第830話 海上


 輸送機から見える風景は、ただ無限に広がる青の世界だった。澄み渡った空はどこまでも高く透明で、太陽の光が柔らかく拡散していた。雲ひとつない空の青さが、海の青と溶け合うように重なり、水平線がどこにあるのかさえ分からないほどだった。海面では太陽の光が反射し、煌めく波が銀の糸の連なりに見える。


 我々は現在、相模湾から大島、八丈島を南下し、小笠原諸島辺りのどこかでその存在が確認された浮遊島〈デジマ〉に向けて飛行していた。その〈デジマ〉は太平洋上を絶えず移動しているため、正確な位置は判明していない。だから数日前に高高度偵察機が入手していた情報を頼りに飛行していた。


 コクピット内は静かだった。全天周囲モニターが採用されたコントロールシステムになっていて、操縦席の周りを取り囲むように広がる視界は、コクピット全体が空中に浮かんでいるかのような錯覚を生む。前方、側面、さらには床面が透明なガラスのように外の景色を映し出していて、周囲の状況を一目で把握できるようになっていた。


 そのモニターから見える青い海と青い空が果てしなく続く光景が、心に不思議な平穏をもたらす。時折、機体の状況を知らせる短い電子音が聞こえるが、それさえも自然の一部のように感じられる。海の広がりに目をやると、どこか幻想的で、非現実的な感覚が押し寄せてくる。そのなかを輸送機は滑らかに進み、機体の振動もほとんど感じられない。


 機体が南下するにつれて、眼下に広がる太平洋の表情も微妙に変わっていく。光の加減で海面はガラスのように煌めき、ところどころにあらわれる波紋が風の状況を伝えてくれている。遠くのほうに微かに見える巨大な雲が、これから向かう浮遊島の存在を静かに示唆しているようでもあった。


 天候は申し分なく、風も穏やかだった。雲は薄く、遠くに見える小さな白い点が空の広がりを強調していた。まるで時間が止まったかのような瞬間だったが、実際には目的地に向かって確実に近づいていた。距離にして二時間から三時間の飛行だが、この静かな美しさが続く限り、決して悪い時間ではないように感じられた。


 コンソールに視線を向ける。タッチパネルとアナログスイッチが融合したもので、操縦者の直感的な操作をサポートしている。そのコンソールを使い兵員輸送用コンテナの状況を確認する。


 コンテナ内部には、〈デジマ〉で作戦を支援してくれる機体が待機している。これらの機体は、完全自律型の機械人形の戦闘部隊であり、未知の領域を探索するために気密性、防水性能を高める改良が施されていた。あの得体の知れない植物が放出している胞子を防ぐための対策だったが、効果があるのかは不明だった。


 今回の作戦は、〈デジマ〉内の未探索領域を調べるものだったが、現地での装備調達が可能だったため、積載された物資は必要最低限に抑えられていた。そして作戦行動中の感染リスクを避けるため、支援部隊は機械人形で構成されている。その部隊を指揮するのは戦闘能力に優れたテンタシオンだ。


 モニターに表示されていた映像を切り替えたあと、コンテナ内に異常がないか確認する。二十名分の座席が用意されていたが、機械人形を収容するため各座席は取り外されていた。壁にはガンラックやコンテナボックスが整然と並び、最低限の装備や物資が収められているのが分かる。


 この探索にテンタシオンの本体を同行させることに対しての危惧はあった。貴重な機体であるだけなく、人工知能としても――おそらく、人工島を管理する〝アイ〟と同等の性能を持っているかもしれない。


 それはつまり、もはや人間とほとんど変わらないということでもある。一個の生命を持った種族としてみた場合、ソレが失われてしまうのは、あまりに損失が大きすぎる。だから同行させることには慎重にならざるを得なかったが、テンタシオンの本体でもある球体状の機体は特殊な力場で保護されていたので、胞子の侵入を恐れる必要はなかった。


 もちろん作戦に参加するにあたり、ペパーミントによって更なる改良が施されていたので、胞子が入り込む可能性は限りなく低くなっていた。


 目標の海域が近づくにつれて、奇妙な緊張感に包まれていく。今回は封鎖されているコンテナヤードを避けて、他の区画を探索する予定だったが、それでも危険なことに変わりないだろう。外の景色を映し出す全天周囲モニターに視線を向けると、透き通った青空と穏やかな海が広がっていたが、その美しい風景のなかに異物があることに気がつく。


 海面に不自然な動きが見えた。最初はただの岩礁かと思われたソレは、まるで生き物のように浮き沈みを繰り返し、ゆっくりと移動していた。その表面にはひび割れのような模様が刻まれ、そこから何か黒い液体が漏れ出しているようにも見えた。それが水中に消えると、周囲の水が僅かに濁り、黒い波紋が広がっていく。


 何か得体の知れない生物が海中に潜んでいるかもしれないという事実に、恐怖を抱かずにはいられなかった。そこで、ふと魚人が潜む洞窟で見た光景を思い出す。


 その洞窟の奥深くには、脈動するように青白く発光する石柱がそびえていた。滑らかな岩肌は、何か忌まわしい呪術的な意図を持って彫られた奇妙なレリーフで覆われていた。そこに刻まれていたのは、単なる文字だけではなかった。魚人たちと異形の生物の姿が精巧に刻まれていた。


 その中に、魚人たちよりもさらに巨大な生物の姿が確認できた。集団で狩りを行うその姿は、知恵と途方もない力を持っていることを示していた。それがどれほど巨大な生物なのか理解できたのは、かれらの獲物がクジラだったからだ。さらに別の部分には、カニにも似た生物を狩る場面や、無数の触手を持つヒトデに似た生物と争う様子も描かれていた。


 この海の底には、あの洞窟の石柱に刻まれたような、我々の想像を超えた存在が潜んでいるのかもしれない。人知を超えた脅威が、今もなお深海の暗闇の中で息づいている。先ほど我々が目にしたモノも、その未知の生物だったのかもしれない。冷たい汗が背筋を伝い、この海が持つ底知れぬ恐怖を改めて実感する。


 やがて目的地の〈デジマ〉が見えてきた。紺碧の海の上に巨大な岩塊が浮かんでいるのが見える。その光景はどこか現実離れしていて、物語の中の風景のようだった。島全体を覆う濃霧がハッキリと確認できるようになる。その霧の中からは無数の建物の影がぼんやりと浮かび上がるが、雲を伴って移動しているため、島の輪郭を捉えることはできない。


 突然、コクピット内に警告音が鳴り響いた。視界の端に〈異星生物〉のものと思われる奇妙な構造物があらわれ、赤色の線で縁取られていくのが見えた。未知の合金で築かれた建物が不気味に聳え、奇妙な装置や機械が生きているかのように動いているのが見えた。


 ソレは薄い霧の中で明滅し、何かの信号を発しているかのようだったが、その意味は誰にも分からなかった。輸送機がさらに〈デジマ〉に接近すると、霧の中から無数の砲塔があらわれて、音もなく静かに動き出すのが見えた。


 要塞めいた建物に設置された砲塔の動きは、侵入者を迎撃するための準備を整えているように見えた。その機械的な動きを見ていると、〈デジマ〉のふわふわとした幻想的な印象は消え、現実感を伴った脅威が確実にこちらを捉えようとしていることを感じさせた。


 すぐに識別信号を送信し、生体情報をもとに接近許可を求める。しかし〈デジマ〉の防衛圏内に無断で侵入していることに対する警告と、すぐに離れなければ攻撃を加える、といった警告を受信することになった。ふたたび身分を証明し、攻撃の意図がないことを伝えたが、IDが適正なコードと認められないため、近づくことすらできない状況だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る