第817話 隔離区画


 建物から出ると、周辺一帯に霧が立ち込めていた。白く濃密な霧は視界を遮っていて、周囲の様子を把握することが難しくなっていた。足元の道路もかろうじて見える程度で、人影はなく、生命の気配も感じられなかった。道路にはゴミひとつなく、六本の脚でカタカタと移動するテンタシオンの足音だけが冷たく響いていた。


 警戒しながら霧の中を進んでいると、突然、空高くそびえる高層建築物が姿をあらわす。巨大な建物が霧の中から浮かび上がる光景に圧倒され、思わず立ち止まる。大部分はブルータリズムの無骨な建物で、冷たいコンクリートと角張った形状が不気味な静寂の中で異様な存在感を放っていた。それらの建物の中には奇妙な外壁を持つモノもあった。


 建物の外壁は深緑色で、洞窟の岩壁のようにゴツゴツしていて、理由は分からなかったが生理的嫌悪感を抱かせた。ヌメリのある壁に触れてみると、温かくて柔らかく、まるで生きているかのようだった。指先で軽く押すと脈打つように痙攣し、内側で何かが動いているかのような感触が伝わってくる。


 視線を上げると、建物の外壁から無数の管が突き出しているのが見えた。ソレは時折、間欠泉のように勢いよく蒸気を吐き出していた。浮遊島全体を覆う奇妙な濃霧は、これらの管から吐き出される蒸気によって形成されるのかもしれない。


 さらに霧が濃くなっていくなか大通りを歩いていると、異質な建物がますます増えていくように感じられた。それぞれが異なる形状と有機的な外壁を持ち、不自然な統一感で立ち並んでいる。まるでこの場所全体が別世界の入り口のように見え、現実世界を侵食する〈混沌の領域〉を思わせる独特な雰囲気が漂っていた。


 建物の間に吹く風の低い音が耳に届き、遠くで何かが軋むような音が響いた。その呼吸音めいた音を聞いていると、浮遊島が生きているかのような錯覚を抱く。霧の中で薄暗い光がちらつき、建物の影が揺れ動く。一瞬、自分が立っている場所がどこなのか見失い、現実の世界にいるのか疑うほどだった。


 今もまだ〈仮想世界メタバース〉のなかにいるのではないのか、という奇妙な感覚と不安が心を締め付けていくなか、ペパーミントが表示してくれていた矢印を頼りに進んでいく。そこでは、旧文明の施設で目にする派手なホログラム広告はほとんど見られなかった。代わりに目に入るのは〈異星生物〉に関する警告だった。


 それらの警告が通りのあちこちに投影され、赤い光が霧のなかで不気味に明滅するのが見えた。〈立入禁止〉や〈異星生物の隔離区域〉といったものから、〈違反者は統治局の法律によって罰せられる〉という文言が、視界の端々でちらついていた。


 大通りは静まり返っていて、呼吸音めいた風の音だけが霧の向こうから聞こえていた。ここでは警備用の機械人形すら姿を見せない。〈異星生物〉が生活する隔離区域が近くにあるので、人類の兵器は容認されなかったのかもしれない。


 霧の中から浮かび上がる建物を観察していると、出入口が見上げるほど高く造られていて、明らかにヒューマンスケールを――人間の尺度を基準とせず、異星生物のための適切な空間規模になるように建設されていることが分かった。その圧倒的なスケール感のなかに立っていると、人類がいかに小さく非力な存在なのか認識することになる。


 それは周囲の建築物だけでなく、歩道の幅や階段の高さにも見られ、あらゆる施設が〈異星生物〉のために設計されていたと一目で分かるようになっていた。それは公園のベンチや街灯の高さからも示唆できた。


 霧が濃くなるなか、建物の壁面が脈打つように痙攣する様子や異質な設備を見ていると、ある種の恐怖を伴う不安感が増していく。冷たい霧に包まれた街は、どうやら本当に〈異星生物〉を隔離するために存在していたようだ。〈廃墟の街〉とは異なる明らかに異様な雰囲気に包まれた街を眺めながら、我々は宇宙港を目指して歩き続けた。


 軍の関係者や浮遊島で働いていた人々の区画を後にし、〈異星生物〉のためだけの区画に足を踏み入れると、周囲の建物に顕著な変化が見られるようになった。旧文明の見慣れた建築物が見られなくなり、街の景観が一変していく。


 まるでアリ塚を思わせる奇妙な構造物が並ぶ場所に出る。泥を円錐状に積み上げたような構造物は、先ほど見た奇妙な建材で築かれていて、表面が絶えず脈動しているのが確認できた。微かに震える壁面は異様な生命感を放ち、ゾッとするような不安感を抱かせる。


 その高さも様々で、ニ、三十メートルのモノから、百から二百メートルを優に超える巨大なモノまで存在していた。〈異星生物〉のために用意された構造物の多くは人間の尺度を遥かに超えていて、あらためてその存在感に驚かされる。


 それらの構造物は色彩豊かで、青碧色せいへきいろの光沢を帯びたモノもあれば、梅紫色に輝くモノも存在し、霧の中で乱反射する光を受けて奇妙な輝きを放っていた。霧が立ち込める中で、それらの建物が放つ色彩は幻想的でありながら、どこか不気味で不安を煽るものだった。


 不意に低く唸るような音が遠くから聞こえてきた。それは巨大な〈異星生物〉が活動しているようにも聞こえたが、なにかの装置から聞こえてくる音なのだろう。この区画にはキュビスム、あるいは抽象芸術を思わせる奇怪な構造体や装置が多く見られ、異世界に迷い込んだような気分にさせた。


 ある通りに差し掛かると、広範囲にわたって水が引かれていて、膝下まで水の中に浸かることになった。足元から感じる水の冷たさが、ガイノイドの感覚センサーを通じてリアルに伝わってくる。


 しかしそれは設備の経年劣化や冠水によるものでもなく、どうやら意図的に水が張られているようだった。水に浸かり苦労しながら通りを進むと、水の中に大きな縦穴があることに気がつく。その穴は地下深くに続いているらしく、水面は暗く、底が見えない。それは吸い込まれるかのような錯覚を引き起こし、見ているだけで不安にさせた。


 穴の縁に近づくと、水面が不気味に揺らぎ、暗い深淵がこちらを覗き込んでいるかのように見えた。その穴の底に何が潜んでいるのか想像するだけで、奇妙な寒気が全身を駆けめぐる。興味深いことに、ガイノイドの身体は感情に反応して鳥肌を立たせるだけでなく、冷や汗で人工皮膚リアルスキンがじっとりと濡れるような感覚すら再現していた。


 水面が揺れると、そこに映りこむ風景や自分の姿が奇妙に歪み、周囲の建物の反射と相まって夢幻的な光景をつくり出していく。


 ふと、縦穴の中で何かが動くのが目に入った。注意深く観察すると、小さな魚が水中を泳いでいるように見えた。透明な体表に青白い光が走り、電光を帯びたような動きを見せていた。しかしそれが光の反射によるモノなのか、それとも本当に魚なのかは分からなかった。


 テンタシオンのセンサーを頼りに進むと、さらに多くの縦穴があらわれ、その数は増えていった。どれも底が見えない暗闇に続いていて、理解できないモノに対する不安が心を掻き乱していく。ガイノイドの身体も敏感に反応していて、全身が警戒モードに入っているのを感じた。


『レイ、目的地を宇宙港に再設定したから地図を確認して』

 ペパーミントの声に反応して地図を表示すると、宇宙港までの移動経路が赤色の線で示されていた。現在地を確認すると、〈第三居住区画〉と表記されていた。無数に存在する底のない穴は、かつて〈異星生物〉の住居として利用されていたモノだったのかもしれない。


 足元に表示される半透明の矢印を見ながら歩いていると、しだいに奇妙な建物は見られなくなり、霧に覆われた広い場所に出たことが分かる。地図を確認すると、すぐ近くに宇宙港に入るためのゲートがあるようだった。

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