第826話 ジャック・アウト


 そこには〝本当に〟何もなく、果てしない空虚だけがどこまでも空間を満たしていた。その死んだような孤独のなかを、意識だけがゆっくり浮上していく。そうして気がつくと、軍が管理する〈電脳空間サイバースペース〉から、現実世界の〈電脳空間接続室〉に帰還していた。


 ゆっくり瞼を開いたあと、頭だけ動かして真っ白な部屋を見回す。そこには見慣れない装置がいくつも並んでいて、その角張ったフォルムが異様な存在感を放っている。壁面パネルには複雑に絡み合ったケーブルの束が見え、壁の周囲には無数のホロスクリーンが投影されていた。


 どうやら無事に現実の世界に戻ってこられたようだ。ヘッドセットを外しながら上半身を起こすと、手術台を思わせるイスの感触を確かめながら座り直す。すぐ目の前のコンソールパネルには、〈電脳空間〉に関する情報が表示されていて、無事に〈電脳空間〉から離脱ジャック・アウトできたことを知らせていた。


 なんとはなしに自分の手を見つめる。片方は〈ハガネ〉の義手、もう片方は自分の生身の手だ。その見慣れた光景は、現実の世界に戻ってきたことを強く感じさせた。義手の冷たさと生身の手の温もりを感じながら、徐々に現実の感覚に身体を慣れさせていく。室内の空気は冷たく、機械の微かな動作音だけが聞こえていた。


 一瞬、〈電脳空間〉での出来事がフラッシュバックして、存在しない痛みを感じる。ぎゅっと目を閉じて深呼吸する。捕食者との戦闘で傷ついたのは〈コムラサキ〉だったが、幻肢痛にも似た感覚が完全に消えるまで、もう少し時間がかかりそうだった。


 しばらくすると、イスから立ち上がりながら〈電脳空間〉を使った調査について思い返す。浮遊島〈デジマ〉は――かつての長崎の外国人居留地を模した場所であり、異星生物の活動拠点にもなっていたが、そこでの調査結果は芳しくなく、あらゆるデータが危険地帯だと示していた。


 壁に設置されていたホログラム投影機からは、〈デジマ〉の立体的な地図が浮かび上がっていた。廃墟と化した建物が立ち並んでいて、コンテナヤードには異様な植物と菌類が群生している。そこでは独自の生態系が形成され、侵略的外来生物がその空間を支配している様子が映し出されていた。


 あそこで見た光景は――それが現実だと知っていたが、それでも夢幻の境界を彷徨っているような感覚にさせる場所だった。未知の植物や菌類が繁殖し、植物が放置されたコンテナや構造物を覆い尽くしている。霧の中では外来生物が徘徊していて、コンテナヤードはその恐ろしげな生物の縄張りになっていた。


 ところで、〈デジマ〉という名前には、どこか歴史的なロマンを感じさせる響きがあった。江戸時代、長崎に設けられた人工島〈でじま〉あるいは、〈でしま〉を意識したこの場所は、かつての外国人居留地のように〈異星生物〉の隔離区域となっていた。そこは現在、文明崩壊後の世界の多くの場所と同様、危険に満ちた場所になっていた。


 ホロスクリーンには、浮遊島〈デジマ〉の詳細な情報と、先ほどの調査結果が映し出されていた。あらゆる情報に目を通しながら、どのようにしてコンテナヤードの侵略的外来生物を駆除するのか考える。


 スクリーンには〈デジマ〉の地図だけでなく、コンテナヤードに生息する〈異星生物〉の情報が色分けされて表示されている。赤く表示された生物は特に危険度が高いことを示していて、対処の優先順位が分かりやすくなっていた。これらの捕食者は生息範囲が広く、胞子が舞う汚染された環境に適応していることが分かる。


 コンテナヤードの地図を拡大表示する。捕食者の動きを捉えていたセンサーのデータがリアルタイムで更新されているのを確認したあと、繁殖する未知の植物が赤色の線で縁取られ誇張されていくのを眺める。外来生物の防除、あるいは駆除のためのセキュリティシステムが起動していたが、それだけでは根本的な解決にはならないことは明白だった。


 背後から扉の開く音が聞こえてきたかと思うと、ペパーミントとテンタシオン、それに〈顔のない子供たち〉のひとり‶イソラ〟が入ってくるのが見えた。なぜか彼女もヘッドセットを装着していて、半透明の黒いスキンスーツに身を包んでいた。青色のホロライトが明滅する特徴的な白いジャケットを身につけていたが、それでも目のやり場に困る。


「それで、大丈夫なの?」と、彼女は心配そうな表情を見せる。

離脱ジャック・アウトの影響は出てない?」


「ああ、大丈夫だ。それより、その格好は?」

「これ?」と、彼女は無意識に両手でジャケットを広げる。


 ペパーミントの大きな乳房と乳輪がハッキリと見えたが、何も見えなかったかのように振舞うため、すぐにホロスクリーンに視線を移す。彼女も自分がしたことに驚いているのか、顔を赤くして俯く。


「それで……その格好は?」スクリーンを見つめたまま生真面目な顔で質問する。


「私も〈電脳空間〉に没入ジャック・インしてたの。ほら、端末を使って操作するより、〈電脳空間〉に接続して直接システムを操作したほうが、ずっと効率がいいでしょ?」まくし立てるような早口でそう言うと、彼女はホロスクリーンを指差した。「それより、これを見て」


 そこには、あの奇妙な植物が捕食者の死骸を苗床にして繁殖している様子と、それらの植物をむさぼっている捕食者の幼体が映し出されていた。それは〈コムラサキ〉の目を通して実際に〈デジマ〉で目にしていた不気味な光景だったが、遠くから俯瞰して見ると、どこか自然の摂理を感じさせるものがあった。


「これだけ異常な繁殖速度なのに、あの奇妙な植物がコンテナヤードの外に広がらなかったのは、きっと捕食者との間に絶妙な共生関係があったからなんだと思う」


 ペパーミントは説明を続けながら、スクリーンに次々と画像を映し出していく。胞子を放出する菌類と、それを捕食する幼体が複雑に絡み合いながら、共存している様子が詳細に映し出されていく。


「確証はなかったんだけど、駆除作業で捕食者の数が減ると状況は大きく変化した。今、あの奇妙な植物はコンテナヤードだけじゃなくて、ターミナル全体に広がってる」


 スクリーンには赤色の線で縁取られた無数の茂みが表示されていて、植物が拡散していく様子が分かるようになっていた。このまま繁殖をつづければ、制御不能な状況になってしまうだろう。


「……マズいな」思わず声が出た。

「安心して、もう駆除のためのセキュリティシステムは止めた。今は捕食者の幼体が植物を処理してくれている」彼女はそう言いながら、ホログラムで投影されるコンソールを操作しながら周辺一帯の映像を見せてくれる。


「浮遊島の安全を確保するためには、コンテナヤード全体を徹底的に焼き払う必要があるってことか?」


「それもどうだろう……」と彼女は眉を寄せた。

「焼却の際に発生する煙と気流によって、植物の胞子が広範囲にわたって飛び散る可能性があるの。そうなると、コンテナターミナルだけじゃなくて、〈デジマ〉全体に影響を及ぼしかねない」


 我々はしばらくの間、ホロスクリーンに映し出される情報を黙って見つめる。どのように対処するべきか思案に暮れるが、簡単に解決方法は思い浮かばない。もしかしたら、植物と捕食者の共生関係、そしてその微妙なバランスを崩さずに問題を解決するための最善の方法を見つけ出さなければいけないのかもしれない。


「とりあえず……」ペパーミントはイソラと相談したあと、コンソールを操作する。

「捕食者の幼体を利用して、植物が広がらないように管理する方向で動きましょう」


「偵察ドローンや機械人形を利用して、捕食者の幼体を植物まで誘導するのか」

「そういうこと」彼女が新たな指示を入力すると、すぐにシステムが応答し、ドローンと機械人形が次々と動き出すのが見えた。


「それにね、ちょっとした懸念もある」と、彼女は困ったような表情で言う。

「あの胞子は〈コムラサキ〉の身体に侵入して、〈生体素材〉を利用しながら繁殖していた。私たちが生身で探索したら、どんな影響があるのか分からない。だってそうでしょ、たとえ防護服で身を守っていても、絶対に安全だと言い切れないんだから」


「たしかに……」

 生きたまま植物の苗床にされていく感覚に、思わず背筋に冷たいものが走る。

「そうなると、〈ハガネ〉を使った探索も危険だな……」


「ええ、あの胞子を〈ハガネ〉が取り込んだ場合、どんなことになるのか想像できない。〈電脳空間〉を介して遠隔操作してるにもかかわらず、奇妙な幻視を見せるほど強力な力を持ってるんだよ。あれが私たちの想像を超えた生物であることは、もう疑いようのない事実なの」


 するとハクとジュジュが部屋に入ってくるのが見えた。ジュジュはお気に入りのぬいぐるみを抱いたまま、じっと我々のことを見つめたあと、無邪気に駆け寄ってくる。


「ジュジュを連れていくのもやめたほうがいい」と、ペパーミントはジュジュを抱き上げながら言う。「ジュジュたちは〈集合精神ハイブマインド〉でしょ? あの植物の奇妙な力は、ここにいるジュジュだけじゃなくて、種族全体に対して悪い影響を及ぼしてしまう可能性がある」


「それなら、ハクのことも連れていかないほうがいいな……」

 無表情のイソラを抱き寄せているハクを見ながら、そっと溜息をついた。すでに困難な探索になることが予想できたが、これまでの多くの探索がそうだったように、今回も危険は避けられそうになかった。

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