第663話 メタヴァース


 収容所襲撃から数日、私はイーサンに会うため〈五十二区の鳥籠〉の酒場にやって来ていた。グラスの中で琥珀色の液体が静かに揺れ、その輝きは薄暗い照明の下で一層美しく映えた。


 そこに多腕の給仕ロボットがやってきて、注文していたウィスキーのボトルを無言で差し出し、サンドウィッチの皿をテーブルに置いた。かれに感謝したあと、受け取っていたボトルからグラスに液体を注いだ。ウィスキーがゆっくりと流れ落ちグラスの中で揺れる。


 店内は落ち着いた雰囲気に包まれ、酒とたばこの匂いが絶妙に混ざり合いながら漂っていて、色褪せた壁にはホコリを被った本が並べられているのが見えた。剣と魔法の冒険物語や宇宙探査を記録した書籍の模造品が所狭しと積まれていた。そのとなりには惑星旅行の広告ポスターが貼られていて、人々が持つ宇宙への無限の憧れを思い出させてくれていた。


 給仕ロボットの背後に見える金属製の棚には、酒のボトルと宇宙船らしき古びたプラモデルが並べられていて、そのひとつひとつが遠い宇宙への想いを形にしていた。


 店内には大勢の客がいて、酒や料理に舌鼓を打ち、時折笑い声が響いていた。商人やスカベンジャーなど、さまざまな職種やルーツを持った人々で賑わい、酒場は彼らの交流の場として機能しているようだった。ジャパニーズジャズがゆったりと流れ、客たちがそれぞれの言葉で会話を楽しんでいる。


 カウンターに座る客の中には武装した傭兵もいて、多様な〈サイバネティクス〉や肌の色が酒場の雰囲気に一層の深みを与えているように感じられた。彼らが身につけた武器や装備は、これまでの苦難の生活を物語っている。カウンターの向こうでは、多腕の給仕ロボットが巧みな手つきでカクテルを作っていて、シェーカーの音が賑やかな空間に溶け込んでいた。


 ウィスキーグラスを持ち上げ、琥珀色の液体を見つめたあと口に含み、口の中で香りが広がるのを楽しむ。この一杯が、戦いの疲れを癒してくれるかのようだった。


 カウンターに座る傭兵たちから興味深い会話が聞こえてきたのは、イーサンに連絡しようとしたときだった。


「苦労したが、やっと例の〝ブツ〟を手に入れたんだ」

 肩部にカメラ型の装置を埋め込んだ男の言葉に、となりに座っていた赤毛の男が目を大きく見開いて反応する。


「それってもしかして、本物の女と楽しめるっていう……」

「ああ、こいつが噂のブツだ」


 カウンターに置かれたのは、ヘッドマウントディスプレイを用いた旧式の体感型デバイスだったが、それがかえって男の話に信憑性を持たせたのだろう。赤毛の男は緊張した手付きで無数のケーブルにつながれた端末を手に取る。


「これがあれば、人工知能がつくった偽物の女じゃなくて、本物の人格データと楽しめるんだな?」

「ああ、間違いない。すでに試させてもらったからな」


「ヤバかったか?」

「ああ、ヤバかったぜ。どこにもつながっていないパーソナルな〈電脳空間サイバースペース〉で、女でも男でも、好きな相手を選ぶだけでいいんだからな。あとは飽きるまで楽しませてくれる。もちろん、病気をもらう心配もなければ、追加料金を払う必要もない」


 赤毛の男は慎重に端末をカウンターに戻すと、口元を押さえながら真剣な面持ちで言う。

「それで……こいつをいくらで譲ってくれるんだ?」


 男がニヤリと笑みを浮かべると、ショルダーカムが小さなモーター音を立てながら動くのが見えた。あれは本来、射撃の支援を行うための装置なのかもしれない。

「お前は俺の数少ない親友だが、こいつを手に入れるのに相当な苦労をしたからな、それなりの値段をつけさせてもらう」


 大金なのだろう、周囲の人間に注目されないように小声で値段を伝えると、赤毛の男は眉をよせてうなる。


「クソっ、その値段じゃ手が出せない。何とかならないのか?」

「いいや、ダメだ」

 男が頭を横に振ると、ショルダーカムも首を振る。それから男はタバコに火をつけた。


「なぁ、知ってるか。昔はこういうモノがタダで手に入ったんだ」

「まさか、ありえない」


「いいや、こいつは確かな筋からの情報だ。昔は〈データベース〉に接続するだけで、裏で取引されるような〝生のデータ〟が無料で手に入ったんだ」

「高額で取引される裏データが、どうして無料で?」


「さぁな」男は肩をすくめて、それから煙を吐き出した。

「大昔の人間は自己顕示欲やら承認欲求が強かったんだろ。それに、ネットワークの向こうにいる〝誰かさん〟に素肌を見せるのは、本物の人間を相手にするより抵抗を感じないものだ。人気が出て大金がもらえるようになれば、それに味を占めて後先考えずに重要な情報を違法業者にタダ同然で売り払っちまう」


 それを聞いた赤毛の男は顔をしかめる。

「今じゃ場末の娼婦だって金を取るぞ」

「当時は、それが普通だったんだろう」


「それなら、データベースに接続して裏データを漁れば、当時の生のデータが――」

「残念だが」と、男は赤毛の言葉を遮る。「そういうデータは、すべて人工知能によって消去されて、もう何も残っちゃいないんだ」


 男の言葉に反応して、思わずポケットから取り出そうとしていた情報端末から手を離す。


「あれだ、なんて言ったっけ……そうそう、大いなるリセットってやつだ。人類にとって不都合な情報は、何とかって組織にすべて消されちまったのさ。だから道徳的にヤバい生の人格が――いわゆる、〝精神転送装置〟によって複製された本物の人格情報は、〈データベース〉から消されたんだ」


「なぁ、道徳ってなんのことだ?」


「つまりさ」と、ショルダーカムの男は得意げに言う。

「もしも精神やら魂とかって呼ばれるモノを完全な形で取り出されて、本物そっくりの〈仮想空間メタヴァース〉やら〈電脳空間〉に放り込まれたとする。俺たちは世界そのものが変化したことにすら気がつかないのかもしれない。けれど、そこで見ず知らずの人間の相手を――自分の意思に反して、汚いオッサンとか太ったオバサンの相手をしなければいけない」


「まるで牢獄だな……」と、赤毛は本当に嫌そうな顔をする。

「ああ、そいつは出口のない牢獄だ。でも精神を取り出された時点で人格を操作されているから、そのことを疑問にも思わない。だからその〈電脳空間〉にいる間は、俺たちみたいな底辺の傭兵でも、高級娼婦なんて目じゃない美人を抱けるし、笑顔で相手をしてもらえる。それも恋人に向けるような、とびっきりの笑顔でな」


「人工知能が創り出した偽物の情報じゃなくて、本物の人間を相手にできるのは魅力的だけど、その話を聞くと何だか気が引けるな」

「それが普通の反応だろうな。だから道徳的にもヤバい代物なのさ。もっとも、その人格データを消すってこと自体が、ある種の殺人だったと俺は思うけどな」


「あぁ、たしかにそういう考えもあるのか」

 赤毛が感心したように言うと、ショルダーカムの男は笑みを浮かべる。


「でもだからこそ生の人格データは高額で取引されるんだよ。この世界には生まれながらのヤバい人間がごまんといる。そういう連中は人間を猟奇的に甚振いたぶることがどうしようもなく好きだが、〈データベース〉で手に入れられる偽のデータは規制が多すぎて殺しなんか楽しめない。でもな、こいつがあれば好きなときに好きな相手を何度も殺せる。それも毎回違った反応が楽しめるんだ。だってそいつは本物の人間なんだからな。俺の言ってること、分かるか? 」


「わかるよ。だからげんなりしたんだ。生のデータを使って殺しを楽しもうとする人間がいるなんて思ってもみなかったよ」

「だろうな。実際、殺しなんてこのクソったれの世界だけで腹いっぱいだからな。でも需要があるのは確かだ。連中は四六時中、人間の血液で濡れていたいって異常者だからな」


「だから値段を下げることができない?」

 赤毛の言葉にショルダーカムの男はニコリと笑みを浮かべてうなずく。

「そういうことだ。金が用意できたら教えてくれ、それまでは売らずに取っておく」


 大いなるリセットに精神転送装置と、気になる言葉がいくつも出てきたが、その前にどこでその体感型デバイスを手に入れたのか知る必要があった。すぐに傭兵から聞き出さなければいけない、そう思って席を立ったときだった。イーサンがエレノアを連れてやってくるのが見えた。

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