第423話 豹人
深い森の何処かで、雪の重みに耐えられなかった大樹の枝が折れて、騒がしい音を立てながら落下していくのが聞こえた。けれどそれからいくらもしないうちに、薄暗い森は不気味な静けさを取り戻す。
『ところで、どうしてあんなに慌てていたの?』とカグヤがミスズに訊ねる。『連絡してくれたら、すぐに支援に行けたのに』
「それが……」と、ヴィードルに乗っていたミスズは白い息を吐き出しながら言う。「未知の生物と戦闘になる前にも、報告のために連絡しようとしたんですけど、全然つながらなくて」
『通信ができなかった?』
「はい。今は普通にできるみたいですけど……」
『妨害電波のようなものを発する装置が近くにあったのかな?』
「そういえば」と、二人の会話を聞いていた私は言う。「森に不和を起こそうとした教団も、妨害電波を出す装置を使っていたな」
『不死の導き手が使っていた装置は、電波塔に干渉する大きくて大袈裟な装置だったみたいだけど、あれが森の何処かに設置されているのかな?』
「ミスズ、それらしき装置を森で見かけたか?」
「見ていないな」と何故かヴィードルの後部座席に座っていたナミが答える。「それに不思議だったのは、連絡ができなくなったことだけじゃないんだ。化け物との戦闘中、ハクの声が突然聞こえなくなった」
「ハクの声?」と、私は首をかしげる。「どう思う、カグヤ。それも妨害電波の影響だと思うか?」
『ううん。ハクの声は電波というより、混沌の領域で使われるような『奇跡』に近い現象なんだ。だからそういった装置の影響を直接的に受けることはないと思うんだ』
「それなら、もっと他の何かが関係している可能性があるのか?」
「心当たりがある」と、境界の守り人と一緒に歩いていたテアが言う。「結界の向こう側からやってくる化け物が、同様の現象を引き起こすことがあるんだ」
「そいつはどんな姿をしているんだ?」と私は訊ねる。
「カタツムリの殻に入っているムカデみたいな化け物だ」
「それです!」と、テアの言葉にミスズが反応する。「私たちが戦闘になったのは、そのカタツムリに似た大きな生物でした」
『興味深いわね』と、ペパーミントの声が内耳に聞こえた。どうやら彼女は部隊の共有ネットワークを介して我々の会話を聞いていたようだ。『データベースを介した通信や、奇跡すらも遮断する能力を持った生物。……ねぇ、ミスズ。その化け物はどうしたの?』
「ハクが糸で捕らえて身動きできないようにしたあとに、殻の外に出てきた胴体を切断して倒しました」
『つまり死んだのね?』
「はい」
『それなら辻褄が合うわね』
「生物が死んだことで、周囲に生じていた何かしらの効果が止まった。そう考えているのか?」と私はペパーミントに訊ねた。
『ええ。今までに無いタイプの生物ね。可能なら死骸を回収してもらえるかしら?』
「まだ化け物の姿を確認していないから何とも言えないけど、そんなものを回収してどうするつもりなんだ?」
『生物の特性を調べるのよ。私ひとりだったら難しいけど今はサナエがいるから』
「彼女の知識が役に立つか……分かった。回収できるように何とかしてみるよ」
『ありがとう』
「それで、そっちの作業は順調か?」と、私は大樹の森の聖域で作業をしているペパーミントに訊く。
『ええ。地下トンネルに残されていた資材のほとんどを回収できたし、私たちの拠点開発の助けになりそうな装置も幾つか確認できたから、期待以上の成果だった』
「欲しかった農業機械の予備パーツは手に入ったか?」
『もちろん。すでに作業用ドロイドたちに頼んで輸送機に運んでもらったわ』
「これでトマトの栽培に一歩近づいたな」
『そうね』とペパーミントは声を弾ませる。
森の民が『聖域』と呼ぶ場所には、象牙色の巨大な貝殻にも見える構造物が存在している。森の民は知識を授けてくれる不思議な構造物に『母なる貝』という名を与え、神のように崇めてきた。しかしもちろんそれは『神』などではない。不可思議な粘液状生物である『マーシー』によって管理されている旧文明期の宇宙船だった。ペパーミントはその聖域の地下につくられた軌道列車のためのトンネルに放置されていた資材を回収し、ついでに母なる貝の第二格納庫に残されていた大型農業機械の予備パーツを探していた。農業機械は汚染された土を除染し耕作を可能にする旧文明の機械で、自給自足を目指す我々の組織には必要な機械となっていた。
大樹の向こうに視線を向けると、白蜘蛛と一緒にいる『豹人』たちの姿が見えてくる。私はペパーミントとの通信を切ると、境界の守り人で編成された部隊を周囲に展開してもらい、周辺警戒させると、豹人たちに近づいていく。
森の民が豹人と呼んでいるだけなので、彼らの正確な種族名はまだ知らなかった。彼らは人間に近い骨格を持った人型生物で、左右対称の身体を持ち、二本足で立ち、腕には人間のものと同じように機能する手がついていた。しかし彼らは猫科動物特有の頭部を持っていて、明らかに人間とは異なる種族だった。その豹人は衣類を身につけていたが、全身がフサフサとした毛皮で覆われている所為か、身につけている服は薄手のものだった。
豹人の身体を覆う体毛の柄や体色は様々だったので、個体の判別は難しくなさそうだったが、顔を見ても彼らの違いに気づくには苦労する。それほど豹人は互いに似ているのだが、彼らの眼から見ても人間は皆、同じような顔で映るので、それはお互い様なのだろう。だが豹人の雄と雌の区別は簡単についた。しかし理性と確かな知性を持つ豹人のことを動物のように呼称するのは失礼だと思うので、これからは男性、そして女性として区別することにした。
男性はライオンに似た容姿をしていて、二メートルほどの大柄の体格に立派なたてがみを持っていた。対照的に女性はチーターのように小さな頭部をもっていて、豹人の男性に比べて小柄だった。彼女たちは蠱惑的な美貌に、しなやかな肢体を持っていた。しかし特筆すべきは女性だけが持つ瞳だった。彼女たちの瞳は大きく、また角度によってその色を変化させた。まるで夢中になって絵画を見つめるように、その美しさの秘密を探りたくなる魅力があった。
ちらりと集団の奥に視線を向けると、六メートルほどの体長を持つ化け物の死骸が転がっているのが見えた。生物は錆鼠色の殻を持ち、その殻からはムカデのように無数の脚が生えた細長い奇妙な胴体が飛び出していた。悍ましい胴体も錆鼠色のゴツゴツとした外骨格に覆われていたが、今は綺麗に切断されていて、切断面を起点にして凍り付いていた。恐らくハクの使用する『暁の閃光』と呼ばれる奇跡によって切断されたのだろう。鋭い突起物に覆われた化け物の殻から視線を外すと、大樹の巨大な根に寄りかかるようにして座っていた豹人に目を向ける。彼らの身体に裂傷は確認できなかったが、腕や足の骨、それに肋骨を折られているのか、彼らはひどく苦しそうにしていた。
「あの化け物にやられたのか?」
「そうだ」とナミが答えた。「あの巨体を鞭のようにしならせて攻撃してきたんだ」
「硬そうな外骨格を持っているのに、そんな動きも出来るのか」と、私は素直に感心する。
『重傷なのは、肋骨をやられた豹人たちだね』と、カグヤが言う。『骨が内臓を傷つけている可能性があるから、すぐにオートドクターを使った方がいいかも』
「それに担架が必要です」とテアが言う。「守り人たちに連絡して、すぐに持ってこさせましょう」
『ありがとう、テア。ついでに備蓄されてる医療品も持ってきてもらっていい?』
「分かりました。すぐに持ってこさせます」
カグヤの操作する偵察ドローンが負傷者たちの側に飛んでいって、負傷の度合いを確認するためのスキャンを始めると、ミスズとナミもヴィードルを降りて、持参したオートドクターを使って豹人たちの治療を始めた。彼女たちの周囲には怪我をしていない豹人たちが集まってきて、心配そうに仲間たちを見つめていた。
すると大柄の豹人がのっそりと私の側にやってくる。彼の手には槍が握られていて、それは穂と柄が紺色の同じ金属でつくられたものだった。
「たずげ」と彼は低い声で言う。「がんじゃ、ずる」
私は彼の言葉に頷いて、それから何故か端末に登録されていた豹人の言語を同時通訳するための機能を起動させると、媚茶色の毛皮を持つ豹人に話しかけた。
「貴方たちの言葉は理解できるから、普通に話してくれて構わない」
私の言葉に彼は目を見開いて驚いたが、すぐに頷いて、彼らの使用する言語で普通に話をしてくれた。どうやら驚いたときの反応は人間と変わらないみたいだ。それに、無理をして人間の言葉を話していないからなのか、発音や活舌に違いが生じて、彼の声は別人のもののように聞こえた。
『深淵の使い手よ、助けに感謝する』と、豹人の肉声に覆いかぶさるように、合成音声で再現された彼の言葉が日本語で聞こえる。
「以前、森で恐ろしい化け物を相手にしたときに、貴方たちの仲間に助けられたことがある。そのときのことは忘れていないし、今も感謝している。だから気にしないでくれ。それより、他に負傷したものたちはいないか?」
『いや、負傷者はここにいるものたちだけだ』
私はハクが怪我をしていないか確認するために、ハクの体毛に触れながら訊ねた。
「貴方たちがハクの気配を追って、ここまで来たと聞いたけど――」
『目的は深淵の娘では無く、我々は深淵の使い手を探していた』
ハクが怪我をしていないことを確かめ終えると、私は大柄の豹人に向き直る。
「俺を探していた?」
『イアーラ族の族長は、深淵の使い手に重要な話があると言っていた。森で深淵の使い手を見つけたら、族長の意思を伝えて、我々の山に案内しろと言われていた』
「重要な話か……」
『しかし我々は化け物に奇襲された。姿も存在も感じられない恐ろしい化け物に』
媚茶色の毛皮を持つ豹人はそう言うと、ハクが殺した化け物を睨んだ。
「以前にも貴方たちの招待を受けたことがある。だから貴方たちの族長に会うことにも問題は感じていない。けど、その前に負傷者の治療をする必要がある。この近くに我々が築いた基地がある。そこまで一緒に来てくれないか?」
『こんな危険な場所に砦があるのか?』と、豹人は周囲に鋭い眼を向けながら言う。彼の瞳は透き通るような黄色一色だけだったが、女性たちの瞳のように、見る角度によってぼんやりと光を帯びていることに気がついた。
「森の民と協力して、結界の向こうからやってくる化け物の監視をしているんだ」
『そんなことをしていたのか……』と、彼の言葉には驚きの響きが込められていた。
担架を持ってこちら側にやってくる蟲使いたちを見ながら私は言った。
「境界の守り人たちだ。何かを企んでいる訳じゃないから、この辺りで彼らの姿を見かけても襲うようなことはしないでくれ」
『我々は森の子供たちとは争わない。しかし驚いた。人間は森の管理を放棄していたと聞いていた』
「放棄?」私はそう言って頭をひねる。「どういうことだ?」
『族長が言った』と、大柄の豹人は唸るように低い声で言う。『森の子供たちは母なる貝と共に森を管理していた。しかし森の子供たちは弱くなって数が減った。それ以来、森の管理をしなくなった』
『いつのことだろう?』とカグヤが疑問を口にする。
私は頭を横に振ると豹人に訊ねた。
「森の管理がされなくなった時期が分かるか?」
『分からない。ずっと昔のことだ。族長は知っているだろう』
「そうか……ところで、イアーラ族とは貴方たちの部族のことなのか?」
『そうだ。我々は女神イアーラの戦士だ』
「女神……大樹の森には、他にも部族があるのか?」
『ない。イアーラ族だけだ』
心配そうに仲間たちに視線を向ける豹人に向かって私は言う。
「質問ばかりしてすまない。最後にひとつだけ訊いてもいいか?」
『構わない』
「あの化け物について、何か知っていることはあるか?」と、私は地面に横たわる化け物を見ながら言った。しかし豹人は頭を横に振った。
『我々も見たのは初めてだ。あれはとても恐ろしい混沌の化け物だ』
『豹人が知らないってことは』とカグヤが言う。『今まで森にいなかった生物なのかもしれないね』
「混沌の領域からあれが這い出してくるようになったのは、最近のことなのか……」
私はそう言うと、名も知らぬ豹人に断りを入れ、それから化け物の側に向かう。
「こいつを運ぶのは苦労しそうだな」
『凍り付いていて良かったね。少なくとも臭いはしない』
「そうだな」
私は化け物のグロテスクな触角を見ながら頷いた。化け物の二本の触角は異様に長く、そこだけ毒々しい色をしていた。
『ロープでも巻いて、ミスズのヴィードルに運ばせる?』
「ああ……取り敢えず基地に運んで、それからペパーミントが来るのを待って輸送機で運ぼう」
『豹人たちはどうするの?』
担架に乗せられる豹人を見ながら私は言う。
「一緒に聖域に連れて行こう。豹人が敵じゃないことは分かっているけど、彼らの族長に会うのは、豹人についてマーシーから詳しく話を聞いたあとでもいいだろう」
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