第十七部 空中庭園 前編

第793話 拠点の変化〈ぬいぐるみ〉


 その教会は赤レンガが映える壮麗な建築物だったが、どこか無骨で、文化的――あるいは宗教的要素を可能な限り排除した奇妙な外観を持っていた。かつては略奪者たちの拠点として利用されていたが、今では荒廃した都市に埋もれる建築物のひとつに変わっていた。


 いかめしい鋼鉄製の大扉の左右には、大理石調の巨大な彫像が並び、聖域に足を踏み入れる者を威嚇するかのように立っている。スパルタの英雄だろうか、槍と盾を持った戦士の彫像は、その鋭い眼差しで過去に思いを馳せているようでもあった。


 教会の広場に立ち、ふと視線を上げると、小雨を降らせる灰色の雲が空を覆い尽くしているのが見えた。旧市街は鉄とコンクリートの墓場と化し、立ち並ぶ建物は時の流れに蝕まれ、その多くが崩壊しかけていた。かつての繁栄を象徴する高層建築群は、今や荒廃の象徴に変わり、空高く聳え立つその姿は文明の亡霊を見ているかのようだった。


 雨に濡れないように外套のフードを被り周囲を見回すと、あちこちに土嚢袋が積み上げられていて、教会の周囲に堅牢な陣地が構築されているのが確認できた。周辺一帯には防壁として機能する鉄製のフェンスや強固なコンクリート壁が立ち並び、すぐそばの銃架には重機関銃が設置され、照明の多くが防壁の向こうを照らすように固定されていた。


 その防壁のすぐ近くには監視所が設置されていて、錆びついた鉄板と鉄パイプで組まれた足場からは、荒れ果てた都市の風景が見渡せるようになっていた。


 壁の内側では人々が忙しなく働いている。広場には無数の天幕が張られ、商人たちが扱う商品や物資を満載した輸送コンテナが並んでいる。ソレは厳かな教会に似つかわしくない風景をつくり出していたが、商人や職人たちの仮住まいとしても機能していた。そこで人々は共同作業に励み、教会を中心に新たな共同体を築こうと努力していた。


 あらたな拠点となった教会は、荒廃した都市の静寂とは対照的に活気に満ちていた。商人たちとスカベンジャー組合の支援もあり、すでに小規模ながらも、他の勢力に脅かされることのない新興勢力として台頭していた。荒廃した街の中で、この一角だけは異質な活力に溢れていた。取引が盛んに行われ、交渉の声と商品のやり取りが絶えず行われていた。


 教会の地下にある旧文明の施設が再び稼働し始めたことも、拠点に大きな変化をもたらしていた。販売所からは加工食品や日用品が次々と供給され、その品を求める買い物客の姿で溢れていた。


 施設で手に入る食料品に限っていえば、利益を求めることなく、仕入れの値段で販売していた。そのため、荒れ果てた都市で食料を得るために命を危険に晒していた人々の多くが、今では安心して生活物資を手に入れることができていた。


 旧文明の施設を中心にして築かれた共同体〈鳥籠〉に入ることが許されず、廃墟の街で生活することを余儀なくされているストリートチルドレンの多くも、ほとんど価値のないジャンク品を回収するだけで、その日の糧を得られるようになっていた。


 最近では教会の広場に子どもたちの姿を見る機会が増えていた。彼らは廃墟から回収したジャンク品を持ち寄り、商人たちと交渉して、少しでも多くの電子貨幣クレジットを手に入れるために努力していた。


 ジャンク品の多くは機能しない回路基板や錆びついた金属片、それに使い捨てにされた小銃だった。どれも一見役に立たないような物ばかりだが、彼らにとっては宝の山だった。子どもたちは過酷な環境で必死に生きていたが、その目は力強く、誰ひとりとして生きることを諦めていなかった。


 教会のある地区が比較的安全な場所として知られるようになったのは、野良の略奪者たちを徹底的に排除した結果だった。かつてはこの地域も危険な無法地帯であり、生き残るためには武装したレイダーギャングとの戦いが日常だった。しかし状況は変化した。


 治安維持を目的とした機械人形ラプトルの戦闘部隊と偵察ドローンがつねに巡回していて、潜在的な脅威を排除してくれていた。そのおかげで、教会の拠点は他の地域に比べれば格段に安全な場所となっていた。


 機械人形の存在が略奪者たちを遠ざけ、人々に安心感をもたらしていた。路上で生活することを余儀なくされていた子どもたちも、その恩恵を受けていた。ここなら命の危険を冒さずにジャンク品を取引できる。しかし子どもたちの頭から不安が消えることはない。彼らの生活を保障するものは何もなく、つねに警戒し、状況を見極める必要があった。


 それでも日々の生活が安定していくなかで、教会は人々の新たな生活の拠点となりつつあった。商人たちは取引に精を出し、買い物客は品物を吟味し、警備用の機械人形はその背後で厳しい目を光らせる。旧文明の遺物ジャンクが過酷な世界で生きるための糧になり、子どもたちはその恩恵を享受していた。


 子どもたちが安定した生活を手に入れられるということは、必然的に略奪者たちの誕生を阻止することでもあった。日々の糧を得るために他人を殺し、奪う必要がないのなら、わざわざ危険を冒して犯罪に手を染める理由はない。腹を満たし、安全な場所で眠れるだけで、子どもたちは自然とその道を選ばないようになる。


 これは地区の治安改善に直結していた。残酷な現実が支配するこの世界で、少しでも安定した生活を提供することが、略奪者を減らす最良の手段だった。


 商人たちも我々の意図を理解してくれていたのか、彼らは利益を追求するだけでなく、共同体の一員としての役割を果たすようになった。そして子どもたちだけでなく、負傷して生きることが困難な人々にも施しを行うようになっていた。


 廃墟の街には薬物に依存する者や、怪我で働けなくなった傭兵たちが多く存在していた。彼らにも手を差し伸べ、最低限の生活を保障することで、さらなる混乱を防ぐ試みが行われていた。


 もちろん、すべての人間が善良というわけではない。中毒者の中には施しを受けながらも、ふたたび危険な道に戻ろうとする者もいたし、多数の〈サイバネティクス〉でサイボーグ化した傭兵のなかには、過去の暴力的な衝動を抑えきれない者もいて、突発的な犯罪に発展するようなことも起きていた。


 そのため、教会の広場で行われる施しは厳しい監視のもとで行われていて、商人たちも注意深く相手を見極めるようになっていた。しかし、これが現実なのだろう。善行だけでは人々の考えや行動を変えることはできない。


 それに、この施しは単なる慈善行為ではなく、長期的な利益を見据えた投資でもあった。彼らが我々と価値観を共有できるようになれば、将来的に共同体の一員になることも期待できたし、それは共同体全体の利益につながる。だから一時的な救済ではなく、今後も継続的に施しは行われることになる。


 買い物客が行き交い、商品のやり取りが盛んに行われる市場を歩いていると、最近流行していた〝ぬいぐるみ〟が目に付くようになる。それは、いつからか〈施しの教会〉の名で知られるようになった拠点で、象徴的な存在になっていた白蜘蛛を可愛らしくデフォルメしたぬいぐるみだった。


 灰色の雲と建築物に埋もれた廃墟の街で見る愛らしいぬいぐるみは、どこか奇妙で異質な存在だったが、人々は普通に受け入れているようだった。


 白蜘蛛として知られたハクは、もちろんただの蜘蛛の変異体ではなかった。〈深淵の娘〉であり、廃墟の街では恐れられる存在だったが、人々は少しも気にしていなかった。


 機械人形の戦闘部隊に交じって、変異体や略奪者たちから人々を救ってきた白蜘蛛。その噂は瞬く間に広まり、いつしかこの拠点の守護者として人気者になっていた。白蜘蛛があらわれると、人々は安心し、手を振って挨拶をした。すると、白いフサフサとした体毛に覆われた可愛らしい存在が脚を振り返してくれる。


 白蜘蛛のぬいぐるみが市場に登場したとき、あっという間に人気商品になってしまった。荒廃した世界で人々は安らぎを求めていたのかもしれない。保育園の拠点でもハクに似たぬいぐるみは人気の景品だったので、人々を虜にする何かしらの魅了があるのかもしれない。


 ちなみにぬいぐるみは、ハクとジュジュが人工島の水族館で手に入れた〝お土産〟のイルカやタコのぬいぐるみを参考にして、商人のキイチが商品化したものだった。


 行商人として過酷な世界で生きていたキイチも、廃墟の街で家族共々ハクに救われてから、この拠点に腰を据えて生活するようになっていた。かれらはハクに夢中になっていて、恩返しができる機会をうかがっていた。そんなときに、ハクが自慢してきたイルカのぬいぐるみを見て、それが持つ潜在的な価値を見抜いたのだろう。


 キイチはぬいぐるみを単なる商品としてだけではなく、人々の心に安らぎを与え、希望を感じさせる象徴として販売することにした。そして廃墟の街で生きる人々にとって、それは何物にも代えがたいものになった。ハクに似た白蜘蛛のぬいぐるみは瞬く間に人気商品となり、いつしか白蜘蛛以外のぬいぐるみも取引されるようになった。


 市場を歩いていると、幼い子どもたちがハクのぬいぐるみを抱きしめている光景が目に入る。彼らの顔に安らぎや喜びを見ることができた。それは過酷な現実の中で見つけたささやかな癒しだったのかもしれない。白蜘蛛のぬいぐるみは、ただの玩具ではなく、彼らの心の支えとなっていたのだ。


 いずれにせよ、拠点が新たな共同体として機能するようになったのは喜ばしいことだった。

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