第422話 境界


 地表を覆い隠すように、うっすらと積もっていた雪が暗い森に不気味な静けさを生み出していた。私はその静けさに耳を澄ませる。すると吹き付ける風が樹々の間に残していった冬の囁きを耳にする。それは白く染まった薄暗い森の何処かで、赤い頭巾をかぶった子供がひっそりと泣いているような、そんなか細い声にも聞こえる。


 子供は誰にも知られず、誰にも見つからない場所で、ひとりで泣いていた。どうしてそんな寂しげな情景が目の前に浮かんだのかは分からない。ただ、この異質な森のなかにいると、そんなつまらない想像すらも、本当に起きていることのように錯覚してしまう。


 その子供はどうなるのだろうか? オオカミがやってきて食べられてしまうのだろうか? それとも、オオカミよりもずっと恐ろしい生物がやってきて、子供を深い森の奥に連れ去ってしまうのだろうか。


 私はかつて山梨県として知られていた地域に来ていた。そこには『大樹の森』と呼ばれる巨大な森が存在していた。百メートルを優に超える樹々が立ち並び、それと同時に危険な大型生物が徘徊している地域でもあった。


 そんな危険な地域に、それも冬の凍える空気が森を支配している時期にやってきたのは、富士山の麓に広がる青木ヶ原樹海で確認されている『混沌の領域』に関する調査を行うためだった。


 まだ全容の把握に努めている段階だったが、富士山を囲むように広範囲に渡って設置されている旧文明の特殊なシールド生成装置によって、混沌の領域は我々の世界を侵食すること無く制御されていた。


 しかしその封鎖も完全なものでは無かった。稀に恐ろしく危険な異界の生物が、装置によって生成されているシールドの結界を越え、森の民の生活圏へとやってくることがあった。混沌に属する悍ましい生物群は、強い生命力を持ち、また他の生命体に対する容赦ない残忍さを持ち合わせていた。


 それらの生物の恐ろしさを身をもって知っている我々は、同盟関係にある鳥籠『スィダチ』の住人と協力し、異界の生物が森の民の脅威にならないために、そして結界を生成している装置を悪意あるものたちから守るための組織を結成した。どうして危険を承知で、我々が大樹の森に設置されている装置を守らなければいけないのか、その答えは明白だ。


 防壁として利用されている装置が破壊されてしまったら、青木ヶ原樹海を支配している混沌が日本中に広がることは必至だからだ。そしてそうなってしまえば、生活圏を奪われた人間は生きていくことができなくなってしまう。


 いずれは森の民だけではなく、日本に現存する他の鳥籠で暮らす共同体とも会談の場を設け、彼らの協力を得ながら森の管理をしていかなければいけないと考えていた。けれどそれを実現させるにも多くの時間が必要になる。


 排他的である森の民を説き伏せ、また森の民との争いが絶えなかった周辺地域の共同体に森の状況を説明し、協力の約束を取り付ける必要があった。しかしその協力が望めない現段階では、つまり、まだ何もアクションを起こしていない現状では、森の管理は我々で行う必要があった。


『レイ』思索に耽っているとカグヤの声が内耳に聞こえた。『あそこを見て』

 視界の先が拡大表示されると、巨大な円柱によって生成されているシールドの膜を越えて、こちら側にやってくる生物の姿が確認できた。その生物はまるで虎のように、蜜柑色と黒の体毛を持つオオワシに似た奇妙な生物だった。


 けれど頭部にくちばしに相当する器官は無く、代わりにウネウネと蠢くヒルのような物体が無数に確認できた。そしてその奇妙な生物が二メートルを超える巨体を誇示するように翼を広げると、翼の間から青黒い艶のある内臓が雪の積もる地面にドサリと落ちる。


 傷を負った状態でこちら側にやってきたのか、体内からどろりと垂れ下がる内臓からは湯気が立っていた。濡れた体毛から赤黒い血液が滴り落ちると、放射状に植物の根が分枝するように、真っ白な雪を穢しながら血液が広がっていく。


「あれはどうやって結界を越えたんだ?」

『分からない……』と困惑するカグヤの声が聞こえる。『シールドを生成している装置は正常に機能しているから、少なくとも機械の故障ではないと思う』


 私は胸元に吊るしていたライフルを構える。そしてシールドを生成する円柱の側に立つ大樹に築かれていた監視所から、未知の化け物に照準を合わせる。地上から十メートルほどの高さに設置されていた監視所と、化け物の距離は二十メートルほどしかなかった。


 だから内臓を引き摺り、体液を撒き散らしながらゆっくりとこちら側に向かって来る化け物の姿がハッキリと確認できた。しかしその動きはどこか不自然で、まるで痛みに耐えながら歩いているようでもあった。


 息を止め、悍ましい生物に向かって引き金を引く。乾いた銃声と共に化け物の頭部が破裂し、グロテスクな肉片と体液が周囲に飛び散るのが見えた。しかし化け物は頭部を失ってもなお、血に濡れた翼を広げながら、こちらに向かってよたよたと歩き続けていた。


「あいつらは銃弾では殺せないんだ」と、私のとなりにやってきた『テア』が言う。「あとは『境界の守り人』たちに任せてくれ」


 テアから視線を外し醜い化け物に視線を戻すと、灰色のフサフサとした毛皮に身を包んだ数人の森の民が、距離を取りながら化け物を囲み、一斉に火炎放射を放つのが見えた。化け物は抵抗することなく、まるで意思を持っていないかのように、じっと動きを止めた状態で焼き払われていく。


 口を閉じ黙りこんだテアにちらりと視線を向ける。森に生息する大型動物を狩り、加工した毛皮を使っているのだろう。黒髪に浅黒い肌を持つ美女も暖かそうな毛皮を纏っていた。


 その美女が境界の守り人と呼んだものたちは、かつて彼女が暮らしていた集落で戦士をしていた女性たちだった。テアはその集落の族長だったが、集落が沼地に呑み込まれてからは集落を離れ、装置を守るために編成された組織に合流していた。


 組織に属する人間はいつからか境界の守り人と呼ばれるようになり、そしてその組織の中核になっていたのはテアが率いる部隊だった。


 境界の守り人は主にスィダチの警備隊と、大樹の森に点在する集落や鳥籠に属する他部族の〈蟲使い〉たちによって構成されている。蟲使いとは、昆虫を戦闘に用いるものたちの通称で、彼らの頭部には角のようにも見える感覚共有装置が埋め込まれていて、蟲使いはその端末を介して、昆虫たちとの交信を可能にしていた。


 森の民と昆虫たちの関りは深く、彼らは昆虫と共存していて、それがごく普通のこととして受け入れられていた。境界の守り人に属する蟲使いたちの数は多く、彼らは部隊の主力にもなっているようだった。しかしそれは新たな問題を生みだしていた。


 スィダチの人間は、森の民が神として崇める『母なる貝』から与えられる『使命』として、危険な領域を監視する任に就き境界の守り人になるのに対して、他部族の蟲使いたちは主にスィダチの市民権を得るために境界の守り人になる。それは危険な任務に就く彼らに約束された権利だったが、その僅かな意識の違いが、部隊全体に微妙な温度差をもたらしていた。


 そしてそれは部隊の士気にも影響しかねなかった。しかしテアの存在によって蟲使いは団結していた。蟲使いたちと分かり合えるまで、どのような経緯があったのかは聞いていないが、かつて部族を束ねる族長であり、美しく聡明だったテアに魅了された人間の支持によって、テアは境界の守り人の長になった。それは我々にとって都合が良く、そして歓迎すべきことだった。


「あの化け物を知っていたみたいだけど、よく姿を見せるのか?」

 私がそう訊ねると、テアは乾いた唇を舐めて、それから言った。

「結界を越えてこちら側にやってくるのは、多くの場合あの化け物だよ」


「やつは傷ついていたみたいだけど、普段もあんな感じなのか?」

「普段はもっと酷い状況でやってくるよ。それでも放っておいたら、死骸から新たな化け物が産まれてくるから、急いで処分しなくちゃいけないんだ」


「死骸から?」

「そうだ。魚にも昆虫にも見える気味の悪いのが現れる。そいつらは厄介だ。他の生物に寄生して、まるでそいつの頭を操るように完全に支配するんだ」

「まさか人間にも寄生するのか?」


「人間に寄生するのはまだマシな方だよ。大型動物に寄生した奴らが厄介なんだ。廃墟の街を徘徊している『死人』のように、銃弾では簡単に殺せないから、動けないように徹底的に攻撃しないといけなくなるからな」

「俺たちの武器でも殺せない、人擬きのように意思を持たない生物になるのか」

「ああ。ひどく厄介だろ?」


 眼下の化け物に視線を向けると、数人の蟲使いがやってきて死骸の処理をしているのが確認できた。どうやら彼らは死骸を何処かに運ぶようだった。

「台車に載せられた死骸は何処に運ばれるんだ?」と私はテアに訊ねた。

「あの大きな機械のところだよ。ほら、なんとかのフットってあるだろ」

「なんとか……?」

『もしかして、建設人形のスケーリーフット?』


 カグヤが訊ねるとテアは何故か姿勢を正して、それから言った。

「そうです。ペパーミントの指示で死骸は全て機械に放り込めとのことだったので」

『死骸を分解して、再生したり寄生虫を出さないための処置をさせているのかな?』

「私にはさっぱりです」テアはそう言うと、思い出したように私に言った。「ところで、今日はどうしたんだ?」


「連絡したときにも言ったと思うけど、テアの部隊の様子と、建設途中の基地の様子を見に来たんだ」と私は言う。「何か問題は起きていないか?」


「問題か……」と、テアはシールドに目を向ける。常に色合いを変化させている構造色の薄膜の向こうには、濃霧が立ち込めていて、時折大きな影が浮かび上がることがあった。「問題は特にないかな。ミスズたちが輸送機で物資を運んできてくれるから、食事や弾薬の残りを気にせずに仕事ができる。沼地の集落で暮らしていたときよりも贅沢ができるくらいに。でも……」


「でも?」

「ここは少し寒すぎるかな」

「そうだな……」


 私はそう呟くと、シールドを生成していた円柱と向かい合うように建造されていた巨大な防壁に視線を向ける。紺色の防壁は二十メートルほどの高さがあって、その頂上には境界の守り人たちが異界の領域を監視するための監視所も設置されていた。


 境界の守り人の基地にもなっている防壁は、スケーリーフットと作業用ドロイドによって回収される旧文明の建物の瓦礫などを再利用しながら建造されている。そして材料となる旧文明の廃墟は、大樹の森のあちこちに埋まっているので建材には困らない。

 しかしその作業を行う建設人形はスケーリーフットだけだったので、作業は思うように進んでいなかった。最終的には、シールド生成装置に沿って富士山をぐるりと囲むように防壁を建てる予定だったので、その作業量は計り知れなかった。


 休むことなく、今まさに防壁を建造していた建設人形に視線を向けると、鉛色のモジュール装甲を持つ多脚型車両がこちらに向かって来るのが見えた。

『ミスズのヴィードルだね』とカグヤが言う。『何かあったのかな?』

「彼女から直接話を聞こう」


 私とテアは監視所を離れ、大樹の幹に打ち付けられていた不安定な足場を使って雪の積もる地面に下りていった。ミスズの搭乗していた軍用ヴィードルは、卵状の楕円形のコクピットを持ち、車体の左右には三本の脚と前方に短いマニピュレーターアームが二本ついていた。


 計八本の脚を持つように見えるヴィードルは、昆虫に似せて意図的に造られているように見えた。その球体型のコクピット上部を覆っていた防弾キャノピーが、コクピット下部に重なるように下にスライドしながら開いていく。


「ミスズ、何があったんだ?」とテアが慌てた様子のミスズに訊ねる。

「ハクと一緒に周辺の森を偵察していたときに、豹人の一団と遭遇しました」

「豹人?」とテアは顔をしかめる。「どうして彼らがこんな森の深い場所に?」


 豹人は猫科動物の頭部を持った人型生物で、森の民と共に大樹の森で暮らしていたが、人間と関わることがほとんどなく、また敵対することのない未知の種族だった。

「ハクの気配を追って、ここまで来たと言っていました」とミスズは言う。

「白蜘蛛の気配?」


「ミスズ、それよりも大事な話があっただろ」と、ヴィードルの後部座席に座っていたナミが言う。

「そうでした」ミスズは謝罪を口にして、それから言った。

「異界の領域からやってきた生物と戦闘になって、多数の負傷者が出たみたいです」


「彼らはミスズたちに助けを求めたのか?」と私は訊ねる。

「はい。異界の生物はハクと一緒に倒すことができたのですが、彼らのなかには重傷者がいました。恐らく治療にはオートドクターが必要になります」

『そういうことね』とカグヤが話を理解する。『とりあえず負傷者のいる場所に行こう。危険な生物がまだ周辺を徘徊しているかもしれない』

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