第626話 接触


 やがて奇妙な植物も見られなくなり、風食によってキノコ状に削られた奇岩ばかりが目に付くようになった。その飴色の奇岩も濃密な霧に隠れていて、ひどく不安な気持ちにさせた。


「カグヤ、俺の声が聞こえるか」

『うん、通信に障害は出てないよ』

「少なくとも、〝混沌の領域に迷い込んでしまった〟という状況ではないみたいだな……。それなら、上空のドローンを使って俺とハクの位置は確認できるか?」


 周辺一帯の地図が拡張現実で投影されると、何もない場所で点滅するふたつの青い点が見えた。周囲の奇岩が表示されないのは、詳細な地形図を取得することができていない所為せいなのだろう。上空からの俯瞰映像に切り替えてみても、乳白色の霧が見えるだけだった。


『レイとハクの信号は受信してるけど、霧で姿は見えないよ。それに〈深淵の娘〉の存在も確認できていない。生体熱源はおろか、動体反応すら検知できないよ』

「高度なレーダーを搭載した高高度滞空型無人偵察機でも、〈深淵の娘〉を見つけることは困難みたいだな……」


 すでに分かっていたことだったが、旧文明の技術をもってしても、〈深淵の娘〉の動きを捉えることは不可能に近い。


「厄介だな……。ハク、近くに姉妹の気配は感じられるか?」

 白蜘蛛は片方の脚を伸ばすようにして器用に身体からだを傾けて、じっと遠くを見つめる。

『ちかく、いるかもしれない』


「なにか連絡を取る方法はないか?」

『あるよ』ベシベシと地面を叩く。


『ちょっと、まっててな』

 可愛らしい声が聞こえたあと、ハクは口元で触肢しょくしをゴシゴシとこすり合わせる。


 念話を使って姉妹たちと連絡を取っているのだろう、ハクはパッチリした大きな眼で霧の向こうを見つめていた。しばらくすると、トコトコと脚だけを動かして身体からだの向きを変える。


『複数の動体反応を確認』カグヤの慌てる声が聞こえる。

『〈深淵の娘〉が近づいて来てるのかも、注意して』


 我々が存在を認識できるように、ワザと姿を見せてくれているのだろう。戦術画面を確認すると、中立を示す白い点が四方から接近してくるのが見えた。数え切れないほどに増えていく点を見ているだけで、ゾクリと背筋が凍るような感じがした。もしも敵対するようなことになったら、この場から生きて脱出することできないかもしれない。


 周囲の霧は幻想的な光を帯びて発光し、不気味な静寂に支配されていた。その静謐な空間に迷い込んだ異物のように、黒い大蜘蛛が姿をあらわした。


 その大蜘蛛は巨大で、血が凍るような恐怖を身にまとっているように見えた。脚は細長く、ゴツゴツした骨のような形状をしていて、漆黒の体毛におおわれた身体からだはハクよりもひと回り大きく、フルサイズのピックアップトラックにも匹敵するほどの巨体だった。


 その脚に密生する体毛の間からは、外骨格のような黒光りする殻が見えていて、装甲のように脚を保護していることが確認できた。


 真っ黒な体毛はあらゆる光を吸収し、風に吹かれてゆらゆらと揺れている様子はまるで暗黒の舞踏を演じているかのようだった。その大蜘蛛が腹部を揺らすと、特徴的な赤い斑模様が淡い光を帯びて、ぼんやりと明滅して目に焼き付くようだった。


 けれど最も恐ろしいのは、その凶暴さを極めた頭部なのだろう。それはスズメバチのように鋭く攻撃的で、大きな牙と上顎もビッシリと体毛におおわれていて、人間をいとも容易く破壊できるほどの力を秘めている。その鋭い牙の間からは毒液がヌルリと滴り落ちていて、それは光を浴びて不気味に輝いていた。


 上顎に隠された口元は暗く、詳細を確認することはできないが、そこに無数の鋭い歯が――まるでサメの歯のような恐ろしい形状の歯が並んでいるのが見えた。獲物の肉をみ千切りむさぼうための器官なのだろう。その歯の存在はすべての生物にとって脅威であり、悪夢以外のなにものでもなかった。


 そろりと動いていた大蜘蛛が動きを止め、邪悪な眼で我々を見つめる。その真っ黒な眼からは無慈悲な殺意が感じられたが、それは恐怖が垣間見せる錯覚なのだろう。


 いずれにしろ、その生物は人間の想像を超えた異形の存在であり、まるで純粋な恐怖と悪夢が交錯する世界から這い出てきたような存在だった。〈深淵の娘〉に遭遇した者は、恐怖と戦慄を覚え、理性と勇気を試されることになるのかもしれない。が、その結果がどうあれ、最悪な結末になることは目に見えていた。


 その大蜘蛛の出現のあと、霧におおわれた奇岩の間から一斉に〈深淵の娘〉が姿をみせる。地中から長い脚を突き出し、カサカサと這い出てくる個体もいて、その数は数え切れないほどになっていく。ハクの姉妹だと分かっていても、それは地獄の門が開かれたかのような恐ろしい光景だった。


 恐怖で息苦しくなるが、体内で自己構築される鎮静作用のあるナノマシンのおかげで冷静さを保っていられる。でもとにかく、数え切れないほどの大蜘蛛が迫ってくるという状況は、普通の人間には耐えられないモノだった。あるいは発狂することを選んだほうが楽だったのかもしれない。


 と、そこに地響きのような大気を震わせる音が聞こえ、足元がかすかに揺れるのを感じる。その異常な状況に困惑するが、ハクは落ち着いていて、霧の向こうからやってくるモノをジッと見つめていた。そして巨大な黒い脚が――簡単に人間を踏み潰せそうなほど大きな脚が、霧の中からゆっくりあらわれるのが見えた


 その個体は全高だけでも四メートルを優に超え、胴体だけでも全長十五メートルほどの巨体を持っていた。あまりにも巨大なため、怪獣じみた〈深淵の娘〉が脚を動かすだけで、周囲の霧が霧散していくようだった。


 しばらくすると、地響きめいた揺れもなくなり周囲に静けさが戻った。どこからともなく出現した大蜘蛛たちも、状況を見守るように我々のことを見つめているだけで、その場から動こうとしなかった。完全に包囲された状況だったが、どうすることもできない。


 奇岩に張り付く無数の大蜘蛛を見ながら深呼吸したあと、ジャンナから受け取っていたホログラム投影機を地面に設置した。その投影機にはペパーミントが事前に記録してくれていた超構造体メガストラクチャーの情報と、発掘現場の地下にある〈エリア十八〉の様子を詳細に確認できる映像が保存されていた。


 そのホログラム映像を投影しながら、〈深淵の娘〉の遺体をどこで見つけたのか説明する。投影機は〈深淵の娘〉の気を引くために準備してもらっていたモノだったが、どうやら効果があったようだ。彼女たちは興味深そうに映像を眺め、遺体発見に至るまでの経過を大人しく聞いてくれた。


 話が終わると、ひときわ大きな身体からだを持つ〈深淵の娘〉が触肢しょくしこすり合わせる。それは見慣れた行動だったが、その巨体とあいまって異常な迫力が感じられた。


 と、一体の〈深淵の娘〉が近づいてくるのが見えた。その個体は台車に向かって長い脚を伸ばすと、鋭い鉤爪かぎづめで遺体を固定していたブルーシートとローブを切断する。シートがはらりとめくれて遺体が見えるようになると、大蜘蛛のれがざわつく。やがて大蜘蛛は遺体におおかぶさるようにして、器用に姉妹の遺体を引きっていく。


 その〈深淵の娘〉がれのなかに入っていき姿が見えなくなると、どこからともなく感謝の言葉が聞こえてきた。


 それは〈深淵の娘〉が使う念話だったが、ハッキリした言葉というよりも、生の感情に近いモノだった。彼女たちが姉妹の死に困惑していることや、我々の訪問に驚いていること、それに遺体を届けてくれたことに対する感謝の気持ちが伝わってくる。


 そのなかでも興味深かったのは、姉妹たちがハクに対して抱いていた純粋な愛情だった。念話を通して感情が発せられるたびに、ハクをいつくしむ感情が伝わってきた。彼女たちにとって、ハクがどれほど大切な存在なのか分かるような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る