第811話 食堂


 底知れない恐怖と果てのない暗闇に落下していく感覚に囚われた。まるで全身が虚無に引き込まれ、存在そのものが消失しまうかのようだった。心臓の鼓動が耳元で響き、冷たい汗が背筋を伝う。全身の血が凍えるような寒さに襲われるが、次の瞬間、唐突に〝現実〟の世界に戻ってきた。


 気がつくと生産拠点の廊下に立っていた。無機質な壁面パネルに囲まれた廊下で弱々しく明滅する非常灯と乱雑に並んだ配管、そして遠くから聞こえる機械の唸りが現実世界にいることを実感させた。あの奇妙な空間を脱出し、元の場所に戻ってこられたのだろうか。


 赤い非常灯に照らし出されるように、腐りながら昆虫に喰われていくフクロウ男の死骸を見た気がした。それはあまりにも現実味を帯びていて、吐き気を催す腐臭が鼻腔を刺激するほどだった。しかしソレは錯覚だったのだろう。実際には何の異臭もなく、異様な体験の残滓が頭のなかに残っているに過ぎなかった。


 ふと〈クリスタル・チップ〉のことを思い出し、手を開いてみた。しかしそこにあるのは握り潰されたゼリー状の気色悪い物体だけだった。それは手のひらからボロボロと崩れ落ち、床に吸い込まれるように消えていった。


 フクロウ男の言葉、そして奇妙な世界の幻影が脳裏をよぎる。生産拠点の廊下に戻ってきたのは現実なのか、それともまだ幻覚を見ているのだろうか。疑念が頭をもたげるが、今はそれを確かめる術はなかった。冷たい金属の壁にもたれながら、深呼吸を繰り返す。心拍が徐々に落ち着いていく過程で、何をするべきなのか思い出す。


「カグヤ、俺の声が聞こえるか」

 寒さの所為なのか、声はまだ微かに震えていた。


『聞こえてるけど、いきなりどうしたの?』すぐに彼女の声が内耳に聞こえる。

「俺の生体情報をモニターしていたはずだ。何か異常はなかったか?」


『ちょっと待ってね……ううん、ログに異常は見当たらない。ただ、一時的に心拍数が上昇したみいたいだけど、それ以外は正常だよ』


 彼女のいつもと変わらない態度のおかげなのか、周囲の音が徐々に鮮明になり、施設内の機械音や遠くから微かに聞こえていた砂嵐の音も認識できるようになった。廊下の無機質な様子も明確になり、ぼやけていた視界がハッキリしていく。


『ねぇ、レイ。なにか問題が起きたの?』

 カグヤの心配そうな声に反応して気を取り直す。


「いつもの白日夢か幻覚の類だと思っていたけど、どうも今回は様子が違うようだ」

 それから慎重に言葉を選びながら、なにが起きたのか説明することにした。あの不思議な部屋のことやフクロウ男との邂逅、そして〈クリスタル・チップ〉を手に入れたことを思い出せる限り丁寧に話した。


「けどチップは得体の知れない物体に変わって消えていった」

『たしかに奇妙なことだね……でも、石英の記憶媒体が消えることなんてあるのかな?』


 気になることがあるのか、彼女は〈データベース〉を使って調べることにしたようだ。

『ちょっと待ってね、個人情報にアクセスしてストレージに変化がないか確認する』


 しばらく沈黙が続いた。その間に廊下を進み、周囲の異常な静けさに耳を傾けた。

『見つけたよ』と、彼女の声が聞こえる。『〈データベース〉によると、レイの管理者権限が更新されて、以前はアクセスできなかった情報の閲覧が可能になってる。それとね、ストレージにファイルが追加されたみたい。そのファイルを開くにはレイの許可が必要になるけど――』


「つまり」と、彼女の言葉を遮りながら言う。「あの奇妙な体験はただの幻覚ではなく、現実に何か影響を与えたということか……アクセスを許可するから、すぐにそのファイルを調べてくれないか。フクロウ男との出会いが何を意味するのか知りたい」


『了解、すぐに始めるよ。でもファイルの解析に少し時間がかかるかもしれないから、ハクたちがイタズラしてないか見にいってきて』


 カグヤがファイルを調べてくれている間、本来の目的だった食堂に向かうことにした。拡張現実で半透明の矢印が浮かび上がると、その矢印に従って暗い廊下を進んでいく。あの奇妙な空間の影響は弱まってきているのか、背筋が冷たくなるような恐怖を感じることはなくなっていた。


 やがて食堂に続く扉が見えてきた。食堂は――工場の母屋と比較すれば、それほど広くない空間になっていた。食堂には必要最低限の設備しかなかった。人間の作業員が少ないためか、テーブルとイスがいくつか並べられているだけで、無駄なモノは一切なかった。


 食堂の隅には食品を販売する自動販売機が設置されていた。それは〈フードディスペンサー〉として機能するモノなので、食料や栄養補給に必要なプロテインを手軽に合成することができた。ちなみに自動販売機は戦闘艦の倉庫から運び込まれたものだったので、電子貨幣クレジットがなくても誰でも利用することができた。


 砂嵐が来ているからなのか、食堂の空気は緊張感と不安に満ちていた。鳥籠〈紅蓮ホンリェン〉から派遣されていた作業員たちは、不安そうに小声で言葉を交わしながら、非常灯の赤い薄明りの中で食事を取っていた。


 その食堂を見回してハクたちの姿を探していると、ジュジュたちがワラワラと食堂に入ってくるのが見えた。どうやら生産拠点にもジュジュたちの群れがいるようだ。幼い子どもほどの体高しかない小さな昆虫種族は、自動販売機に向かってトテトテと小走りで駆けていく。


 そのジュジュたちと視線が合うと、急に小さな軍隊のように整然とした動きを見せる。先頭を歩く個体が動きを止めると、後続のジュジュもピタリと動きを止める。その動きはまるで訓練された兵士のようだった。先頭の個体が自動販売機の目の前で止まると、すぐに別のジュジュが肩によじ登り、また別の個体が肩によじ登っていく。


 そして自動販売機のタッチパネルに手が届く高さになると、器用にパネルを操作し始めた。小さな指で画面を押しながらメニューを操作している姿は、人間の子どもが無邪気に遊んでいるようでもあった。その動きは拙いが、欲しいモノを迷いなく選び出す。


 やがて自動販売機から食品が出てくると、彼らは歓声を上げるようにカチカチと口吻こうふんを鳴らし、小さな羽を震わせて重低音な羽音を立てる。〈フードディスペンサー〉で合成される食品には、旧文明の〈国民栄養食〉に含まれる原料が使われていた。


 それは彼らの主食でもある〈白蛆の祝福〉とも呼ばれる食物の成分に酷似しているため、ジュジュも美味しく食べることができるのだろう。クッキーやらケーキを手に入れて、ひとしきりはしゃいだあと、ふたたびジュジュたちは整然とした動きで食堂を出ていく。


 幼い子どものようなジュジュたちの様子を見て、作業員たちの表情には笑みが浮かんでいた。無害な昆虫種族の可愛らしい行動は、砂嵐の不安のなか、ひとときの癒しをもたらしてくれた。ジュジュたちの小さな身体が動き回り、互いに協力し合う姿は誰にとって心温まる光景なのかもしれない。


 そのジュジュたちと入れ替わるようにしてハクたちがやってくるのが見えた。どうやら食堂にジュジュの群れを連れてきたのはハクたちだったようだ。テンタシオンに声を掛けて、ハクたちを見つけてきてくれたことに感謝した。かれが迎えに行かなければ、ハクたちは砂嵐に巻き込まれていたかもしれない。


 ハクの背に乗るジュジュもクッキーが欲しくなったのか、しきりに自動販売機を指差すようになったので、ついでに軽食をとることにした。


 自動販売機の前に立つと、ハクとジュジュが欲しいモノをく。ジュジュは自分でタッチパネルを押したかったので、わざわざ抱き上げる必要があった。機械は静かに動作し、しばらくして合成された食品が出てきた。それを手に取り、空いているテーブルに向かう。


 ジュジュはハクの背から飛び降りると、手に入れたクッキーの小箱を大事そうに抱え、イスによじ登ってからテーブルに飛び乗る。それから小さな手でクッキーを取り出して、クッキーの端をそっとかじる。その動作は非常に慎重で、ひと口ひと口を楽しむかのように、時間をかけてゆっくり食べ進める。


 小さな口吻がモサモサと動くたびに、クッキーの欠片がポロポロとこぼれ落ちる。テーブルにはクッキーの細かな破片が散らばり、ソレがモフモフの体毛に絡みついていく。しかしジュジュはクッキーを食べることに一生懸命になっていて、そのことに気がついていなかった。


 ジュジュたちが食べる様子を見ながら、先ほどの出来事を頭の中で整理しようとする。フクロウ男との奇妙な会話、そして消失した〈クリスタル・チップ〉と、それが現実に与えるかもしれない影響について考える。

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