第813話 ジャック・イン


 建物内の環境は、それまでと異なる様相を呈していた。真っ白な空間に足を踏み入れると、目の前の光景に一瞬息を呑んだ。壁や床はもちろん、天井から降りそそぐ淡い光まで白色を帯びていて、〈空間拡張〉された無限の空間に足を踏み入れたような錯覚に陥った。


 そこには柱を思わせる半透明の水槽が整然と並び、その中で透明な液体が流れているのが確認できた。液体は静かに循環し、時折微細な泡が立つ様子が見られた。それぞれの水槽は、まるで回路基板のように精密で無駄なく配置されていて、人々を惑わす回廊のようだった。それらの柱を仰ぎ見ながら歩いていると、長方形の水槽が見えてくる。


 それは液体で満たされていたが、底が見えないほど深くなっていて、そのなかを泳ぐ何かの残像を見た気がしたが、気のせいだったのかもしれない。いずれにせよ、この空間は人間味のない、どこか実験室のような冷たさが感じられた。清潔で快適だけれど、液体が循環する透明な柱以外に何も見つけられない。


 耳鳴りさえ感じるほどの静寂が空間全体に満ちていて、液体の流れる小さな音だけが微かに聞こえてくる。しばらくの間、その無機質な白い光に包まれた空間に立ち尽くしていたが、やがて拡張現実で表示されている矢印に気がついた。青色の矢印が宙に浮かび、ゆっくりと点滅しながら進むべき方向を示してくれている。


 ハクとジュジュに声を掛けたあと、テンタシオンを連れて回廊じみた柱の間を進む。白い壁が見えてきたかと思うと、それは我々の動きに反応して自動的に開閉し、上階に続く階段が見えてくる。エレベーターでも、〈重力リフト〉でもなく、なぜか階段が設置されていた。


 ジュジュを背にのせたハクは、真っ白な照明で煌々と照らされた階段を――まるで白い光の中に溶け込んでいくように上っていく。


 上階も同じような光景が広がっていた。液体が循環する謎の柱は階下と繋がっているのか、ここでも同様の構造が見られた。柱の内部で透明な液体がゆっくりと流れ、きめ細かい泡が立ち昇って不規則に揺れる。ハクたちも水槽の中身が気になるのか、何度か立ち止まっては大きな眼で覗き込んでいた。


 やがて床に無数の水槽が設置された場所に出る。その水槽の中でも、あの奇妙な液体が複雑な渦を描くように循環している様子が見られた。


「レイ!」

 水槽を眺めながら歩いていると、前方からペパーミントの声が聞こえる。彼女のとなりには〈顔のない子供たち〉のイソラが立っていて、ホログラムディスプレイを操作していたが、ハクたちの到着に気がつくと顔を上げて微笑んでみせた。幼く無邪気な笑顔を見ていると――たとえ作り物の笑顔だったとしても、普通の子どもと変わらないように思えた。


「それで――」と彼女は目を細め、腰に手をあてながら言う。

「ここに来るまで、何も問題は起きなかった?」


 カグヤがフクロウ男のことを報告していたのだろう。

「ああ、問題ないよ。幻覚の類は見ていない。それより、この水槽の中身は?」


 彼女はちらりと水槽に視線を向けると、トテトテと駆けていたジュジュを捕まえる。危うく水槽の中に飛び込むところだった。小さな昆虫種族は彼女の顔を見上げたあと、安心したように腕の中でじっとする。


「これは一種の記憶媒体として機能する装置だけど、中身はただの水だよ」

「水?」彼女の言葉に思わず眉を寄せる。


「そう。ただの水だけど、旧文明の技術によって石英ガラス(クリスタル・チップ)のように情報を保存できるようになってる」とペパーミントは説明を続ける。彼女に抱きあげられていたジュジュは、小さな口吻をカチカチと鳴らしながら水槽を見つめる。


 その視線を追うように、透明な液体が渦を巻く水槽を見つめる。その中に浮かぶ泡が照明に反射してキラキラと輝いている。水には様々な情報を記憶する能力があると知られていたし、簡単な情報を記録する技術は科学的にも存在していたが、それがこれほど大規模な施設で実用化されているとは思ってもみなかった。


「つまりこの建物は、情報交換を行う巨大なデータセンターでもあるのか?」

「そういうこと。この場所には旧文明の膨大な情報が詰まっている。たとえば、ここにある水槽のひとつひとつが、ファイルサーバーとしての機能をもっている」


 ペパーミントがぬいぐるみめいた昆虫種族を地面におろすと、ジュジュはトテトテと小走りで水槽の近くにいるハクのもとに向かう。個性を持たないはずの〈集合精神ハイブマインド〉だったが、あのジュジュはハクのそばを離れようとしなかった。


 それから彼女はホログラムディスプレイを操作していたイソラに声をかける。人造人間に見えない少年は無言で応じ、淡々とホロスクリーンを消していく。


「ついてきて」

 ペパーミントはそう言うと、先導するように真っ白な空間に向かって歩いていく。


 我々は静寂の中を歩いて無数の柱の間を抜けていく。時折、壁や天井からホログラムが浮かび上がり、膨大な情報の羅列を表示していく。それがどのような意味合いを持っているのかは分からなかったが、旧文明の情報が含まれていてもおかしくない。あるいは、施設内の情報を表示しているだけなのかもしれない。


 しばらく歩くと、ペパーミントは扉の前で立ち止まった。そこには日本語で〈電脳空間接続室〉のホログラムが投影されていた。堅苦しい表記が実にソレっぽい場所になっていた。


「ここが目的の部屋だよ。この施設の情報処理能力を使って、軍が利用していた〈電脳空間〉に侵入する」


 真っ白な部屋の中には、角張った巨大な装置が複数設置されていた。複雑な配線とパネルが壁一面に広がり、その中央には手術台を思わせるイスが設置されている。そのイスにはヘッドセットや各種センサーが取り付けられていて、いかにも〈電脳空間サイバースペース〉に没入ジャック・インするための専用の装置を思わせた。


 その〈電脳空間〉に入る前に、ペパーミントは慎重にシステムの接続先を確認していく。ホロスクリーンに表示された地図上にマーカーがあらわれて、点滅しながら目標の位置を示していく。それは太平洋のどこかの地点だったが、文字情報が少なすぎて位置を特定することは難しかった。


 どうやらフクロウ男との接触で入手していたファイルが、その場所へのアクセスキーとして機能しているようだ。我々は情報の真偽を確かめるため、〈電脳空間〉を介して浮遊島内に設置されている機械人形に接続し、この場所から遠隔操作で情報を収集するようだ。


 彼女はイソラと一緒に手際よくデータを入力し、浮遊島への接続を確立していく。その間、ホロスクリーンには浮遊島の再現映像が映し出され、リアルタイムで更新されていく。霧に覆われた島全体がネットワークで繋がれていて、無数の機械人形が配備されていることが分かる。


「準備ができたら、そこに置いてあるヘッドセットを装着して。〈電脳空間〉に入るためのカウントダウンを始めるから」


 イスに座ってヘッドセットを装着する直前、ふと不安が頭をよぎる。

「この〈電脳空間〉に侵入するのって、安全なのか?」


「軍だけじゃなくて一般大衆にも普及していた技術だから、基本的に安全性は保障されている。でも――」と、彼女はホロスクリーンに手を伸ばしながら言う。「システムを安定化させるために、今回はテンタシオンも一緒に〈電脳空間〉に侵入することになる。カグヤと彼のサポートがあれば、リスクは最小限に抑えられると思う」


 テンタシオンは機体からではなく、球体型の本体からケーブルを伸ばして装置に接続する。その装置は不正アクセスに対して反撃が行われた場合、〈電脳空間〉に接続している者を守るための防壁として機能するようだ。


 その装置から準備完了を知らせる短い電子音が聞こえると、妙に機械的なヘッドセットを慎重に装着した。目の前の装置から発せられる光から目を保護するレンズが展開されると、視界が暗転し、カウントダウンの数字が浮かび上がる。三、二、一。

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