第613話 記憶



 食堂の空気のなかには、ビールとウィスキー、それにハンバーガーの香ばしいソースとフライドポテトの匂いが重なり合うように漂っていた。それが無限に〝再循環〟する大気の悪臭のもとになっていることは、誰もが理解していることだったが、このイベントを中止にできるほどの権力を持つ者は組織のどこにもいなかった。


 私はいつもと同じカウンター席に座り、壁を背にして食堂を見回していた。まるで世界中から集めてきた美男美女の会合に迷い込んだような錯覚をしそうになるが、ここではそれが一般的な光景だった。


 人々は共同体のなかで魅力的だと感じる相手に好感を抱き、より信頼し、協力したいと感じる生き物なのだと何かの本で読んだことがある。それは例えば、性的欲望を抱く対象の気を引きたくなったり、やけに優しく接したりするようになる感情に近いモノなのかもしれないが、それは副作用でしかなく、人間に備わる根本的な心理作用なのだという。


 でも、この場所では誰もが魅力的な容姿をしている。軍から肉体を――自分自身の遺伝情報をもとに造られた〝量産型〟の肉体が支給されるからだ。


 そんな魅力的な人間ばかりが集う世界では、容姿が優れているからといって、自分自身の立場が社会で有利に働くことはない。遺伝情報によって些細ささいな違いはあるかもしれない。他人より目鼻立ちがハッキリしていたり、乳房が大きかったり、背が高かったりする。それでも、誰もが驚くほどの美男美女であることに変わりない。


 だからなのだろう。ここでは必然的に他者に対して好感を抱き、絆を深めようとする傾向がある。軍隊にとって理想的な環境になっているとも言える。〝海兵隊は仲間を見捨てない〟というような、ある種の伝統として組織で語り継がれてきたことを、自然と実践できる環境で生活することになるからだ。


 そこで気になるのが、その中から特別な相手をどのように見つけるのか、という問題だ。遺伝情報が操作されているからといって、三大欲求が失われることはない。人々は異性に対して、あるいは同性に対して性的欲望を抱くことになる。それらはどのように処理されるのだろうか?


 支給された肉体の遺伝情報に大きな差がなく、皆が似た容姿なら、文明以前の原始社会で行われていた乱婚のように、不特定多数の相手と性的関係を持つこともおかしくないのかもしれない。しかし、そうはならなかった。


 面白いことに人間はその遺伝情報の些細な違いの中から、意中の人を見つけることができる。しかも運命や宿命とも呼べるような相手を探し出すことができるのだ。判断基準が容姿や資産で決まるのではなく、もっと原始的な、たとえば遺伝子の組み合わせのようなモノで選ばれるからなのかもしれない。


 そしてそれは、人類の技術力をもってしても解明できない第六感のような能力、あるいはスピリチュアル的な直感で相手を見つけ出しているのだという。いずれにせよ、それはこの宇宙時代においても奇天烈なことだった。


 とかなんとか考えていると、その奇妙な能力を持ち合わせた女性が私のとなりに座り、食堂を見回す。控えめに言って彼女は月の女神のように美しかった。もちろん、これは比喩だ。彼女はすぐに調子に乗る癖があるので、あえて褒めるようなことはしない。というより、彼女に気がついていないフリをする。


 その女神は話しかけてほしかったのか、咳払いしたり、大袈裟な溜息をついたりしていたが、やがて諦めたように言った。

「君のことを探していたんだよ」

「そうらしいね。ところで、どうして俺がここにいることを?」


 彼女は怪訝そうな表情を浮かべたあと、宇宙の真理を語るような口調で言った。

「だって、今日はハンバーガーの日でしょ?」

 彼女のあっけらかんとした物言いに思わず笑みを浮かべそうになったが、好きな女の子の前でタフな男を演じる思春期の男の子のように、ムスっとした表情を貫いた。


「今日は何かいいことがあったのか?」

 私の問いに彼女はニヤリと笑みを浮かべる。

「遠隔操作の実戦訓練で優秀な成績が残せたの。ほら、私って〈ブレイン・マシン・インターフェース〉との相性が良くて、少し天才的なところがあるでしょ?」


 自己評価が高いのもいつものことだ。彼女の言葉にうなずいたあと、炭酸飲料を口に含んだ。ハンバーガーとの相性は申し分ない。

「さすがだね。でも、頼むから俺の成績はかないでくれ」


「どうして?」と、彼女は首をかしげる。

 私は溜息をついて、それから言った。

「君に嫉妬されたくないんだ」


「そういうことね」彼女はハハンと悪い笑みを浮かべる。

「大丈夫、私がコツを教えてあげるよ。感覚がつかめたら、難しいことなんて何もないんだから」


「なるほどね」

 彼女は楽天家というだけでなく、天才肌で感覚的にモノを理解する癖がある。だからなのだろう、誰もが彼女のように簡単に問題に対処できると考えるふしがあった。


「ほら、遠慮しないで手を握って」

 彼女から差し出された手を握り締める。いつも重火器やナイフを振り回しているとは思えないほど柔らかな手だった。


「準備はいい? 私のなかにある感覚を直接つたえるから、それを受けいれて。システムがその感覚に馴染むまで、すこし時間がかかるかもしれないけど、すぐに遠隔操作のコツをつかめると思う」


「そうなることを願うよ」

「大丈夫」彼女は濃紅色の眸で私を見つめる。「君は私の宿命なんだよ。感覚を共有することくらい、簡単にできるんだから。ほら、まぶたを閉じて集中して」

 肩をすくめたあと、ゆっくり瞼を閉じた。



『遠隔操作は難しくなかったでしょ?』カグヤの声が内耳に聞こえた。

『結局、大切なのは感覚なんだよ。私のサポートがあれば、難しいことなんて何もないんだよ』


 まぶたを開くと、発掘現場に立ち込める嫌な暗闇が目に入る。どうやら〝また〟白日夢を見ていたらしい。今まで護衛してくれていたアサルトロイドに感謝したあと、超構造体メガストラクチャーの下層区画につながる吹き抜け構造に視線を向ける。相変わらず深い闇のなかに沈み込んでいて、全容を把握することはできなかった。


 それにしても、また白日夢を見てしまった……というより、あれは過去の記憶なのだろう。機械人形の遠隔操作を行ったことで、普段使われていない脳の領域が刺激されて、その拍子に忘れていたことを思い出したのかもしれない。そのことをカグヤに話すと、彼女は茶化すことなく真面目に話を聞いてくれた。


『脳が活性化したことで、過去の出来事を思い出したってことなのかな?』

 彼女は喉の奥でうなるような声を出したあと、考えを口にした。

『遠隔操作もそうだけど、艦長権限を手に入れたことで、レイは今まで出来なかったことがやれるようになったんだ。だから色々と検証したほうがいいのかもしれないね』


「やれなかったことって?」

『条件付きだけど、たとえば爆撃機や徘徊型兵器の遠隔操作ができるようになった』

「それをすれば、また何かを思い出せるかもしれないって考えてるのか?」

『そうだね。確証はないけど』


「なにを思い出したの?」

 そこにペパーミントがやってくる。蠅の化け物の調査を始める準備ができたのだろう。彼女の考えも聞きたかったので、白日夢について話すことにした。


「一時的な記憶障害なら、不意に思い出すことがあるかもしれないけれど……」彼女は眉を寄せる。「レイの場合、記憶喪失というより、記憶そのものがないように思えるの」

『どういうこと?』

 カグヤの疑問に彼女は率直に答える。


「ネットワークのどこかに保存されていたデータを受信したのかもしれないって考えたの。もちろん、これは憶測でしかない。だけど〈不死の子供〉は精神を転送することで、ある種の不死性を獲得していたでしょ。その過程で、精神の一部を――たとえば記憶を転送するさいに、なにか異常が起きてしまったとも考えられる」


『つまり』と、カグヤが続ける。

『ネットワークを介して、欠けていた精神の一部を受信しているってこと?』


「ええ、システムが完全無欠といっても限界はあるでしょ。だからその可能性はあると思う。〈不死の子供〉は謎多き集団だから、本当のことは分からないけれど。……いずれにせよ、今できることを試してみましょう」


「今できることか、艦長権限で何かしてほしいことはあるか?」

「そうね……」彼女は暗闇を見つめながら考える。「軍のシステムにアクセスして、宇宙軍が管理していた〈異星生物〉のライブラリを閲覧できるようにしてほしい。あの化け物を調査するときに役に立ってくれると思う」


 でも結局、その試みは失敗に終わる。艦長権限があると言っても、それは〝代理〟という限定的なモノであり、つねにアップデートされていた軍のシステムに接続して機密情報を閲覧するようなハイレベルなことはできなかった。戦闘艦のシステムをアップデートできないことにも問題があるのかもしれない。

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