第436話 命の小屋
森を抜けて砂漠に出ると、先程まで我々のことを執拗に追っていたペレーワの動きが止まる。汚れた毛皮を持つ醜い獣は、森と砂漠の境界までやってくると我々に向かって騒がしく吼えた。けれど獣は日の光に怯える吸血鬼のように、樹木の陰に隠れ、決して砂漠に出て来ようとはしなかった。我々はしばらくの間、森と砂漠の境界線を挟んで対峙していたが、やがて獣はジメッとした嫌な視線を残して、森の深い場所に引き返していった。
『安心しろ、奴らは森から出ない』ニヤを抱きかかえていたラロはそう言うと、私とハクが運んできた豹人の死体に眼を向ける。
『もう大丈夫です』と、銀鼠色の毛皮を持つニヤは言う。『ありがとう、ラロ』
ラロはうなずいて、それから彼女を砂漠にそっとおろした。
『深淵の使い手、貴方にも感謝をしないといけませんね。同胞の亡骸を運んでくれて、ありがとうございます』
「勇敢な戦士だった。だから森に置いていけなかった」私はそう言うと、見守る者たちに遺体を引き渡す。「それはそうと、さっきの閃光はなんだったんだ?」
ニヤは極彩色に輝く瞳を私に向けた。
『混沌の生物に対してのみ効果を発揮する『お呪い』です。あの閃光を受けたものは、一時的ですが、身体機能が麻痺して動けなくなります。あれほど大きな身体を持つ生物に対しての殺傷能力はありませんが、私たちが逃げるための時間を稼ぐのに適したお呪いだと思いました』
「そのお呪いも、イアーラ様に関係した能力なのか?」と私は訊ねる。
『そうです。詳しくは話せませんが、イアーラ族のなかには私のように女神イアーラ様から特別な祝福を受けて、この世界に産まれてくるものたちがいます』
「祝福? それは身体機能に変化をもたらす奇跡のようなものか?」
『はい』ニヤはうなずき、それから真っ白な砂漠に視線を向ける。『ヴィチブラナ砦に向かいましょう。森では多くの血が流れました。砂漠に巣くう怪物が、この騒ぎを嗅ぎ付けて姿を見せるかもしれません』
「砂漠の怪物か……それもこの世界にやってきた混沌の生物なのか?」
『いえ、この世界の原住生物です。しかしペレーワよりも危険な生物です』
「それなら、すぐに移動したほうがいいな」
ミスズたちのもとに向かうと、先程の戦闘で彼女たちが負傷していないか確認する。幸いなことに、ミスズたちは後方で戦っていたので負傷することは無かったみたいだ。しかし彼女たちを守りながら戦っていた見守る者たちには、それなりの数の負傷者が出ていた。
大型のペレーワが投げつけた石によって、腕や足の骨を折られていた者たちはまだマシな方だった。凄まじい勢いで飛んできた岩をまともに受けていた豹人のひとりは、装備していた鎧を完全に破壊されていた。豹人たちの鎧には旧文明の鋼材が使用されていたが、鎧の大部分は動物の骨を加工してつくられていたので、衝撃に耐えられなかったのだろう。
ラロたちと協力して豹人の鎧を脱がせると、砕かれた鎧の破片が胸部に深く突き刺さっているのが見えた。小指の爪ほどの大きさの傷口が複数あるようだった。それらの破片は肺に届いているのか、豹人は息をするのも苦しそうな状態だった。肺を損傷したことで肺胞内が無酸素状態になっていて、呼吸障害を起こす肺虚脱を起こしかけているのかもしれない。
『呼吸不全を起こしかけている』とカグヤが言う。『レイ、オートドクターを使おう』
ショルダーバッグから救急ポーチを取り出し、灰色の毛皮を持つ豹人の傷口に清潔な水を適当にかけて傷口を洗う。豹人の男性は女性たちと違って、胸部の体毛が多いので、完全に傷口を綺麗にできているのかは分からないが、何もしないよりかはいいだろう。それから常時温度管理がされているケースから注射器を取り出し、豹人の胸に注射を打った。
「これで取り敢えず安心だな」
コンバットガーゼで傷口を保護したあと、ラロに協力してもらいながら包帯を巻いていく。周囲に集まっていた豹人たちは不安そうにしていたが、オートドクターの効果を知っているラロは表情を変えることなく治療を手伝ってくれた。それから私は別の豹人のもとに向かう。そこではミスズとナミが豹人たちの治療を行っていた。
先程の戦闘で消耗した自分自身を含め、重傷者にはオートドクターを使用することになった。それなりの数の注射器を用意していたので、重傷者の治療が間に合わない状況にはならないだろう。それに、オートドクターが豹人たちの身体にも効果があるのは、すでに大樹の森で確認していたので心配することはないだろう。
負傷者たちの応急処置を手早く済ませると、我々は森の側を離れ、白い砂丘が何処までも続く砂漠に向かって歩き出した。負傷者がいるために移動速度は遅くなったが、我々はニヤが出現させた石畳の道を使って幾つかの砂丘を越えて、ヴィチブラナ砦に向かって順調に進んでいた。
『負傷者の治療に感謝します』と、私のとなりに並んだニヤが言う。
「気にしないでくれ」と私は答える。「俺も油断していたんだ。まさか森があんなにも危険な場所だとは思わなかった」
『警告はしましたよ』
「確かに警告はしてくれたな。それでさっきの閃光だけど」
『まだ何か?』
「混沌の生物に効果があるって言っていたけど、それは絶対なのか?」
ニヤは腕を組んでみせると、青く澄んだ空にかかる光の帯を眺める。
『お呪いの効果に個人差はありせん』
「うん?」と私は首を傾げる。
『イアーラ様は子供たちの信仰心を試すようなことはしません。だから私の能力が不足している。ということは絶対にありません』
「いや、ニヤの能力を疑っている訳じゃないんだ」私はそう言うと、白蜘蛛に視線を向けた。ハクは砂丘の頂上付近で空に向かって脚を高く上げて、腹部を軽快に振りながら妖しい踊りを披露していた。「ほら、ハクは混沌に関係のある生物だと言われていたけど、あの閃光には反応しなかっただろ?」
『あの娘は別です』
「と言うと?」
ニヤはイアーラ族の女性だけが持つ美しい瞳を輝かせて、それから唸るように言った。
『彼女は私たちのように、混沌と秩序の狭間にいる存在ではなく、それ単体でひとつの事象として存在しています。ですからお呪いの効果が出なかった。それだけのことです』
「事象? 自然現象や神のような存在ってことか?」
『はい。それに彼女は産まれたばかりの生命のように無垢な存在です』
「それについて詳しく教えてくれないか?」
『難しいです。たとえば貴方は彼女の母について、どれほどのことを知っていますか?』
「残念だけど、ほとんど何も知らないんだ」
『それでよく深淵の娘と一緒に行動できますね』
ニヤの棘のある言葉に私は肩をすくめる。
「俺たちとハクの関係は色々と複雑なんだ」
『でしょうね』
「ニヤは人間が嫌いなのか?」
『どうしてですか?』と、ニヤは前方に視線を向けたまま言う。
「そんな気がしたんだ」
『そうですか』ニヤは素っ気無く言うと、鼻に皺を寄せるようにして顔をしかめた。『でもそうですね、彼女の母親は深淵の闇からやってきたと言われています。それくらいは知っていますよね?』
「ああ、聞いたことがあるよ。でもその深淵の闇っていうのはどういうことなんだ? それは混沌の領域のことなのか?」
『いえ、空のずっと向こうにある闇のことです』
ニヤはそう言うと青い空に視線を向ける。
『やっぱり宇宙からやってきたんだね』とカグヤが言う。
「そうみたいだな」
『まあ、空間の歪みが生み出す『門』も、宇宙の何処かの惑星に繋がっていることもあるみたいだし、そういうことがあっても不思議じゃないのかもね』
カグヤの言葉に反応して思わず空に視線を向けた。虹のようにも見える光の帯の向こうに名も知らぬ星が浮かんでいるのが見えた。この星と近い距離にあるからなのか、それとも単純に巨大な星なのかは分からなかったが、空の一点に集中して浮かんでいた三つの星は驚くほど大きく見えた。と、砂丘の頂上からハクが転がってきて、白い砂に埋もれながら可愛らしい声でゲラゲラと笑う。ララを抱いていたマシロは、ハクの行動に呆れ顔を見せながらも、ハクの側にふわりと飛んでいく。
そのマシロはララを何処まで一緒に連れて行く気なのだろう?
『……深淵の闇は』と、咳払いしたニヤが言う。『大いなる世界の創造に関わったとされる古の神々が誕生する遥か以前から、そこに存在し続けていた領域だと語られています。神々でさえ知り得ない生命の秘密を抱えている場所だとも』
「生命の秘密か……その大いなる世界って言うのは?」
『創世紀から第一紀にかけて存在した世界の俗称です。ありとあらゆる領域が繋がり、そこでは多種多様な種族が共存していたと語られています』
「イアーラ族に伝わる神話のようなものなのか?」
『はい。興味がありますか?』
「そういう話は好きだ。いつまでも聞いていられる」
『多くの種族の間でも同様の神話が語られるので、今ではそれを調査し、探求する種族も存在していると言われています』
「神話学のための組織みたいなものか?」
『いいえ。異界の何処かに、大いなる世界に関する膨大な知識を収めた図書館が存在していて、その空間は知識を尊ぶ種族によって管理されています。しかしその存在を否定するものたちもいるので、図書館が実在するのかは誰にも分かりません』
「あの領域のことだな」と、視線の先に見えてきたヴィチブラナ砦の防壁を眺めながら私は言う。「その種族になら会ったことがあるよ」
『まさか』ニヤは鼻で笑うと眼を細めた。『その領域は神々でさえ自由に立ち入ることができない場所だと言われています。深淵の使い手である貴方は確かに特別な存在なのでしょう。けれど図書館が貴方のために門を開くなんて、そんなことはあり得ません』
「詳しくは知らないけど、あの世界は知識を求めるものだけに開かれるんだ。だから神と言われるような存在が図書館を見つけられないのも無理はない」
ニヤは眼を細めて私のことをじっと睨んでいたが、やがて眼を大きく開いた。
『それなら、貴方は本当に神話で語られるような世界に行ったことがあるのですか?』
「ああ。図書館内部の様子を記録した解像度の低い映像データも持っている」
『そのときのことを詳しく教えて欲しいです』
ニヤは興奮しているのか、瞳を輝かせながら私の手を取る。
「それならこうしよう」と私は何故か条件をつける。「俺はニヤに図書館についてのことを話すから、ニヤはイアーラ族の神話について教えてくれ」
『分かりました。イアーラ族の図書館に保管されている情報を貴方に開示します』
「図書館って、あの都市にあった?」
『そうです』
「分かった。落ち着いたら話そう」
ヴィチブラナ砦の大門を通って砦内に入ると、我々は見守る者たちの護衛に感謝をした。死傷者を出してしまったことに後悔はあったが、回避することの出来ない結末も存在する。身内にその不幸が降りかかる日がくるかもしれないと考えるだけで、嫌な冷や汗をかいたが、我々にできることはそのときに備えて最善を尽くすことだけだった。
『レイラ』とラロが言う。『こっちだ。ついてこい』
「何処に行くんだ?」
『ヴィチカバヤを見せる』
「こっちの世界の砦にも、同じものがあるのか?」
『ああ。他の場所にもある』
ミスズとナミも興味があるのか、私のあとについてきたが、ハクとマシロはララに案内されながら何処かに行ってしまう。ちなみに地面をトコトコと歩くララの後ろ姿は、何処からどう見ても本物の猫にしか見えなかった。
半円球状の屋根をもつ石積みの小さな建物が視線の先に見えた。妙に低い建物の入り口は幅が広く取られていて、地下に続く階段が設置されている。周囲には武装した見守る者たちが立っていたが、我々に簡単な挨拶をするだけで、建物に入ることについて何かを言うことは無かった。ニヤとラロが側にいるからなのかもしれない。
短い階段の先に広がる部屋は明るく、思っていたよりもずっと広い空間になっていた。部屋の中央には、巨人の石棺にも見える巨大な物体が鎮座していて、それはドーム状の天井から垂れ下がる無数のケーブルや装置に繋がっていた。まさか豹人たちの世界で大掛かりな機械を見ると思っていなかったので少し驚いた。
石棺のような装置の側には、石棺と同様の何かの石材でつくられた巨大な台座があって、そこには先程の戦闘で亡くなった戦士の亡骸が載せられていた。その頭部のない豹人は衣服を身につけていない状態だった。
『ヴィチカバヤだ』と、ラロは石棺のような物体を睨みながら言う。
「あの……」とミスズが言う。「ヴィチカバヤとはどのようなものなのでしょうか?」
『私たちはこの場所を命の小屋と呼んでいます』とニヤが答える。『ここでは戦士たちの亡骸を使って、イアーラ族のための武器を製造しています』
「亡骸を使って……?」
『戦士たちの魂はイアーラ様のもとに還り、その亡骸も自然に還る。けれど戦士たちの心臓は、武器となってイアーラ族と共にあり続ける』
ニヤが指示を出すと、石棺のような物体の側に立っていた豹人が灰色の物体に触れる。すると台座に載せられていた豹人の亡骸が赤熱するように光を発し、粘土のような紺色の物体に変化していった。それはほんの一瞬の出来事で、そこで何が起きたのか全く分からなかった。
「何が起きたのですか?」ミスズの言葉にニヤは頭を振った。
『ヴィチカバヤに置かれている装置は、人類によってもたらされたものです。その秘密を知っているのは族長と一部のものたちだけです』
「人類?」と私は驚きながら言う。「旧文明期の人間のことか?」
『恐らく』ニヤの言葉のあと、台座に残されていた粘度のような物体が発光し、寄り集まりながら金属製の棒に変化していくのが見えた。『本来は肉体を使用せず、心臓だけを使います。そしてその戦士が偉大であればあるほど、製造される武器は強力なものになります』
『旧文明の鋼材と同じだ』とカグヤの声が聞こえる。『物質そのものが持つ質量だけじゃなくて、生命力や魂といったものの大きさに応じて、エネルギーの変換量に違いが出る』
「それなら、あの装置がマーシーの話していたもので間違いないんだな?」
『うん。そうだと思う』
「なあ」とナミが訊ねる。「どうして心臓だけを使うんだ?」
『それにはイアーラ族の死生観が関係しています』とニヤは言う。『私たちの肉体は小さな原子の核の集合体に過ぎません。そして万物は流転し、とどまることがありません。悲しみが私たちの心を深く沈め、流した涙が湖になって心を浮かび上がらせるように、いずれ肉体は砂漠の砂に還り、植物を育てる土やイアーラ族の住まい、そして私たちの命を守る防壁の建材として使用されます。全ての生命が自然の摂理にしたがって生命の循環のなかに存在しているのなら、それは私たちイアーラ族も決して例外ではないのです』
「……だから肉体は循環に還すのか」と、ナミは難しい顔をして腕を組んだ。「ここで使用されるのは、戦士たちの心臓だけなのか?」
『そうです。混沌の生物の死骸を利用していた時代もありましたが、それらの武器は恐ろしいヴィチカバヤとして忌避されるようになりました』
「恐ろしい? なにか理由があったのか?」
『はい』ニヤはそう言って頷いたが、理由は話してくれなかった。
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