第627話 姉妹〈深淵の娘〉


 なにを話しているのかは分からなかったが、ハクが姉妹たちと会話をしているのが見えた。それは念話による会話だったので、周囲は静かで、奇岩の間に吹く風の音以外に物音ひとつ聞こえてこない。


 ひときわ大きな〈深淵の娘〉は、身動きすることなく、姉妹たちに取り囲まれていたハクの様子を観察しているようだった。


 大蜘蛛の姿は圧倒的な存在感を放っていて、その真っ黒な体毛におおわれた身体からだに他の個体がまとわりついているのが見えた。彼女たちはひとつの意志を持つ生物のように、一体となって大蜘蛛の体表をい回っている。


 異形の蜘蛛が這い回るさまは、まさに恐怖そのものだ。彼女たちが長い脚を動かして、互いを踏み台にするようにして動き回り、絡み合うよう様子を見ていると、背筋が凍るような寒気を覚える。でも、だからといって何もせずに立ち尽くしているわけにはいかなかった。


 ハクの姉妹たちを刺激しないように動くと、遺体を運ぶのに使用したホバー台車の近くまで歩いていく。その台車は発掘調査隊から借りていたモノなので、この場に残していくことはできなかった。


 大蜘蛛が姉妹の遺体を回収したさいに、重量の変化に反応して安全装置が作動して停止していたので、システムを再起動する。


 遺体を運ぶために金属製の囲いが外され、平らな台のような形状になっていたホバー台車は、物資運搬のために日常的に使用されてきたモノだったが、れっきとした旧文明期の遺物であり、その構造は一般的な台車とは異なる。


 基本的にホバー台車は、反重力放射という技術が使用されていて、この技術は重力場に干渉して物体を浮揚ふようさせることができた。そのため台車は地面に接触せず、浮いて移動することが可能だった。この反重力技術は非常に高度であり、現在の技術では再現が困難――というより不可能だったので、非常に高価な遺物になっていた。


 またホバー台車のエンジンには、安全性に考慮し極限まで安定化した核動力が使用されていた。それは非常に強力なエネルギー源であり、持続的かつ効率的に動力を得ることを可能にしていた。


 そのおかげでホバー台車は重い物資の運搬や長時間の使用にも対応することができた。これらの技術は、戦闘艦で運用されていた〈ワスプ〉と呼ばれる兵員輸送機でも使用されていたモノだ。貴重な遺物だったが、それなりの数が出回っているので、金さえ積めば誰でも手に入れられるモノでもあった。


 システムの起動を確認して、切断されたロープやブルーシートをまとめていると、ハクがトコトコやってくる。


「もういいのか?」

 ハクは質問に答えるように、ベシベシと地面を叩く。

『ん。はなし、おわった』


 姉妹たちと親密な雰囲気のなかで有意義な会話ができたのだろう、ハクの声は機嫌が良く、踊るように跳ねていた。


 すると一体の〈深淵の娘〉が音もなく近づいてくるのが見えた。

「ハク、彼女は?」

『あね、いっしょいく』

「一緒に?」


 思わず眉を寄せると、ハクは腹部を振りながら説明する。

『はくつげんば、しらべる』

「はくつ……発掘現場のことだな。遺体が見つかった場所を調べるつもりなのか?」


 ハクに質問したつもりだったが、〈深淵の娘〉から肯定を意味する感情が伝わってくる。

「一緒に来るのは、君だけか?」

 真っ黒な大蜘蛛が口元で触肢しょくしこすり合わせると、また肯定を意味する感情だけが伝わってくる。ハクのように念話を使った会話が苦手なのだろうか?


「ハク、彼女は……その、安全なのか?」

『ん。あね、やさしい』

 偏見なのかもしれないが、その凶悪な姿から優しさを感じ取ることはできなかった。それでも、ハクの言葉を信じるほかないのだろう。


「カグヤ、どう思う?」

『レイが不安になる気持ちは分かるけど、今さら敵対するような事態にはならないと思うよ。襲うつもりなら、とっくに攻撃されてると思うし。それにね、私たちに選択肢があるようにも見えない。彼女が来るというのなら、それを止めることはできない』


 確かにカグヤの言うことは間違っていなかった。その〈深淵の娘〉はハクよりひと回りも大きな個体で、ハクよりずっと殺しに慣れている残忍な生物だった。ひとりでどうにか出来るとは思えなかった。


「そうだな……彼女を連れて行こう」

 と、そのときだった。ひときわ大きな〈深淵の娘〉が動いて、地響きめいた重々しい音が響き渡る。それと同時に、頭のなかに感謝を意味する感情が流れ込んでくる。


 彼女たちのことを信頼しようとしていることに対して、感謝の気持ちを表しているかもしれない。そして別れの言葉と、再会を楽しみにしている、といった嘘偽りのない感情が伝わってくる。


 それから大蜘蛛は地響きを立てながら、しかし周囲の奇岩を決して崩すことなく、濃密な霧のなかに溶け込むようにしてゆっくりと去っていった。その様子を見守っていた〈深淵の娘〉のれも、霧のなかに入っていき、黒い幽鬼のようにゆらゆらと揺らめきながら消えていった。


 その非現実的で、それでいて幻想的な光景を見ていると、夢のなかに迷い込んだような不思議な気持ちになった。そしてそれは静かで霧深い夜のことを思い起こさせた。憂鬱で、忘れられない感情に満ちた光景を。


『レイ』カグヤの声が聞こえる。

『ここが汚染地帯だってことは忘れてないよね。すぐに移動しよう』


 まばたきの瞬間に見る幻のような、ごく短い邂逅かいこうだったが、何事もなく無事に終わったことに安堵してその場を離れた。


 拡張現実で投影される矢印を頼りに歩いて霧深い窪地を離れ、〈ヴィードルの墓場〉まで歩いていく。その間、ハクは姉妹のとなりに並んでトコトコと歩いていた。念話を使って会話をしているのだろう。時折、無邪気に笑う声が聞こえた。


「ところで、ハクのお姉さんの名前は?」

『なまえ、だいじ』

「大事……?」


 そこでふと名前を教えてもらうという行為に、特別な意味が込められていることを思い出した。理由は分からなかったが、ハクの本当の名前も秘密になっていた。


「それなら、ハクみたいに呼びやすい名前を付けてもいいか?」

『ん。それは、いいかんがえ』


「そうだな……深い霧の中からあらわれたから〈キリ〉って名前は――」

『なまえ、〈ヨル〉がいい』


「ヨルか……」

 たしかに新月の夜のように真っ黒な体毛を持つ個体だったが、少し安直すぎる名前ではないのか。自分のことを棚に上げて言うことではないのかもしれないが、少し不安になる。真っ黒な大蜘蛛にちらりと視線を向けると、まったく反応をみせなかった。


『ヨル、いいなまえだな』

 ハクはクスクス笑うと、長い脚を伸ばしてヨルのことをベシベシと叩いた。が、恐ろしい大蜘蛛は相変わらず無反応だった。


 そこには不機嫌な人間と同じ空間にいるような、どこか微妙に気まずい空気が流れていたが、とくに機嫌が悪いというわけではないのだろう。というより、子どものように感受性が強く、何にでも興味を示すハクが特別なのだろう。


 無数の車両が放置された場所までくると、ホッと息をついた。ここまで来れば安全だ。ハガネから供給される酸素が足りなくなるのではないかと心配していたが、大丈夫だったみたいだ。


『レイ、偵察機が異常な動体反応を捉えた。気をつけて』

 警告表示に従って前方に視線を向けると、砂の中から人影が出現するのが見えた。ソレは長い期間、砂のなかに埋もれていたのか、地をうようにして出てくるとゆっくり立ちあがった。


「カグヤ、あれは……人造人間なのか?」

 それは金属で造られた骸骨のような外見をしていた。細い身体からだに皮膚や肉はなく、全身が旧文明期の軽くて頑丈な鋼材でおおわれていて、人間の骨格に酷似した不気味な骨組みで構成されていた。


 その頑丈な身体からだは様々な攻撃に対して耐性を持っていたが、砂の中から出現した人造人間の身体からだには破壊された無数の痕跡が確認できた。


 胸部の装甲や腕には損傷や欠損が見られ、その損傷箇所からは機械的で複雑な機構や配線が露出していた。大量の砂が付着していたが、細いケーブルで繋がった人工肺らしきものが伸縮している様子すら確認することができた。


『第二世代の人造人間だね。厄介なことになりそうだから、戦う準備だけはしといて』

「了解」

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