第512話 矜持
暗闇に支配された空間に立っていると、得体の知れない視線を感じて背筋が凍る。しかしその恐怖について説明することは難しい。連続殺人鬼がその手に握りしめたナイフから、赤黒い血液を滴らせながら近づいてくる。という類の恐怖ではなく、それは例えば、とうの昔に亡くなった人間の皮膚を纏う何かが、床を這いながらゆっくり接近してくる際に感じる吐き気を催すような恐怖に似ている。
つまり、より悍ましいモノに対する感情、と言った方が分かりやすいかもしれない。連続殺人鬼に対処する術は存在するのかもしれない。しかし殺せないものに対して、我々はどのような心構えができるのだろうか。それが去ってくれるまで待つのか、それとも、なりふり構わず逃げ出すべきなのだろうか?
ちらりと暗闇に視線を向けると、じりじりと忍び寄る悍ましい気配を感じながら端末の捜索を続ける。
目的の端末を見つけて回収すると、我々は急いで役所を離れ、前哨基地に戻って撤収の準備を始めることにした。これ以上、得体の知れない変異体が潜む場所に留まることはできなかったからだ。
迎えの輸送機がやってくるまでの時間を利用して、私はイレブンと一緒に上階に向かい、放置されていたヴィードルを回収することにした。車両に覆いかぶさっていた枯草を処理すると、装甲板の隙間に腕を差し込んで小型核融合電池を交換してシステムを立ち上げる。そして接触接続でシステムに侵入して遠隔操作を可能にすると、車両を牽引できるように高速移動モードに切り替えて多脚の先にタイヤを出現させ、イレブンと協力してヴィードルを移動させる。
ちなみに車両の小型コンテナには、ヴィードルのかつての持ち主の所有物だったと思われる物資が大量に残されていた。そのほとんどはドロドロに腐った携行食品やカビの生えた衣類、それに予備弾薬だったが、荷物の中には見たことのないナイフも収められていた。
『綺麗なナイフだね』と、カグヤの声が内耳に聞こえた。『旧文明期の鋼材で製造された刃物だよ』
「特殊な合金で製造されたナイフか……」
『正式名称は知らないけど、精神感応金属とかって呼ばれていたモノだね。それに、持ち手には高周波振動発生装置が組み込まれているみたい』
「そいつはツイてるな」
『うん。解析して量産できるようになれば、各部隊に支給できるようになるかも』
「この貴重なナイフを置いていったってことは、こいつの持ち主はもっといい装備を所持していたんだな」
『遺体を探し出すのは困難だけどね』
「……そうだな」と、私は夜陰よりも濃い暗黒が立ち込める通路に目を向けた。「でもいつかは、本格的な探索がしたい」
輸送機がやってくるまで適当に時間を潰していると、階下で部下に指示を出していたワスダが上階にやってくる。
「目的のモノは手に入れられそうなのか?」
ひどく汚れたヴィードルの状態を確認しながらワスダが言うと、私はうなずいて、それから巨大な横穴から吹き込んでくる強風に顔をしかめた。
「都市の警備システムに接続するには、要人が使用していたアクセス権限が必要になるから、まだ手間がかかるかもしれない」
「手間ね……普通は接続すらできないモノなんだけどな」と、ワスダは呆れながら言う。
私は肩をすくめて、それから瓦礫に腰掛けたワスダに訊ねる。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないのか?」
「何が知りたいんだ?」
ワスダはライフルのボルト機構を確認しながら惚ける。
「俺たちと手を組むのは、所属していた組織が不死の導き手と合流したから、だけじゃないんだろ?」
ライフルのシステムもチェックしているのか、ワスダの義眼はチカチカと点滅していた。
「いつ配られるのかも分からない手札を待っていたら、何者にもなれないって気がついたときから、俺は自分自身の欲望に忠実に生きてきたんだ」
「つまり?」
「思い出したんだよ。俺が何をしたかったのかを」
十五センチほどの甲虫が草陰から出てくると、ワスダはタクティカルブーツに装着していたサバイバルナイフを抜いて、鳩羽色の鞘翅を叩いて昆虫を追い払う。その奇妙な甲虫は半透明の翅を大きく広げると、横穴の向こうに広がる大空に向かって飛んでいった。
「それで」と、私はワスダの横顔を見ながら訊ねた。「ワスダは何がしたいんだ?」
「兄弟は誰かに仕返しをしたことがあるか?」
私は横穴の向こうに見えていた廃墟の街に視線を向けて、それからうなずいた。
「ああ。思い当たる節があるよ」
「それなら、復讐がいかに気持ちのいいことか知っているはずだ。侮辱されたら、相応の仕返しをして、たっぷり後悔させる。そうだろ? 兄弟は誇りを知る男として扱われている。金で娼婦を抱くようなことがあっても、処女を犯すような男じゃないからな」
「それが復讐と何の関係が?」
「こいつは矜持の話だ」と、ワスダは私に視線を向ける。「俺たちのような人間は、他人に軽視されたら終わりだ。だから復讐は必要なんだ。俺たちを陥れようとするモノたちに思い知らせるために」
高層建築群の間で瞬く色彩豊かなホログラムを眺めながら私は訊ねた。
「俺たちと手を組むのは、そいつに復讐するためか」
「自慢じゃないが、俺には人を見る目があるんだ」ワスダは口の端に笑みを浮かべると、指先で頬骨を叩く。「そうでなければ、この世界では生きていけないからな」
「ワスダは俺たちの力を利用して復讐を果たすつもりなのか?」
「いいや、利用なんかしないさ。俺たちは共闘するんだからな」
「共闘?」
「俺が復讐したい相手は教団の人間なんだよ」
「そういうことか」と、私は溜息をついた。
「ああ、そういうことだ」
旧文明期以前の建物が立ち並ぶ通りから黒煙が立ち昇り、広範囲にわたって炎が広がっていくのが見えた。銃声は強風に掻き消されて聞こえてこなかったが、隊商を護衛している傭兵が無法者の略奪者たちと交戦しているのかもしれない。
「目的を思い出したのは、組織が教団と組むことになったからなのか?」
私の問いにワスダはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「そうだ。死んだと思っていた人間が教団の幹部になって、のうのうと生きているって知ったからな」
「相手はワスダのことを知っているのか?」
「一度は殺したと思っていた相手だからな」
「因縁のある相手か……ワスダたちに追っ手を差し向けたのはそいつか」
「殺すには惜しい戦力だった。だから俺たちが鳥籠で相手にした傭兵団みたいに、洗脳しようとしたんだろうな」
「あるいは人造人間の身体に意識を転送されて、自意識のない信徒のように、教団の敵と戦うように強いられていたのかもしれない」
「奴らなら、躊躇うことなくやっていただろうな」
『その因縁の相手っていうのは?』カグヤが訊ねると、ワスダは顔をしかめる。
「俺が泥水を飲んで空腹感を誤魔化していたガキの頃につるんでいた男だ」
『複雑な事情があるみたいだね』
「大抵の物事には、大小様々な問題が付きまとうんだよ。大事なのは、事態が悪化する兆候を見逃さないことだ」
『ワスダはその兆候を見逃した』
「そして取り返しのつかない事態に陥った。よくある話だ」
『でも昔話をするつもりはないんでしょ?』
カグヤの質問にワスダは苦笑する。
「退屈な話だからな」
『それでどうやって私たちはワスダのことを信用すればいいの?』
「兄弟は己の信念に従って生きている男だ。その粗削りの機知と、醜悪を感じ取る俊敏さ、そして偽物に対する嫌悪で真の悪人を見抜くことができるはずだ。そして俺が見込んだ男なら、端から俺を疑うようなことはしない」
『レイの能力を買ってくれているみたいだけど、都合のいい言い訳にも聞こえる』
「判断するのは兄弟だ。お前じゃない」
『嫌な感じだね』
「正直なんだよ。それともお前は、実体のない奇妙な存在におべっかを使う男が好みなのか」
『私の好みはレイの邪魔をしない人間で、みみっちい軽蔑を口にしない人間だよ』
ワスダは肩をすくめると、建物に接近してくる輸送機に視線を向けた。
コンテナに物資を積み込み、ヴィードルを吊り下げられるようにワイヤロープでしっかり固定すると、我々は兵員輸送用のコンテナに乗り込んだ。ミスズとナミは不測の事態に備えて輸送機のコクピットに向かい、ワスダは部下たちのもとに戻った。
開放されたコンテナハッチから、眼下に広がる風景をじっと眺めていたハクの側を離れると、ポツリと座っていたリンダの側に行き、彼女のとなりのシートに座った。
「仲間たちと連絡は取れたか?」
私が訊ねると、彼女は無骨なガスマスクを私に向けた。
『うん? あぁ、すまない。家族とはちゃんと話がついたよ。もうすぐ会える』
「なんだかぼうっとしていたみたいだけど、大丈夫か?」
『ありがとう、レイラ。でも私は大丈夫だ。あそこまで暗くて、危険な場所を探索したのは初めてのことだった。だから少し戸惑っているんだ』
「その気持ち、よく分かるよ。ミスズと二人だけで探索したときには、散々な結果に終わったからな」
『そうか……レイラたちは、毎回あんな危険な場所を探索しているのか?』
「いや」と、私は頭を横に振った。「今回はどうしても必要だったから探索しに来たんだ。本来はもう少し入念な準備をした上で、探索に来るべき場所だからな」
『私たちのために無理をしてくれたのか?』
「俺たちのためでもある。だからリンダが卑屈になる必要はないよ」
『もちろん私たちに協力できることは何でもするつもりだ。でもそれでも、この恩に報いることができるとは思えないんだ』
「リンダが何を考えているのか、なんとなく分かるよ。急に親切な人間が現れて戸惑っていることも分かっている。でも――そうだな……」と、私はハクに視線を向けながら言う。「大きな見返りを求めない変人のように思っていることも知っている。でも、これから俺たちが築いていこうとしている関係性は、必ずしも勝者と敗者がいなければいけないって関係性じゃないんだ」
『敗者のいない関係性……?』
「そうだ。どちらか一方だけが勝者になるんじゃなくて、手を携えて互に協力する。そういう関係性のことを話しているんだ」
『この世界で、本当にそんな関係性が実現できるとレイラは信じているのか?』
彼女の問いに私は何を話すべきなのか慎重に考えて、それから言った。
「いや、信じてないよ。でも実現できるように努力するつもりだよ。俺は平和主義者でも、敗北主義者でもない。だから協力者になる相手は選ぶし、必要のない人間は容赦なく切り捨てるかもしれない」
『私から救いを求めておいて、こんなことを言うのはすごく失礼なことだと思っている。でもレイラが私たちを信用するのは、私の家族が流民だからだ』
「たしかに弱みに付け込んでいるように見えるな。保護する代わりに、奉仕を強制している。他人の目には、そう映るのかもしれない」
『でも現実は違う。レイラは互いを尊重して、協力し合える同志を求めているから……』
彼女のガスマスクを通して聞こえる不明瞭な言葉に私はうなずく。
「こんな世の中だ。理解するのは難しいと思うし、滑稽な考えに聞こえるかもしれない。でも俺はそうやって仲間たちと信頼関係を築いてきたんだ」
「だから言っただろ」と、向かいのシートに座っていたワスダがニヤニヤしながら言う。「兄弟を理解するのは難しい。でもな、そいつは陋劣な人間じゃない。それでも信じられないなら、こう考えればいい。兄弟は俺たちと違う考えや文化をもった星からやってきた宇宙人なんだってな」
『レイを褒めてるの? それともバカにしてるの?』
カグヤの言葉にワスダは笑みを見せて、それから後部ハッチに視線を向けながら言った。
「さぁな。それより厄介なことになってるみたいだ」
ハクのとなりに立つと、九階建ての集合住宅から、我々に向けてアサルトライフルの銃弾を浴びせる略奪者たちの姿が見えた。恐らくコンテナから吊り下げられていたヴィードルが目立ってしまっているのだろう。彼らは建物屋上から、容赦なく銃弾を撃ち込んできていた。
輸送機はシールド生成装置によって力場の膜で覆われていたので、旧文明期以前の火器で使用される弾丸は無力化される。だから略奪者たちがやっていることは銃弾の無駄遣いでしかなかったが、ワイヤロープで吊るされているヴィードルは無防備だった。
「ここで貴重なヴィードルを失うわけにはいかないな」そう言ってライフルを構えると、ミスズの声が内耳に聞こえた。
『ここは私に任せてください』
バルカン砲が搭載された輸送機の機首が建物屋上に向けられると、銃弾が発射される騒がしい音と共に砲身が高速回転する特徴的な音が響き渡る。機首に取り付けられていたカメラの映像を確認すると、立ち昇る砂煙の向こうに、身体をバラバラに破壊された略奪者たちの肉片が転がっているのが見えた。
「圧倒的な火力だな」
感心していると、ワスダの声が聞こえた。
「どこからあんなものを調達してきたんだ?」
『ジャンクタウンだよ』と、カグヤが答える。『ジャンク品を専門に扱う『ヨシダ』って知り合いがいるから、使えそうな遺物が持ち込まれたら、スクラップにしないように頼んでおいたんだ』
「修理したのは、あの綺麗な姉ちゃんか?」
『そう。ペパーミントとサナエが修理してくれるから、鉄屑としての価値しかないようなジャンク品も有効活用できるようになったんだよ』
「ジャンク品か……」と、ワスダは何かを考えながら腕を組む。「危険過ぎてスカベンジャーすら近寄らない廃棄場を知ってるけど、興味あるか?」
『使えそうなものがあるの?』
「あのバルカン砲を修理できるなら、使えそうなものは幾らでも転がってる」
「その廃棄場は何処にあるんだ?」
私が訊ねると、ワスダは位置情報を送信してくれる。
「砂漠地帯の近くにクレーター群があるのを知っているか?」
「湿地のような奇妙な場所なら知ってるよ」
「廃棄場はそのすぐ近くにある」
「そうか……」と、私は地図を確認しながら言う。「警備システムにアクセスできるようになったら、ヤトの部隊を編成して、一度探索に行ってみるのもいいかもしれないな」
『ハクもいっしょにいく』と、白蜘蛛は床をベシベシと叩いた。
収集癖のあるハクも、ジャンク品には興味があるのだろう。
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