第446話 欲
コケアリとの予期せぬ接触のあと、我々は水晶の影響から逃れるために山岳地帯を離れ、大樹の森にある境界の守り人たちの拠点に来ていた。基地への訪問は元々予定していたもので、拠点で必要とされる物資に関する相談を行うことになっていた。しかし想定していたよりも早く到着した為、我々は境界の偵察に向かったテアの帰りを待つことになった。
暇になった私は、建設人形のスケーリーフットが築いた防壁の頂上に用意された監視所に向かった。二十メートルほどの高さがある防壁から眺める大樹の森に大きな変化は感じられない。大樹が聳え立ち、苔生した太い幹には冬でも枯れることのない青ざめた植物が絡みついている。視線をもっと高い位置に向けると、奇妙な毛虫の群れが枝の先にいて、一生懸命に草を食んでいる姿が見えたが、人間の活動に対して興味がないように思えた。大樹の森は氷点下であるにも拘わらず、昆虫型の変異体は活動を続けているようだった。
混沌の領域を封じ込めるために生成されている半透明のシールドをぼんやりと眺めていると、トゥエルブを連れたペパーミントがやってくる。ちなみに戦闘用機械人形を自在に操ることができるトゥエルブには、ペパーミントの護衛を任せていた。
「ミスズたちはどうしたんだ?」
「蟲使いたちに案内されて備蓄倉庫に向かったわ」と、彼女は監視所に設置された転落防止用の壁に寄りかかりながら言う。「物資の横流しが行われていないか、確認するみたい」
「ジュリに頼まれていた仕事だな……ハクとマシロはどうしてる?」
「ララを連れて遊びに行ったわ」
ペパーミントの言葉にうなずいたときだった。森の何処からか大きな悲鳴が聞こえた。それは鹿の鳴き声にも似た奇妙な音だった。私はしばらく森の音に耳を澄ませたが、吹き荒ぶ風の音しか聞こえてこなかった。
「それで」とペパーミントは言う。「気持ちは落ち着いた?」
「ああ」と、私は作り笑いを浮かべながら言う。「今は最悪な気分だけどな」
「どんな気持ちなのか教えてくれる?」
「後悔と羞恥」
「どうして?」
「コケアリに失礼な態度をとった。それに……言わなくても分かるだろ?」
ペパーミントは私に青い瞳を向ける。
「カグヤとトゥエルブには謝ったんでしょ?」
「酷いことを言った。それを取り消すことはできない」
「本心じゃなかったんだから、気にすることは無いと思うけどな」
「それは決めるのはカグヤだよ」
ペパーミントは溜息をつくと、大樹の幹を移動している白蜘蛛に視線を向ける。マシロとララの姿は見かけなかった。
「それはそれとして」と、ペパーミントは話題を変えた。「作業用ドロイドたちに協力してもらって、結晶の森にある大きな水晶の塊を回収しようと考えているの。どう思う?」
「研究のために必要なサンプルなら、すでに回収したんじゃないのか?」
「大きな塊じゃないと調べられないこともある」
「あのコケアリの言葉を信じるのなら、それは危険な行為なんじゃないのか?」
「そうね。横浜の拠点にはイーサンの部下だった元傭兵たちもいるから、子供たちを危険に晒すことになる。だから聖域に続く地下トンネルがある洞窟で研究しようと思う」
「それなら警備の数を早急に増やした方がいいな……ところで、ペパーミントは大丈夫なのか?」
「水晶の影響なら心配する必要は無いかな。まだちゃんと調べていないから、ハッキリしたことは言えないけど『草々の囀り』が言ったように、あの水晶の毒に影響を受けるのは、人間の感情だけだと思う」
「人間だけか……ペパーミントは他の生物と人間の違いはなんだと思う?」
ペパーミントは綺麗な顔をしかめて、それから白い息を吐きながら言った。
「複雑な感情かしら?」
「ヤトの一族や、人造人間にだって複雑な感情はある」
「具体的に言うと、果ての無い欲望だと思ってる。極端に過ぎるけど、聖書で描かれたアダムとイブの原罪だって、人間の欲望に付け込まれる話でしょ? 欲望は人間と切っても切れない関係にある」
「禁断の果実に関する物語のことを言っているのか?」と私は苦笑する。
「そう」ペパーミントは悪戯っぽい笑みを見せて、それから言った。「水晶が光を反射した際に発する可視光線が、人間の精神に何かしらの影響を及ぼしているんだと思う。宝石のように美しい水晶の輝きに、人間の心は抗えないんだよ。きっと」
「でも俺は宝石に興味は無いよ」
「問題はそこなの」
ペパーミントは白い息を吐くと、凍えるような冷たい風に身体を震わせた。私は羽織っていた外套を脱いでペパーミントに着せた。
「別に必要なかったのに」と彼女は上目遣いに言う。
「俺にはハガネがある。だから寒さは気にならないんだ。気にしないで使ってくれ」
「でも頬が赤くなってる」ペパーミントはそう言うと、そっと私の頬に触れる。彼女の手は氷のように冷たかった。
「大丈夫だよ。それより何が問題なんだ?」
ペパーミントは外套のポケットに手を入れて、それから転落防止用の壁から身を乗り出していたトゥエルブを見つめる。
「これは推測でしかないけど、水晶の輝きに影響されるのは、人間の自己意識のずっと深いところにあるものだと思うの。それこそ本能と呼ばれるようなものが、強く影響を受けてしまう」
「宝石が欲しいのかどうかが問題なんじゃなくて、本能的に何かを求めるようになることが問題なのか」
「そう」とペパーミントはうなずいた。「人間の欲深さの根幹にあるものは、自己意識が確立していく過程で生じたものだったから、それを完全に消し去ることはできない。そしてあの水晶の輝きは、人間の欲を刺激する何かしらの効果を持っている。それの正体が何かはハッキリと分からないんだけどね」
「俺にも分かるように簡単に説明してくれるか?」
ペパーミントは大樹の間に糸を張っているハクに視線を向けて、それから言った。
「そうだな……以前、レイに草食動物の話をしたことは覚えてる?」
「ああ、記憶の継承についての話なら忘れてないよ。草食動物の子供が産まれて間もないのに、すぐに歩けるようになるのは、周囲に危険な生物がいることを本能的に知っているから。それに、熱帯雨林で暮らす野生動物が誰に教わることも無く、毒のある植物や木の実を避けるのも、ある程度の知識を持って産まれてくるから、とかなんとか」
「そう。でも人間の赤ちゃんにはそう言った知識は無い。他の動物よりもずっと未熟で、生き残る術を持たない赤ちゃんはどうやって身を守ると思う?」
「……母親に保護を求める」
私の言葉にペパーミントはうなずく。
「人間の自己意識は、まず自身が生存できるための環境を手に入れようとするの」
「生きたいという欲望が誕生するんだな」
「ええ。でもそれは切っ掛けでしかない。次第に子供は気がつくの。泣くだけで母親になんでもしてもらえるって。自分は保護されるべき命なんだって」
「それは極端な考えじゃないのか?」
「そうかしら?」
「生きるのに精一杯の子供が、本当にそんなことを考えるのか?」
「未熟で未発達な脳が、外部から得られる情報をもとに幻想を見せているのかもしれない。でも確かにひとつの事実として、人間は赤ちゃんの頃に得る幻想を生涯抱えて生きることになる」
「幻想?」と私は首を傾げる。
「これはデータベースのライブラリーで見つけた日本人の心理学者が残した著書の受け売りなんだけど、彼は産まれたばかりの子供が、親から絶えず与えられる経験によって生じる全能感にも近い感情を『私的幻想』と呼んで、自己愛の起源だと書いている。そして同時に、そこで人間の動物としての本能が壊されてしまうとも」
ペパーミントが話したことを自分なりに解釈してから私は言った。
「異常なまでの加護を受けながら育てられて、全てが思いのままに実現するなら、確かに生きるための努力を放棄するかもしれない。でも現実はそうじゃない。子供だって普通に生きていれば、思い通りにならないことがこの世界に存在すると気がつくはずだ」
「そうね。だからこそ人間は本能に深く根付いた幻想を抱えながら……つまり、心の内に抱えた欲望との折り合いをつけながら、生きていかなければいけなくなる」
「欲望という爆弾を抱えた人間にとって、水晶が発する毒は危険すぎるんだな……」
「レイは宝石を必要としていない。でも胸の内に巣食う欲望は常に何かを求めている。そこには簡単に手に入らないものも含まれている。その欲望を刺激され続けることで、自意識との間に齟齬が生じる。人間は常に感情を制御している生き物でしょ? だから怒りが込み上げてくる。私はこれが欲しいのに、どうして手に入らないんだって、子供のように癇癪を起す」
「それがあの水晶によって引き起こされる現象なら、確かに結晶の森は人間にとっては恐ろしい場所だな」
「そうね」とペパーミントはうなずいた。「でも分からないこともあるの」
「なにが?」
「レイは不死の子供で、普通の人間よりもずっと高いストレス耐性が備わっている。それなのに、どうして感情をかき乱されるんだろう?」
「それは俺にも分からないよ」
「マーシーがレイに話した第五の人類が関係しているのかな」
「不死の子供でありながら、純粋な人間に近い得体の知れない何か?」
「そう」
「どうだろうな。分からないよ」
何処からともなくララを抱えたマシロが飛んできて、転落防止用の壁に座る。見ているだけでハラハラする光景だったが、飛べるからなのか、マシロが恐怖を感じている様子は無かった。
「水晶が人間にとって危険なことは分かったけど、水晶が持つ熱を吸収する特性は捨てがたい」
私の言葉にペパーミントはうなずく。
「草々の囀りは、水晶の大きさに関する発言もしていたから、まずはそれを手掛かりにして色々と実験しようと考えてる」
「それって人間を使った実験だよな」と私は顔をしかめる。
「もちろん」と彼女は笑みを見せる。「少しマッドサイエンティストっぽい?」
「そうだな。レイダーでも捕まえるのか?」
「まさか。拠点にいる誰かに協力してもらう」
「危険性のある実験だな」
「実験のための適切な環境はつくる」
「護衛がトゥエルブだけなのは心許無いな。ヤトの部隊が派遣できないかイーサンと相談してみるか……」
ハクが大樹の間に張った糸を振り子のように使って監視所に跳んでくると、それまでじっとしていたララがマシロの腕から離れて壁の上を歩いた。
『なんだか嫌な気配がする』とララは言う。
「嫌な気配……もしかして敵が近づいて来ているのか?」
『あっちから、たくさんくる』と、ハクは混沌の領域とは反対の方向を長い脚で指した。
『正体不明の生物の群れがワヒーラの索敵範囲内に入った』と、それまでずっと黙り込んでいたカグヤの声が内耳に聞こえた。『移動速度が速い。すぐに戦闘の準備をして』
「分かった。ペパーミントはララを連れて防壁内の避難部屋に移動してくれ」
「レイはどうするの?」と、ペパーミントはララを胸に抱きながら言う。
「敵を迎え撃つ。ミスズたちにも連絡して戦闘の準備をさせてくれ」
『もう連絡した』とカグヤが言う。
防壁の下に視線を向けると、五十センチほどの体長を持つ黒蟻が次々と地面から這い出して、武装した蟲使いたちと合流する姿が見えた。
「ハク、俺たちも行こう」
『てき、たおす』
ハクは興奮しているのかフサフサの体毛を逆立たせ、長い脚で私を抱くと、一気に跳びあがった。落下に伴う浮遊感のあと、ハクは大樹の間に張っていた糸を利用して枝に着地する。そして間髪を入れずに糸を吐いて、隣の大樹に向かって跳んでいく。
『てき、みつけた』
ハクは私のことを枝にそっとおろすと、空中に跳び上がり、そして凄まじい速度で飛んできた化け物に組みついた。ミミズクにも似た鳥類型の化け物はバランスを失い、ハクと共に地面に落下していった。ハクのことは気になったが、次々と姿を見せる化け物に対処しなければいけい。ライフルを構えると、フルオート射撃で銃弾を撃ち込んでいく。
鳥類型の化け物はすぐに私の存在に気がつくと、甲高い鳴き声を上げ、私に向かって急降下してくる。恐ろしい速度で迫ってくる化け物の突進を避けるために空中に向かって跳びあがると、私が先ほどまで立っていた枝に化け物が衝突して、その勢いで太い枝を破壊した。化け物の攻撃力には驚かされたが、それよりも自分の身の安全を確保しなければいけなかった。落下している私に向かって急降下してくる化け物をすんでのところで躱すと、化け物の巨大な翼に掴まる。ミミズクにも似た化け物は暴れ、私を振り落とそうとするが、私はハガネを操作して左腕の前腕に銃口を形成すると、化け物の翼に向かって貫通弾を撃ち込んだ。
翼を失った化け物が大樹の幹に衝突する前に、私は化け物から離れていたので、凄まじい衝撃に巻き込まれることは無かった。しかし別の化け物に組みつかれ、そのまま地面に落下していった。僅かに雪の積もる地面に衝突する瞬間、私はハガネの鎧で全身を覆うと同時に、化け物が下になるように身体を移動させる。
衝突と共に雪煙が舞い上がる。私は地面に投げ出されて転がると、すぐに立ち上がって化け物の攻撃に備えた。が、翼が折れた化け物は甲高い鳴き声を上げ、倒れたまま暴れていた。そこに蟲使いたちに率いられた黒蟻の群れが現れて、強靭な顎で化け物に噛みついていく。黒蟻は一度でも噛みつくと、化け物がどれほど暴れようと決して離れることは無かった。そうして気がつくと、数え切れないほどの黒蟻に噛みつかれた化け物は動かなくなる。
『レイ』とカグヤが言う。『油断しないで、敵は残ってる』
私はうなずくと、大樹の間を飛行していた化け物に銃口を向けた。
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