていく。


 テンタシオンの機転のおかげで化け物の注意をそらすことに成功し、ようやく息をつくことができた。どうにか危機を回避したものの、ほんのわずかなミスが命取りになることを痛感させられた。


 展示フロアは興味を引く標本で溢れていたが、残念ながら見学している余裕はないようだ。地図を開いて出口を確認したあと、すぐに移動を再開した。

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