第809話 待ち人〈異界〉
ひとりで閉鎖された施設の薄暗い通路を歩いた。遠くから微かに砂嵐の低い音が響いてくる。まるで巨大な獣が唸り声をあげながら、ゆっくり近づいてくるような恐怖を伴う音だった。薄闇のなか、非常灯の赤い光だけが弱々しく通路を照らし、天井から垂れ下がるケーブルや配管が通路に不気味な影を落としているのが見えた。
迫りくる砂嵐に怯え、音を立てないように施設全体が息を潜めているように感じられた。暗い通路に生命の気配をなく、ただ陰鬱な静寂が支配している。足音ひとつ響かないその空間のなか、私は薄暗い通路を進んだ。やがて目の前に、わずかに開いた扉が見えてきた。
近づくと扉は音もなく開いたが、ぼんやりとした明かりは消えていた。その場所には非常灯の弱々しい光もなく、ただ漆黒の暗闇が広がるばかりだった。それは何ひとつとして識別することのできない暗闇であり、形あるモノの気配すら感じられない奇妙な空間でもあった。
その暗闇のなかで首筋に鳥肌が立つのを感じる。知っている感覚だ。背後から忍び寄る冷たい手が肌を撫でていくような感触。それはまるで、悪夢と現実の狭間に立っているような、ひどく曖昧で、それでいて底知れない恐怖を伴う感覚だった。
ゆっくり背後を振り返るが、そこにあるはずの扉はなく、底のない暗闇がぽっかりと口を開いているだけだった。すべてを呑み込もうとしているかのように、どこまでも闇が広がり続けている。深い海の底に立っているようだ。濃密な闇が全身を包み込んでいき、窒息するほどの恐怖と圧力を加えている。
呼吸が乱れ、冷たい汗が額に浮かぶ。目を凝らしても、手を伸ばしても、何も感じ取ることができない。そこにはただ無音の闇が広がるだけだった。心の奥底から湧き上がる恐怖が喉を締め付け、全身を硬直させていく。
砂嵐に紛れ込むように、砂漠に潜む混沌の化け物が施設に入り込んだのかもしれない。なぜこの場所に迷い込んだのか、どうしてこの空間に閉じ込められたのか、その答えはどこにもない。ただひとつ確かなことは、何か異質な空間に立っているという事実だったが、そんなモノは何の役にも立たない。
悪夢のような感覚が現実を侵食し、すべてを曖昧にして、恐ろしい空間に変えていく。恐怖の所為だ。それは私の正気すら奪い去るようだった。ふと足元で何かが動いたような気がして反射的に
深い闇のなか、すべてが止まったかのような感覚が押し寄せてくる。時間の感覚すら失われ、自ら想像した恐怖と対峙し続ける。何も見えず、何も感じず、ただ果てのない闇と静寂が、静かにすべてを包み込んでいく。
意を決し暗闇に向かって腕を伸ばすと、手が何かに触れるのを感じた。壁のようにも感じられたが、それは手を包み込むような奇妙な感触で、柔らかな温もりすら感じられた。施設の冷たく無機質な金属の壁ではなく、生き物に触れているような感触だった。その壁が脈打つように動くと、思わず手を離してしまう。
けれどそれが何であれ、この場所から抜け出せる唯一の手掛かりだった。暗闇の中で見失うわけにはいかなかった。深呼吸して心を落ち着かせたあと、ふたたび壁に手を伸ばし、手が離れないように注意しながら歩いた。この奇妙な壁が暗闇の中で唯一の指針になる。
指先に意識を集中させながら歩いていると、ムカデのような得体の知れない生物が手の甲を這っていくのが感じられた。その冷たく硬い触覚が肌に触れるたびに、全身に寒気が走るが、努めて冷静さを保ち続ける。恐怖で道を見失うわけにはいかなかった。
耳を澄ませば遠くから微かに砂嵐の音が聞こえるが、最早それが砂嵐の音なのかも確信が持てなかった。
けれどその音は、まだ〝あちら側〟の世界とつながりがあることを感じさせる唯一の音でもあった。そのなかに誰かの足音が聞こえるたびに、心臓が早鐘のように鳴り、形容しがたい恐怖に襲われる。しかし冷静さを保ち続けなければならない。
歩き続けるうちに、壁が激しく振動するのを感じた。それは私という異物を拒むかのように震えていたが、それでも歩みを止めることはできない。暗黒のなかに何かが潜んでいて――この奇妙な現象を含め、それが私自身に深く関わっていることは理解していた。だから答えを見つけるために、ひたすら闇の中を歩き続けるしかないのだ。
闇が濃くなるたびに、恐怖に思考を支配され、全身が圧迫されるような感覚が増していく。背中に冷たい汗が流れ、呼吸が乱れていく。やがて視線の先に
淡い燐光を帯びた扉がぼんやりと見えてきた。それは古びた木製の扉で、暗闇の中で微かな光を放っている。その扉に触れてみると、冷たく固い感触が指先に伝わり、確かに実在するものだと感じられた。長い間放置されていたような風合いだったが、指先にしっくりと馴染む。それは間違いなく現実世界の物質だ。
周囲を見回したが、依然として深い暗闇に包まれている。何も見えない闇の中で、この扉だけが異質な存在感を放っていた。深呼吸し、ゆっくりと心を落ち着ける。扉を開く決心をして手を伸ばしたが、その瞬間、カチリと扉は勝手に開いた。
扉の隙間の向こうで光が揺れているのが見えた。おそらく
古い扉を押し開いて部屋の中に入る。蝋燭の光が壁や天井に影を投げかけ、別世界のような空間が広がっていた。木製の家具や古い絨毯が部屋の中に置かれ、どこか懐かしさを感じさせる。部屋の中央には大きなテーブルがあり、いくつもの蝋燭が立てられている。
風も吹いていないのに蝋燭の火が微かに揺れ、その影が壁に不気味な模様を描いていく。理由は分からなかったが、私は息を潜めながら、部屋の隅々まで観察していく。どこかに出口があるはずだ。この異質な空間から抜け出せる方法を見つけなければいけない。心臓の鼓動が速くなり、緊張感が張り詰めていく。
ふと視線の先に扉が見えた。それが出口だと直感的に分かった。足元を確認しながら、やわらかな絨毯の上を歩いて扉に近づく。足を踏み出すたびに絨毯の下で古い板が軋むのが聞こえた。手を伸ばして扉に触れたときだった。
『やぁ、待っていたよ』
背後から声が聞こえた。その声は低く、どこか冷たい響きを持っていたが、同時に馴染みのある声だった。見なくてもソレが誰の声なのかすぐに分かるほどに。背後を振り返ると、ひとり掛けの大きなソファーにフクロウ男が座っているのが見えた。
それは異様な姿をしていた。人間の身体にメンフクロウの頭部を持ち、鋭いクチバシが蝋燭の光を反射して不気味に輝いている。フクロウの冷たい視線が感じられる。その眼差しは獲物を狙う猛禽の鋭さを持ち合わせていたが、同時に疲れを感じさせる不思議な目付きだった。
その異様な存在感に加え、フクロウ男は大きな身体を持っていた。しかしこの部屋はあまりにも狭く、彼には窮屈そうに見えた。部屋の天井に頭をぶつけそうになっていたが、その姿からは優雅さが感じられた。カスタムメイドの黒いスーツを身につけているからなのだろう。
スーツは高級感があり、ぴったりと異形の身体にフィットしている。袖についた羽根を払うような仕草をしてみせたが、その動作もまた滑らかで、人間のように自然だった。その手は羽毛と長い羽に覆われていたが、人間の手にそっくりだった。ゆらゆらと羽が揺れるたびに、蝋燭の光を受けて輝くのが見えた。
『待っていたんだよ……ずっとね』
フクロウ男の声が暗闇に木霊す。その声には不気味な静けさが含まれていて、まるで闇そのものが語りかけているように感じた。その所為なのだろうか、周囲の闇がさらに濃密になり息苦しさが増していく。
フクロウ男の冷たい視線に貫かれると、ふたたび得体の知れない恐怖を襲われる。何かを口にしようとするが、声が出せない。意識が闇に引きずり込まれそうになるが、なんとか踏み止まって異形を見つめ返す。この邂逅に意味があるのなら、それが何を意味するのか見極める必要があった。
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