第537話 少女
赤錆色の垂直に切り立った崖に視線を向けると、雲ひとつない青く澄んだ綺麗な空が見えた。まだ日が高く、暗くなるまで時間があるように思えたが、明るいうちにオアシスに辿り着けるのかは分からなかった。
古代遺跡の神殿を思わせる岩の建造物から出て、幅が広くて短い階段を下りていると、鳥羽色のウロコに黄金色の斑点が特徴的なオオトカゲが入り口近くまでのっそりとやってくる。のんびりした動きだが、どこか油断できない迫力がある。
黒紅色の外骨格を持つ戦士長は、大顎をカチカチ鳴らして現実離れした美しい少女に何か言葉を掛ける。けれど金属と電子回路からなる翻訳装置は、その音を我々が理解できる言葉に翻訳してくれなかったので、戦士長が彼女に何を伝えたかったのかは分からなかった。
少女は戦士長の言葉を否定するように頭を横に振ると、私の前まで歩いてくる。
「我らは塵の子と一緒に行く」
そう言った少女は、母親に抱っこをせがむ幼い子供のように私に両腕を伸ばした。その幼い仕草に困惑していると、彼女は眉をしかめる。
「この身体はとても繊細で、簡単に傷ついてしまうの」
ちらりと少女の足元に視線を向けたあと、彼女の背中と太腿に腕を回して、両腕で抱きかかえるようにして彼女の身体を持ち上げた。少女は見かけによらず体重があり、ずっしりと重たかった。
「それで、お姫さま」と、私は周囲に集まってきた数十体の昆虫種族を見ながら言う。「これからどうするんだ?」
彼女は真剣な表情で私の顔をまじまじと見つめる。
「ねぇ、我らはお姫さまじゃないよ」
「君の名前を知らなかったから、便宜上そう呼ばせてもらったんだ。とくに深い意味はないよ」
「そう」
少女は私から視線を外すと、何かを言おうとして口を開くが、結局なにも言わずに口を閉じた。彼女に嫌な思いをさせたのかもしれない。
「俺たちはこのままオアシスに向かうつもりだけど、君も一緒に来るんだよな?」
「ええ。刃の勇者と共に卑しい獣を殲滅したあと、我らも遺跡に向かう」
戦士長のオオトカゲに少女を乗せようと考えていたが、戦士長はすでに通りに出ていたので、彼女を抱いたまま歩くことになった。
石畳が敷かれた通りに出ると、カグヤの声が内耳に聞こえる。
『迂闊に過ぎるよ。得体の知れない化け物を胸に抱くなんて、どうかしてる』
「俺もそう思うよ」
私の言葉に反応して少女は表情のない顔で私を見つめる。
『体内にあの奇妙なミミズが侵入しないように注意してね』
「ハガネで全身を保護しているから大丈夫だと思う」
肌に密着するように全身を覆っているハガネは、肌着のように薄かったが、あの奇妙なミミズの牙でも傷をつけることは難しいだろう。
『そうだとしても!』と、カグヤは不満そうに言う。『レイは不用心すぎる』
「そうだな」
カグヤに返事をしたあと、都市と呼ぶにはあまりにも寂しげな通りに視線を向ける。列柱の側に立っていたインシの民は身動きせず、じっと我々のことを眺めていて、砂を巻き上げる風が吹くと、何処か遠くから人間の悲鳴が聞こえてくる。
「誰と話してるの?」と、少女は惹きこまれそうな瞳を私に向ける。
「仲間と話していたんだ」
「そんなこと知ってるわ。どうしてノイズしか聞こえないのか知りたいの」
「普通は会話が聞こえるものなのか?」
「ええ。我らの端末を使えば通信は簡単に傍受できるから」
「でも、俺の通信は無理だった」
「そう。理由を教えてちょうだい」と、彼女は偉そうに言う。
「俺にも理由は分からないよ」
彼女は疑わしそうな目で私を睨んで、それから言った。
「誰と話をしていたの?」
「カグヤだよ」
すぐ側に浮かんでいた偵察ドローンに視線を向けると、少女もつられてドローンに顔を向ける。
「不死の子か……」と、まるで世界中の誰もが知っている事実のように言った。
「どうしてドローンを遠隔操作しているのが不死の子供だって分かるんだ?」と少女に訊いた。
「あれが声を発するときに、ジジジってノイズが聞こえるの」
「ジジジ」と、私は意味もなくつぶやく。
「そう。人類は特殊なネットワークを使っているでしょ?」
「ああ」と私は話を合わせる。
「そのネットワークは、我らの技術を使えば簡単に侵入できる。でも、軍が使用している通信は難しい。不死の子供たちが使用しているモノはもっと厄介」
人造人間たちにはカグヤの声が普通に聞こえているようだったが、インシの民にはそれが出来なかった。なにか理由があるのだろうか?
そうこうしている内に、我々は戦士長のあとを追ってヴィードルを駐車していた広場まで戻ってきていた。その広場には黄土色の岩を削り作られた飾り気のない祭壇があり、その周囲にはボロ布をまとった無数のインシの民が座り込んでいた。
祭壇には生物の内臓が無雑作に積まれ供えられていたが、それが人間のモノか判断することはできなかった。もっとも、それが人間のモノだったからといって、我々にどうこう言える問題でもないのだろう。
ヤトの戦士と愚連隊がヴィードルに乗り込む様子を見ていると、ハクとラガルゲがやってくる。ハクの登場に少女は緊張したのか、私の首に腕を回して顔を近づけた。もしも私が思春期の男の子だったら、彼女のそのさり気ない仕草だけで恋をしていたかもしれない。
ハクは私に抱きかかえられていた少女の存在が気になっているのか、パッチリした眼で彼女のことをじっと見つめていたが、ラガルゲは舌をするすると出し入れしているだけで、少女に関心を持っているようには見えなかった。
「あれに乗せて」と、少女は量産型ヴィードルを指差した。
「残念だけど、あのヴィードルにはひとりしか乗れないんだ」
「そう。ならあの子に乗るわ」
言葉を理解しているのか、ラガルゲは太い脚を動かしてのっそりとやってくる。ラガルゲは我々が考えているよりもずっと賢いのかもしれない。
「仲間と一緒に行かなくてもいいのか?」と私は訊いた。
「我らに仲間はいないよ」
お前はそんなことも知らないのか? といった感じで少女は首をかしげる。
「そうじゃなくて、戦士たちと一緒に行動しなくてもいいのか?」
「我らは常に一緒に行動している」
「そうだったな……」
彼女と話をしていると、無駄な質問ばかりする滑稽な人間になった気がした。
ラガルゲの背に少女を乗せて側を離れようとすると、彼女は腕を伸ばして私の手首を掴んだ。
「一緒に乗って」と、少女は私を睨む。
「いや、俺は――」
「ダメなの。この手で手綱は握れない」
少女の傷ひとつない手のひらを見たあと、私は溜息をついた。
「カグヤ、ヴィードルを任せてもいいか?」
『いいけど、本当にソレと一緒に行動するつもりなの?』
「ああ」
『その少女の外見に惑わされていないよね』
「そこまで間抜けじゃないさ」
相手が異種族である以上、警戒しなければいけなのは当然だ。ラガルゲに声を掛けて、その背を撫でたあと少女の後ろに座る。
「うん。それでいい」と、彼女は満足そうに言ったあと私の身体に寄り掛かる。
何処からともなくぞろぞろと集まってきた戦士たちは、枯れ枝のようにも見える杖を手にしていたが、全ての個体がそれを所持している訳ではなかった。やはり戦士たちの間には階級のようなものが存在しているのかもしれない。
混戦に備えて、四十体ほどになっていたインシの戦士に味方だと示すタグを貼り付けていると、カグヤの声が内耳に聞こえる。
『レイ、もういつでも出発できるよ』
「了解。インシの民が動き出したら、俺たちも出発しよう」
『ウェイグァンの愚連隊を前に出すから、レイはハクたちと一緒に行動して』
「アレナの部隊は後方に?」
『うん。インシの民はあまりにも異質な種族だからね。一応、後方で警戒してもらうよ』
戦士長を先頭にインシの戦士たちが歩き出すと、我々もそのあとを追って移動を開始した。少女と一緒にラガルゲの背に乗っていたので、移動の際には苦労すると思っていたが、部隊は戦士長のオオトカゲに歩調を合わせていたので、ラガルゲに振り落とされる心配をせずに済みそうだ。
戦士長の動きを確認したあと、亀裂が入った岩壁に視線を向ける。すると岩壁に沿って木製の吊橋が架けられているのが見えた。そこにも数体のインシの民がいて、通りを移動していた我々に複眼を向けている。相変わらず敵意は感じられなかったが、探るような視線は落ち着かない。
「ねぇ、もうお姫さまと呼んでくれないの?」と、少女が振り向きながら言う。
「気を悪くしたんだと思っていたよ」
「別に嫌じゃない。我らに女王はいないから、教えてあげただけ」
インシの民は昆虫種族だから、アリやハチのように女王がいると考えていたが、そもそも昆虫種族ですらないのかもしれない。
「君の名前を教えてくれるか?」
「名前なんてないわ」
「それなら、君はなんて呼ばれたい?」
「砂漠の民、インシの民、ドラゥ・キリャンモ、呼びかたは自由よ。我らは気にしない」
「それはもう聞いたよ。そうじゃなくて、その身体を使っている君のことをなんて呼べばいい?」
「それは必要なことなの?」
「人間は互いのことを名前で呼び合うんだ」
「ふぅん」と、彼女はまるで関心を持っていないかのように言う。
ラガルゲの足元でカタカタと動き回っている機械を見ていると、少女の小さな声が聞こえる。
「あなたが決めて」
「難しいな……」私は頭を捻る。
「どうして?」
「君のことを知らないからだよ」
私が少女について知っている事と言えば、腐臭漂う閑散とした古代遺跡のような都市で、解体された遺体を雑に繋ぎ合わせたグロテスクな身体を持っていることくらいだろう。
「それなら、お姫さまでいいわ」と、彼女は胸を張る。
「わかった。これからはヒメって呼ぶよ」
「うん。我らは今からヒメだ」と、彼女は不思議な色合いの瞳を私に向ける。
彼女に見つめられていると、奇妙な感覚に囚われる。それは恋を知らない子供が自身の感情に振り回され、そして心が震えるということに戸惑う感覚にも似ているのかもしれない。彼女の容姿には人を惹きつけてやまない特別な力がある。
ある種の少女だけが持つ無垢な美しさは、たとえば触れてしまうだけでも壊れてしまいそうな繊細さや輝きは、思春期がやってきた段階で少しずつ失われていくものだと思っている。あるいは、性交渉と共に失われてしまうモノなのだと。そうして彼女たちは、綺麗ではあるけれど、何処にでもいる記憶に残らない女性に変化していく。けれど私の目の前にいる少女が持つ美しさは、その現実の外側にあるモノだ。
決して失われることのない美しさ。
彼女に似た特殊性を持った女性を知っている。ミスズやペパーミントも似たモノを持っているが、少女が持つ規格外の超自然的な美しさは、アシェラーの民である『リンダ』が身にまとう気配と似ている。それはこの世界の人間からは感じられない異質な気配だ。
ひょっとしたら、少女はアシェラーの民と何か繋がりがあるのかもしれない。けれど分からないこともある。どうしてリンダの一族と関係を持ったタイミングで、この異質な少女は我々の前に姿を現したのだろうか?
ふと通りの向こうに視線を向けると、仕立てのいい背広を着た人型の生物が立っているのが見えた。それはメンフクロウの頭部を持った得体の知れない生物だ。
『だってあれはあなたのために存在しているんだから。今もあなたの側にいて、色々な物事をあなたに結びつけている』
少女の言葉を思い出したときには、フクロウ男の姿は跡形もなく消えていた。幻覚、あるいは不吉な前兆のようなものにも感じられた。
「ねぇ、塵の子」と、少女は私の胸に後頭部を押し付けながら言う。
「うん?」私は彼女の質問に集中する。
「独りになって、どんなことを考えた?」
「ひとり?」
「すべてを失ったときのこと」と、彼女は溜息をつく。
「残念だけど、そのときのことは何も覚えていないんだ」
「また狂人のフリをするの?」
「そのつもりはないよ」
過去のことを思い出そうとするたびに、真っ暗な部屋に閉じ込められるような気がした。そこには沈黙と、何処までも続く深い暗闇があるだけだ。どれだけ叫んでも声は返ってこない。目の前には邪悪で陰鬱な、どこか馬鹿げた空間が広がっているだけだ。思い出せることなんて何もない。
「そう」と、彼女は冷たい声で返事をした。たぶん悪気はないのだろう。でも彼女に冷たくあしらわれると、十代前半の男の子のように傷ついた。
まるで思春期の男の子だ、と私は自嘲気味な笑みを浮かべる。
彼女は振り返ると眉を寄せて、それから言う。
「地を這うものたちが……あなたたちがコケアリと呼んでいる戦士の一団が砂漠に侵入したのを確認した。これから現場に向かうけど、あなたも一緒に来る?」
「ああ。知り合いがいるかもしれない」
「それなら、我らについてきて」
前方に視線を向けると、薄暗いトンネルの入り口が見えた。
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