第814話 仮想空間


 カウントダウンが終わると同時に眩い光が明滅し、徐々に視界が暗転していく。そして精神だけが身体を離れ、底のない暗闇に向かってストンと落ちていくような、奇妙な浮遊感に襲われる。


 しかし意識すれば、本来の肉体がすぐそこにあることも感じられる。その気になれば、イスから立ち上がることもできるかもしれない。けれど今は〈電脳空間サイバースペース〉に没入する感覚に身を委ねる。


 真っ暗な空間に落下していく。その場所では、私という存在は希薄であり、今にも何もない闇のなかに溶け込むほど弱々しいものに感じられたが、すぐに〈アイコン〉が――あるいは〈アバター〉が用意されるため己の存在を見失うことはない。


 ソレは自分自身の姿をした〈アイコン〉だったが、半透明で、明らかに情報量が少ないモノだった。もちろん、〈電脳空間〉では己の姿を完璧に再現することもできるし、理想の姿になることも可能だった。この場所が大衆の娯楽の場になっていたことは知っていたが、遊びにきているわけではないので〈アイコン〉にこだわる必要はなかった。


 その真っ暗な空間に膨大な情報が流入してくるのが見えた。それは幾億の単後であり、意味のない画像や動画の断片でもあり、ライブラリから無作為に抽出された情報の羅列だった。それらの膨大な情報が真っ暗な空間で結合し、意味のあるデータを形成していく。


 やがて空間全体に〝光〟が生じると同時に、目の前の光景が鮮明になっていく。最初に目にしたのは、どこまでも広がる青空と輝く太陽、そして眼下にある広大な街並みだった。それは現実のものと寸分違わぬほど詳細に再現された〈仮想空間メタバース〉の一部であり、建物ひとつひとつ、通りに立つ樹木の一本一本が、膨大な情報によって精緻に再現されている。


 その広大な街に向かって自由落下を続けながら、〈仮想空間〉を観察していく。見渡す限りの高層建築群と、通りに整然と並ぶ住宅街、そして小さな公園や広場。それらすべてが現実と見紛うばかりの存在感を持っていた。


 だがその街に人の姿は見られない。〈電脳空間〉に没入している他の〈アイコン〉も存在せず、人工知能によって生み出された〈アイコン〉も見かけない。仮想の世界に漂う奇妙な静寂は、まるで現実の〈廃墟の街〉を思わせるものだった。


 言葉通りの意味で〈電脳空間〉には、このような〈仮想空間〉が無限に存在している。かつて人々は思い思いの世界で自由に過ごし、己の理想を具現化した世界を創造することができた。だがその栄光の日々は遠い過去のものとなり、この世界に人々の賑わいはなく、ただ膨大な情報によって精密に再現された無人の世界が広がっているだけだった。


 どこを見ても絵画から切り取られたような風景を目にすることができたが、作為的な芸術性を含んだ完璧さが逆に街の異質さを際立たせていた。街角のカフェ、ショーウィンドウに並ぶ商品、歩道に射す光と影。すべてが緻密に描かれた美しさに満ちていたが、人の気配がまったく感じられないことで、どこか背筋が凍るような薄ら寒さを感じる。


 自由落下を続けていたが徐々に減速し、その幽霊都市ゴーストタウンの一角に降り立つ。やはり標準的大都市を参考に人工知能によって構築されたもので、どこまでも現実的な街並みが広がっている。しゃがみ込んでザラザラした感触のあるアスファルトに触れたあと、高層建築群が立ち並ぶ整然とした通りに視線を向ける。


 すると半透明の幽霊を思わせる人影が近づいてくるのが見えた。この〈仮想空間〉で初めて見る〈アイコン〉だった。それは人の形をしていたが、つねに熱を持たない炎に包まれているようだった。それ以外の情報はなく、真っ白な紙でつくられた人形ひとがたを思わせた。その奇妙な〈アイコン〉は、私の目の前で立ち止まると堅苦しい敬礼をしてみせた。


「もしかして、テンタシオンなのか?」

 その人形は姿勢を正したままコクリとうなずいて見せた。どうやらそれがテンタシオンの〈アイコン〉のようだった。


 たとえ人工知能であっても――没入のさいに使用する端末の能力が許す限り、この世界ではどんな姿かたちにも〈アイコン〉をカスタムすることができた。しかしテンタシオンもこの世界に来た理由を理解していた。任務に支障をきたすようなことはしない。それに、この世界には我々しかいない。特徴的な〈アイコン〉を作成する必要はなかった。


 ふたりで大通りに出ると、旧文明のきらびやかな街並みを目にする。高層建築群のガラスに反射する光によって、街全体が宝石箱のように煌めいて見える。あちこちでホログラムの広告が投影されていて、〈アイコン〉のための衣装やパーツの宣伝が行われている。


 ハイパービルディングの壁面に投影された巨大なホロスクリーンでは、最新の〈アイコン〉カスタマイズオプションが紹介されていた。


 自分自身の〈アイコン〉をデザインするためのセンスや、端末の処理能力がなくてもカスタムメイドの〈アイコン〉を組めるように、企業所有の人工知能のデザイナーが用意したパーツや衣装が販売されていた。


 瞳の色や肌の色、身長や体格、乳房の大きさやペニスの形までも自在に選択できるようになっていた。資金に余裕がある人々には、さらに豪華なオプションが用意されていて、まるで本物の肉体を作り替えるような感覚で自分の〈アイコン〉をデザインすることができた。


 もちろん、〈アイコン〉以外にも複数の選択肢がある。仮想世界内での住居や土地、それに世界そのものも販売されていて、企業や国家が所有する〈仮想空間〉も存在するようだ。


 この仮想の世界では様々な〝体験〟を手に入れることができる。宇宙をまたにかける冒険家になり、スペースオペラな世界を体験することもできれば、魔法や異種族が存在する異世界で生きることもできる。人々は〈仮想空間〉で自分が望むどんな姿にも、どんな存在にもなれる。その気になれば、自ら創造した世界や体験を販売することもできる。


 それは魅力的な世界に見えたが、この〈仮想空間〉がそのようにデザインされているからなのだろう。現実世界のように無法者たちが好む世界も存在し、そこでは違法とされる体験や企業の機密情報、そして他者やシステムを攻撃できるキラーウイルスなどが販売されている。


 大量の広告と煌びやかな街並みの中を歩きながら、旧文明の人々がこれらの〈仮想空間〉を利用して、どのように生きていたのか想像する。現実世界では叶わない夢が、ここでは簡単に実現できる。しかしそれはデジタルの幻に過ぎない。しかし現実と虚構の境界線は極めて曖昧なものになっていたので、それを幻と言い切ることはできないのかもしれない。


 〈電脳空間〉では誰にでも人生をより良くするチャンスがあった。〝すべての人に平等な世界〟を、それがこの〈仮想空間〉の謳い文句だったが、しかし果たして本当にそうなのだろうか。


 そもそも〈電脳空間〉に没入する環境すら持たない人間は、その平等とやらのスタート地点に立つことすらできなかった。しかしそれと同時に、その環境を手に入れることができれば、人生の可能性が広がるということも事実だった。


 たとえば現実の世界で生産工場を持たなくても、ある程度の技術とセンスがあれば、いくらでも製品をつくり出すことができたし電子貨幣クレジットを稼ぐことができた。〈仮想空間〉の商品に価値がないと言う人間は存在しない。それはきっと、人が体験する情報のすべてが現実のモノとして受け止められていたからなのだろう。


 この世界で得られる疑似体験は我々の知覚に影響を与え、実際に体験したことと同じように精神に影響を与える。肉体を介して得られる現実の感覚や情報に基づいて精神が構築されていくように、それが非現実的で仮想的な体験であったとしても、精神に及ぼす影響は同じであり、脳という器官で情報を得ている限り、それはいつの時代も変わらない。


 そうであるなら、人々はどこで現実と虚構の世界を区別していたのだろうか。技術の進歩によって人々の精神が徐々に変化――あるいは進化していったように、自然と〈仮想空間〉を受け入れ、現実と区別するようになったのだろうか。


 考えに耽っていると、ペパーミントの声が内耳に聞こえる。

『レイ、こっちの準備は整ったよ。これから軍のネットワークに侵入するための足掛かりを構築する。そのために企業のシステムに接続する必要があるから、目的地に転送するね』


 まばたきするように目の前がふっと暗くなり、次の瞬間、我々は巨大な建物の前に移動していた。どうやら〈葦火建設〉が所有する建物のようだ。そのハイパービルディングは圧倒的な存在感を放っていた。


 建物の中身は空っぽなのかもしれないが、その造形は凄まじく現実的で、膨大な情報によってレンダリングされていることが一目で分かった。もちろん触覚データも含まれていて、建築の壁面に触れると金属の硬さだけでなく冷たさも感じることができた。


『今から入り口を開放するから、ちょっと待ってて』

 ペパーミントがシステムに侵入している間、テンタシオンと一緒に建物の外観を詳しく観察していくことにした。


 この世界では重力も思いのままだったので、空を飛ぶように建物の近くで観察することができた。コンクリートとガラスとで構築された建物は、無骨で無機質ながらも美しい。空を仰ぎ見ると、建物が雲を突き抜けるように何処までもそびえ立ち、その壮大さに圧倒されてしまう。


『レイ、すぐに入り口が開く』

 彼女の声が聞こえると同時に、入り口の扉が静かに開いていく。内部の暗闇が徐々に明るさを取り戻し、広大なエントランスホールが姿をあらわした。


 企業の宣伝を兼ねているのか、豪奢なホールは広々としていて無数のホロスクリーンが投影されていた。企業のロゴや広告が映し出されていて、床は大理石のように輝き、足音が静かに反響した。


「それで、つぎはどこに向かうんだ?」

『セキュリティセンターだよ。そこから軍のネットワークに侵入する』

「了解、そこまで案内してくれ」

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