第700話 忘却


 水槽の亀裂を塞ぐための作業が終わると、我々は地上に戻る準備を始める。水底には、ほかにもいくつか亀裂があり、別の水槽につながっているようだった。あの奇妙な変異体は、この場所で水中に引きり込まれていたはずの〈マンドロイド〉を別の貯水池まで運んでいたので、それは間違いないのだろう。


 けれど水棲生物が〈旧浄水施設〉に侵入するために使用していたと思われる巨大な亀裂は塞ぐことができたので、水中での作業を早々に切り上げることにした。すべての亀裂を塞ぐとなると、多くの人員と大規模な工事が必要になる。そして我々には、それだけのことをするための資材もなければ準備もできていなかった。


 変異体の群れとの戦闘で足場の多くが崩壊していたので、我々はスイレンが利用した経路を使って地上に戻ることになった。これから向かう場所に機械人形を待機させていたので、ついでに合流することもできるはずだ。


 その道すがら、スイレンと話していたことについてあれこれと考えていたが、途中で考えることを放棄した。彼女が言うように、そこに〝大いなる意思〟とやらが介在しているというのなら、我々にできることははなから何もないのかもしれない。


 その意志にあらがうことさえ、あらかじめ決められた道筋なのだとしたら、ここで思い悩むだけ時間の無駄なのだ。


 もちろん、好むと好まざるとにかかわらず、いつか真剣に向き合うときがくるのだろう。だがそれは今日でもなかったし、明日でもないのだろう。


 薄暗い通路を歩いて目的の場所にたどり着くころには、なにを考えていたのかさえ思い出せなかった。けれどそれで良かったのかもしれない、うじうじと悩むような性分でもないのだから。


 そうこうしている間に、我々は目的の場所にたどり着く。百メートルを優に超える白い建造物が、まるで支柱のように天井まで真直ぐ伸びているのが見えた。広大な空間に塔のようにそびえる細長い構造物に近づくと、我々の動きに反応して閉鎖されていた扉が開いていくのが見えた。


 建物内に入ると、そこで待機していたマンドロイドたちが出迎えてくれた。表情のない機械人形だったが、我々が無事に戻ってこられたことに、心なしか安堵しているように見えた。仲間を無事に連れかえってきたことも影響しているのかもしれない。そこには人と機械を越えた奇妙な信頼関係が築かれているように思えた。


 照明が等間隔に設置された通路を歩いて、エレベーターが設置されている場所までいく。ひっそりとしていて動力がないようだったが、照明がついていたので電源の心配をする必要はないだろう。カグヤのドローンが回路基板に接続できるように、壁の内側に収納されているはずの端末を探すことにした。


 コンソールパネルを見つけたあと、カグヤがエレベーターの動力を回復するまでの時間を使って、周辺一帯に設置された監視カメラの映像を確認することにした。上階にある監視室に入ると、複数のモニターに表示されていた映像を順番に見ていく。


 ほとんどの映像は暗く不鮮明で、何も見ることはできなかったが、いくつかの区画に変異体がいることが確認できた。


 その多くは見慣れた水棲生物だったが、ナメクジを思わせる奇怪な生物が大型犬の変異体を捕食している姿が見られた。ある区画では、墓石のように立ち並ぶ奇妙な装置を見ることができた。数百を超える装置が碁盤の目のように整然と並ぶ様子は、どこか機械的な〈サーバルーム〉を思わせたが、それがどのような装置なのかは見当もつかなかった。


 監視カメラの映像を切り替えていくと、得体の知れない堆積物によって覆い尽くされた通路が見えてくる。それは下水道でも見られる油脂類や土砂で構成された汚物にも似ていたが、どこか生々しく、脈打つように小刻みに震えているのが見えた。さらに調べようとしたが、監視カメラが故障していて映像を受信することができなかった。


 近づくことすら躊躇ためらわれる光景だったが、それ以外の景色のなかに目新しいものは何もなかった。どこまでも続く深い暗闇と、縦横無尽に張り巡らされた無数の配管、そして汚染された水で満たされた水槽ばかりが目についた。この陰鬱な地下空間がどこまで続いているのかも分からなかった。それほど広大な場所になっていた。


 いつか――その日が来ることを切に願っているが――もしも人類がその手に世界を取り戻すときがきたら、果たしてこの広大な地下空間のすべてを、ふたたび掌握することはできるのだろうか。


 ……いや、おそらくそんな日はやってこないのだろう。すべては忘れられて、この暗く陰鬱で、しかし雄大で荘厳な地下空間は忘却の彼方に消えていくのだろう。


 理由は分からなかったが、それはとても悲しいことのように思えた。


 カグヤから連絡が来ると、すべてのモニターを消して監視室をあとにする。そしてエレベーターの前で待ってくれていたスイレンと合流する。いつか彼女と再会できるように、互いの連絡先を交換することにした。彼女の手に負えないような問題が起きたときに、また協力できるかもしれないと考えたのだ。


 人間に連絡先を教えるなんて、きっと初めての経験だったのだろう。冷静沈着な彼女が戸惑っている姿が見られて、思わず笑みを浮かべてしまう。


 それから我々はエレベーターに乗り込んで、地上近くの施設まで移動する。避難場所に指定されていたのか、薄暗い施設は整然としていて、略奪者たちに荒らされた様子はなかった。


 地上で生活する人々にも知られていない場所なのだろう。人気ひとけがなく、ゴミと瓦礫がれきで埋め尽くされた地上とは大違いだった。鳥籠のすぐ近くに未発見の施設があるというのは、ひどく奇妙なことだった。けれど人類の生活圏はきわめて狭いので、スカベンジャーたちに知られていない施設が見つかっても、なんら不思議なことではないのかもしれない。


 ほこりが舞う通路を歩いて地上に出る。どうやら半地下構造の道路につながっているようだった。光が差し込む薄暗いトンネルに出ると、無数の放置車両によってトンネルの出口まで渋滞になっていることが確認できた。スイレンは道路の出口を指差すと、その先に鳥籠があることを教えてくれた。


 そこで彼女と別れることになった。衝撃的な出会いとは対照的に、それはひどく味気ない別れだったが、別れを惜しむ恋人のように抱き合うわけにもいかないのだろう。


 それに、スイレンの拠点がどこにあるのかは分からなかったが、この辺りで活動していれば、すぐに再会できるだろう。人造人間にはそれぞれが管理する地域があり、彼女は間違いなくこの地区を管理していた。そこには教会も含まれているので、地下施設を拠点にしていた我々は、いずれ彼女の世話になることもあるだろう。


 半地下になっていたトンネルを出ると、相変わらずの雨模様だった。数週間も地下に籠っているような気がしたが、まだ二日と経っていなかった。一緒になって空を眺めていた〈マンドロイド〉たちに声を掛けたあと、我々は鳥籠に向かって歩き出した。


 それにしてもひどいありさまだ。返り血に汚泥、それに気色悪い堆積物で全身が汚れていた。マスクをしていたのでニオイは嗅げなかったが、きっと悪臭を放っているのだろう。


 このままでは鳥籠に入ることはできないだろう。倒壊した建物から滝のように雨水が流れている場所を見つけると、タクティカルスーツに付着していた汚染物質と汚れを洗い流す。機械人形も見よう見まねで装甲に付着した汚れを洗い流していく。


 鳥籠の入場ゲートが見えてくると、警備隊の人間が慌ててやってくるのが見えた。だが彼らが驚くのも無理はない、地下で仕事をしていたはずの人間が、鳥籠の外からやってきたのだ。状況を簡単に説明したあと、フジキとの面会を取り次いでもらうことにした。

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