第815話 転送


 エレベーターの扉が開くと、何処までもつづく真っ直ぐな廊下が見えた。その廊下の壁や床は金属を思わせる質感と光沢のあるパネルで覆われている。しかしパネルの多くは解像度が低く、全体的にぼやけて見える。天井からは薄暗い光が微かに漏れているが、照明器具は描写されておらず、弱々しい光源だけが不自然に存在している。


 廊下に立って周囲を見回すと、絵画や調度品の類は一切なく、空間全体が冷たく無機質な雰囲気に支配されている。床には絨毯すら敷かれていないが、そもそも音が鳴るように設定されていないのか、ここでは足音が反響するということもない。


 その異質な静寂は、この空間の非現実的な側面を強調し、〈電脳空間サイバースペース〉に没入していることを改めて実感させた。この場所は、ただ廊下として機能するように最低限の情報によって構成されているようだった。建物の外観の壮麗さと比べれば、まさに雲泥の差だ。


 でもとにかく、目的地に向かって歩き出す。案内図もなければ、どこにいるのかを示す標識も存在しないが、ここで迷うことを心配する必要はない。拡張現実で矢印が表示されていて、つねに進むべき方向が示されていたが、それがなくても真直ぐな廊下が続いているだけなので迷うことはない。


 足元に浮かび上がる矢印を眺めながら無機質な廊下を進んでいく。何とはなしに壁面パネルに触れてみると、ざらざらとした感触がした。一見すれば傷ひとつない滑らかなパネルだったが、触覚情報が欠損しているのかもしれない。その壁面パネルを注意深く観察すると、不揃いに組み上げられていて、壁を構成する情報が出鱈目でたらめなことが分かる。


 やがて重厚な扉が見えてきた。その扉の先は、一般的に利用されていた大衆向けの〈電脳空間〉にではなく、軍によって管理されていた〈電脳空間〉に没入するための中継地点になっているようだ。


 詳しい理屈は分からないが、〈電脳空間〉をある種の基本ソフトウェアとして捉えるなら、〈仮想空間〉はそのシステム内で動作するアプリケーションのようなものだと例えることができる。


 そのソフトウェアの規格で動作するアプリなら、凄腕のハッカー集団〈ネットランナー〉たちによって違法行為が行われる〈暗黒空間ダークバース〉と呼ばれるような空間にすらアクセスすることができるが、浮遊島に関連するシステムにアクセスするには、軍によって管理される〈電脳空間〉に没入する必要があった。


 ちなみに〈暗黒空間〉は〈電脳空間〉の限られた領域内に存在するアンダーグラウンドの名称であり、〈仮想空間〉よりも深い場所に存在している。その多くが存在そのものを秘匿されていて、アクセスするには特別なプログラムや技術が必要で、ダークウェブのように通常の手段ではアクセスできない場所になっている。


 それらの世界では、あらゆる種類のサイバー犯罪が公然と行われるだけでなく、武器やキラーウイルスの密売、児童の性的搾取や臓器売買、それに軍用の違法サイバネティクスの取引も行われていたという。


『レイ、転送の準備ができたよ』

 ペパーミントの声が内耳に聞こえると同時に、目の前の扉が音もなく開いていく。その動きに連動するかのように、廊下全体にノイズのような波紋が広がり、世界の存在そのものが揺らいでいくように見えた。プログラムのバグのように、システム全体が不安定な状態になっているのかもしれない。


『大丈夫、この世界は消えたりしないから扉の先に進んで』

 彼女の指示に従い我々は扉の先に踏み出す。すると視界が暗転するのが分かった。それはまばたきの間の出来事だったが、意識を引っ張られるような奇妙な感覚に襲われ、自分自身の存在を一瞬だけ見失う。


 視界が正常になると、何もない空間に立っていることに気がつく。足元には青色のワイヤーフレームで構成された床が広がり、その淡い輝きが暗闇を僅かに照らしている。フレームが交差する青色の線が無限に続いているように見えるが、周囲には何も存在しない。


 現実感を欠いた虚無の空間で、その床は唯一存在感があるモノだった。青色の四角い光線が規則正しく並んでいる光景はどこか冷たく、無機質でありながらも美しいが、出口のない世界に放り込まれたかのような錯覚に陥る。ためしに咳払いしてみたが、ここでも音声に関する設定が行われていないのか、音が一切聞こえなかった。


 となりに視線を向けると、テンタシオンの〈アイコン〉がすぐ近くに立っていることに気がつく。紙でつくられた人形ひとがたを思わせる造形は頼りなく感じられたが、今は仲間がそばにいるという事実に安心感を抱いていた。


 やがて目の前に扉が出現する。それは何の前兆もなく突然あらわれたが、この世界では極自然な現象のように感じられた。その扉が我々を目的の場所に転送するための役割をもっていることを直感的に理解した。扉は青白く輝くフレームで構成されていて、扉の先も真っ白に輝いていて、その先に何があるのかは確認できない。


 扉に向かって一歩、また一歩と進むごとに、足元のワイヤーフレームが振動し、その振動が不安定な〈アイコン〉に伝わってくるようだった。そしてまた別の世界に続く扉のなかに足を踏み入れる。


 微かな肌寒さを感じながらまぶたを開く。徐々に視界がハッキリしてくるが、意識は曖昧で、現実とも仮想世界とも異なる奇妙な感覚に支配されていた。


 どうやら仰向けの姿勢で眠っていたようだ。目の前には素通しのガラスがあり、その向こうに無数の照明パネルが設置された高い天井が見える。頭を動かそうとすると、空気が抜けるような音が聞こえ、目の前のガラスが左右に展開していくのが見えた。


 ゆっくり上半身を起こすと、睡眠カプセルらしきモノのなかで眠っていたことに気がつく。カプセルの内部には柔らかなクッションが敷かれていて、指先に心地いい感触がある。周囲を見回すと、似たような睡眠カプセルが数え切れないほど設置されているのが確認できた。


 どこからともなく機械のノイズ音が聞こえてくる。身体を動かすと、しっかりとした重力も感じられたが、あまりにも現実的な世界を体験してきた所為で、それが本物の世界なのか判断できずにいた。それに身体の感覚も奇妙だったが、すぐに理由が判明する。


 どうやら一般的な機械人形にではなく、生体素材バイオマテリアルを使用した義体に転送されたようだ。身体を動かすたびに生体パーツがスムーズに動いて、機械的なぎこちなさは一切感じられなかった。人工皮膚リアルスキンは驚くほど自然で、人間の身体に限りなく近い感覚だった。しかし目の前のガラスに映り込む自分自身の姿は、想像していた姿とは異なっていた。


 そこに映っていたのは下着姿の美しい女性だった。肌は絹のように滑らかで光沢があり、艶やかな黒髪は長く、天使の輪を思わせる光を反射している。傷ひとつない手のひらを見つめたあと、長い指を動かす。それは完璧に調和の取れた動きを見せた。その指で顔に触れると、柔らかな頬と滑らかな肌の感触が伝わってくる。


 戦闘用に改造されたガイノイド〈コムラサキ〉に意識が転送されていたようだ。その事実に混乱するが、ゆっくり深呼吸して現実を受け入れる。そもそも呼吸する必要があるのかも分からないが、とにかく気持ちを落ち着かせようとする。


 一息ついたあと、ゆっくり睡眠カプセルから出て床に立つ。足裏に現実的な硬さと冷たさが伝わってくる。その感覚もまた生体パーツによって忠実に再現されたモノなのだろう。どこまでが現実で、どこからが仮想なのか、それを確かめる術はない。ただこの新しい身体の感覚に慣れようと意識を集中する。ふと視線を落とすと、豊かな乳房が目についた。


 もちろんそれはただの知的好奇心で、それ以外の意味はなかったが、大きな胸を鷲掴みにしようとする。ペパーミントの声が内耳に聞こえたのは、ちょうど指先が胸に触れようとしたときだった。


『問題なく転送できたみたいね。遠隔操作の感覚はどう?』

「とくに問題ないよ」早口で答えたあと、自分の声に驚く。


 それは優しくてフワッとした声だった。喉の奥にフワフワした羽毛が生えていて、そこを通って出てきたのかと思ったほどだった。実際には普通の声だったのかもしれないが、身体の変化に興奮していたからなのか、何もかも大袈裟に感じられた。


『そう、それなら良かった』とペパーミントは続ける。『レイの身体的感覚に近い機体がなかったから、軍用に改良された〈コムラサキ〉に意識を転送したけど、それで正解だったみたいね』


 彼女の言葉のあと、睡眠カプセルのコンソールパネルから合成音声が聞こえてくる。どうやら意識の転送は正常に行われ、〈コムラサキ〉の身体にも異常はみられないという。


「それで……俺は現実の世界にいるのか? それとも――」

『間違いなく現実の世界だよ。レイの意識は浮遊島に配備されている〈コムラサキ〉に繋がっていて、遠隔操作のためのシステムも正常に機能していることが確認できた』


 彼女の言葉にうなずいたあと、何か身につけるものを手に入れるために歩き出した。〈ハガネ〉に体温を管理されることに慣れてしまっているからなのか、今は震えるほど寒かった。

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