第614話 解剖


 蠅の化け物の死骸が横たわるフロアに戻ると、どこから調達してきたのかは分からなかったが、半透明の無菌テントが設置されているのが見えた。どうやら大気の相互汚染を防ぐための隔離技術が使用されているらしく、テント内の空気圧を制御することで、汚染された空気がテントの外に流れ出るのを防ぐようになっているようだった。


 病院内にもうけられている陰圧室と同じ状況を作り出しているのだろう。その無菌テントのなかで化け物の調査が行われるのか、無数の装置が設置されているのが見えた。ペパーミントとサナエも蜜柑色みかんいろの化学防護服と専用のマスクを装備していて、いつでも作業を始められる準備ができていた。


 無菌テントは砂に半ば埋もれていた死骸の上に設置されていたので、わざわざ死骸を移動させる必要はなかった。が、不測の事態に備えて、化け物を掘り返す作業はひとりで行うことにする。


 ハガネを起動して黒を基調としたタクティカルスーツを身にまとうと、無菌テントに入り、死骸の近くに立つ。ハガネは防護服の機能を備えていたので、未知の病原体に感染する心配をする必要はないだろう。


 化け物のそばにしゃがみ込むと、鉄黒色てつぐろいろの外骨格の表面がゴツゴツとしていて、小さなとげのような突起物でおおわれているのが分かった。素手で触れるのは避けたほうがいいだろう。


 ペパーミントが用意してくれた端末を死骸の上に設置して、振動させることで死骸の表面に堆積していた砂を払い落す。ある程度、砂がなくなると、硬い甲殻の間に手を入れて死骸を一気に引っ張り出すことにした。


 損傷が確認されていない死骸を最初に調査することになっていたが、予想通り、砂に埋もれていた部分にも外傷は見られなかった。


 携行型の〈鋼材製造機〉で用意したモノなのだろう、化け物の体格に合わせて製造された解剖台が設置されていたので、干からびていた死骸を傷つけないように注意しながら解剖台にのせる。その解剖台の支柱には高さを調整するレバーがついていたので、とりあえず腰の高さまで合わせた。


 それが終わると、無菌テント内の汚染状況を監視していた端末で異常がないか確かめる。

『大丈夫みたいだね』

 カグヤが安全を確認したあと、防護服を着込んだペパーミントとサナエがテント内に入ってくる。ジャンナと数名の調査員はテントの外から作業の様子を見守る。


 ペパーミントは防護服の上から厚手のゴム手袋をはめ、未知の生物の解剖を行う準備を整えていく。〈母なる貝〉から運び込んでいた装置には、調査に必要な器具が備え付けられていて、彼女はレーザーメスを手に取り装置のタッチパネルに触れる。


 テント内に備え付けられていた青白い照明が未知の生物の姿を照らし出す。その姿はグロテスクでありながらも興味を引くモノだった。人間よりも一回り大きな体格をしていて、昆虫や甲殻類に見られる特性を備え、外骨格で覆われた肉体や脚部形状は昆虫のソレに類似している。


 無数の脚は関節部以外、硬い殻に包まれ、その先端には人間の指に酷似した器官が存在していることが確認できた。それらの指を器用に動かすことで、人間のように手先の細かい作業を行えるのだろう。


 干からびた腹部には硬くて鋭い毛が密集していて、脇腹をおおう外骨格の開口部からは、折りたたまれた腕のようなものが収まっている。その腕の先には甲殻類のハサミに似た器官が完全な形で残されている。


 ペパーミントはレーザーメスを使い、そのハサミの表面を切断しようとするが、あまりにも硬かったのでレーザの出力を調整する必要があった。慎重に殻を取り除くと、ハサミの奥に長く鋭い針のようなモノが収納されていて、内部が空洞構造になっていることが判明する。


 そしてそれが、獲物となる生物の体内に毒や病原体のたぐいを注入するための構造になっていることも分かった。


 以前、旧文明の地下施設で生きた化け物に遭遇したとき、体内に卵を産み付けられた人間の死体が確認できたが、注射器としても機能するハサミが原因なのかもしれない。そしてその卵は体内で孵化ふかして、人間を喰い殺しながら成長するのだろう。


 胸部にレーザーメスを近づけると、干からびた体表から慎重に甲殻を引き剥がしていく。その作業は静寂の中で行われ、徐々に化け物の内臓があらわになっていく。硬い殻を受け取ったサナエは、それを専用のケースに入れて保管する。ライフルの銃弾すら無効化する殻の性質を研究するのだろう。


 蠅の化け物は昆虫のように外骨格で体重を支えていると思っていたが、体内に強靭な骨が存在することが確認できた。その骨に保護されていた内臓はグロテスクで未知の構造を持ち、人間の理解を超える存在感を放っていた。ペパーミントとサナエは慎重な観察と解剖を重ねながら、生物の内部構造や臓器の働きを明らかにしようと努めていた。


 乾燥し萎縮していた異形の器官や異様な組織は、これまで見たこともない形状や色彩を持ち、それが正真正銘の異星生物だということを示していた。基本的に昆虫は気門や気管を介して空気を取り入れているが、どうやらこの生物には肺のような器官が備わっているようだ。それも、地球の大気に適応したモノが。


 ひとつの器官は紅紫の色調を帯び、凹凸のある不規則な形状をしている。表面には瘤状こぶじょうの隆起や細かなあなが点在し、まるで何かを排出するための器官のように見えた。その周囲には乾燥した濃い青色の物体が付着している。


 また、別の部位では奇妙な色合いの腫瘍しゅようのようなモノが分散している。淡い紫色や緑色が入り混じり、毒々しい色彩は触れることも躊躇ためらわせていた。その腫瘍は内臓全体に不規則に広がり、周囲の組織を圧迫していた。干からびている所為せいか、それらは異様に硬く、触れた瞬間にゾッとするような感覚が体内を駆けめぐり鳥肌が立つ。


 それでも解剖は冷たい空気と静寂のなかで進行する。サナエが用意した医療用の器具や観察機器が整然と並べられていて、解剖が進むにつれ、グロテスクな生物の内部構造が明らかになっていく。


 そこには背筋が怖気おぞけるような不気味な気配が漂っていた。異様な色彩と形状を持つ器官や組織は、生物が混沌の力によって変容し、未知の存在に変わり果てた様子が垣間見えるようだった。


 生物の謎を解くために、サナエたちは冷静な眼差しで調査を続ける。その一方で、未知の生物から得られる情報や、それがもたらす影響についての考えを巡らせているのだろう。


 突然、テント内の大気を監視していた装置が警告音を鳴らす。その鋭い音色はフロア全体に不気味に響き渡り、解剖を見守っていた調査員たちを恐怖させた。


 途端に不安が心を支配していく。何が起こっているのかすぐに調べる必要があったが、未知の病原体が化け物の体内から噴出された確証は得られなかった。


 ペパーミントは急いで大気中に含まれる汚染物質に関する数値を確認する。監視装置のディスプレイには、奇妙な化学物質が検出されたことが示されていた。それは腐敗臭ではなく、鼻を刺すような刺激臭であることも分かった。マスクを装着していなければ、大変な目に遭っていただろう。


 作業を中断し、安全対策について話し合うことになった。無菌テントで安全は確保されていたが、解剖された生物の体内から放出された化学物質が何であるのか、人体にどのような影響を及ぼすのか、さらなる調査が必要だった。恐怖と興味が入り混じった感情が、ペパーミントとサナエの心を揺さぶっているのだろう。


 現時点では明確な病原体や有害物質は確認されていなかったが、テント内は静まり返り、不穏な空気が漂う。それでも彼女たちは冷静さを保ち、生物の存在に関する手掛かりをつかむため分析と調査を続けることにした。


 すでにいくつかの特徴から、この化け物が遺伝子の操作によって造られた生物である可能性が浮上していた。地球の環境に適応した肺を持っていることもひとつの要因になっていたし、科学者を拉致しようとしていたことを考えると、やはり異星種族によって地球に送り込まれた〈生体兵器〉なのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る